われわれが口にする食品の色はどのように決められているのだろうか。東京大学大学院の久野愛准教授は「消費者が『当たり前』と思う色に企業が着色している。アメリカではかつて赤色の着色料が物議を醸したことがある」という――。

※本稿は、久野愛『視覚化する味覚』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

■着色料の使用拡大で健康被害が多発

食品着色料と加工食品産業の拡大によって、20世紀転換期までにアメリカ家庭の食卓は、人工的に着色された商品が数多く並ぶようになった。それは、ケチャップ、缶詰、ソーセージ、チーズ、バターなど日常欠かせない食品から、アイスクリームやキャンディーなどの嗜好品にいたるまで多岐にわたった。

同時に、着色料の使用拡大に伴い、健康被害が多数報告されるようにもなったのである。着色料の中には、非常に毒性の強いものもあり、本来は食品向けではない化学物質が食品に利用されていることがあった。チョークの白い粉を小麦に混ぜてパンの白さを際立たせるなど、およそ飲食可能とはいえない物質が使われた事例なども報告されている。

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アメリカでは20世紀初頭まで、連邦政府が定める全国レベルでの食品規制法が存在しておらず、食の安全性を確保する対策がとられていなかった。19世紀末に各州では次第に食品規制法が制定され始めたものの、州を超えた商業活動を規制するものではなかった。

この頃、食品の安全性は、アメリカだけではなくヨーロッパ諸国や日本でも大きな社会問題となっていた。これは、アメリカと同じく、加工食品が多く出回るようになったことで着色料など合成化学物質の使用が増えたことが理由の一つと考えられる。

各国の対応は比較的早く、イギリスでは、1875年に食品・医薬品販売法が定められ、着色料を含め有害と認められた物質の食品・医薬品への使用が禁止された。ドイツは、1887年制定の着色料法により健康被害をもたらす食品着色料の使用を禁止した。オーストリア、フランス、イタリア、スイスなども同時期に有害着色料の使用規制を敷いた。日本でも、1878年に合成着色料の使用を規制する法律が定められた。

■食品着色が規制されていった背景

ヨーロッパ諸国や日本に比べ、アメリカの全国規制は遅く、20世紀に入ってからであった。19世紀末以降、すでに議会や政府内で大きな問題となってはいたものの、企業や政治家らの利害が絡み合う中でその制定は遅れ、ようやく1906年になって連邦規制である純正食品薬品法が成立した。

同法は、当時、有害物質の使用が特に問題視されていた菓子類について、着色料を含む有害物質の使用を禁止した。さらに、着色自体は禁止しなかったものの、パッケージやラベルに着色料など添加物を表示するよう義務づけた。

同法は、アメリカ農務省内に設けられていた化学局の管轄で、同局の化学者らが着色料の有害性を調べたり、基準を設けるなどしていた。中でも当時の局長ハービー・W・ワイリーは、純正食品薬品法成立の立役者でもある(同法は「ワイリー法」と呼ばれることもある)。ワイリーは、自身は着色料に関する知識を十分に有していなかったこともあり、有害性や規制の基準を定めるため、民間の化学メーカーで働いていたバーンハード・C・ヘスをコンサルタントとして迎え入れた。

このワイリーとヘスの連携の中でアメリカにおける食品着色規制の礎が築かれ発展していったのである。

1869年にミシガン州で生まれたヘスは、シカゴ大学で化学の博士号を取得、化学局に勤める前には、ドイツの一大化学メーカーであるバーディッシュ・アニリン・ウント・ソーダ工業会社(バスフ)で長らく化学者として働いていた。そしてワイリーのもとで働くようになった後も、民間と政府とを結ぶ重要な橋渡しとしての役割を担っていた。

■食品産業界に不利益が出ないように規制は進んだ

まずヘスとワイリーが取り組んだのは、無害の着色料を明確にし、その使用を食品メーカーに推奨することで健康被害を抑えることだった。純正食品薬品法制定の翌年、着色料規制の細かな取り決めをまとめた「食品検査決定七六」を発表し、7種類の合成着色料を「認可着色料」に指定した他、着色料製造に関して厳しい精製基準を設けた。

認可着色料とは、政府がその安全性について問題がないと判断した着色料のことである。ヘスが選んだ7種類は、不純物を除去し一定の精製基準を満たせば、他の着色料に比べて安全性が高いと考えられていた。だが当時は、認可着色料以外の使用が禁止されていたわけではなく、食品メーカーは、表示義務さえ守れば、他の着色料を使用することが可能だった。後述するように、1938年の法改正でようやく着色料を使用する際には認可着色料の使用が義務づけられることとなった。

さらにこれら7つの認可着色料は、食品メーカーや化学メーカーの間で比較的広く使用されていた着色料でもあった。また、これらの着色料は、黄色、オレンジ、青、緑、赤、真紅、チェリーレッドの7色で、複数の色を混ぜ合わせることで、事実上無限に近い色を作り出すこともできた。つまり、着色料使用をはじめ食品規制は、産業界に絶対的不利益にはならないよう考慮された上で進められてきたといえる。

■着色料の認可によって食品の着色にお墨付きを与えた

その後、1910年代から20年代にかけて、新たな食品着色料の開発と研究が進んだことに加え、政府が認可する着色料の種類が増えたことで、認可着色料の使用量は急速に伸びていった。当初7つだった認可着色料は、1931年までに15種類にまで拡大した。認可された着色料の総量が、1922年は約170トンだったのに対し、1925年には2倍近い320トンまで増加したのである。

着色料の使用が急増したことで、純正食品薬品法の問題点も浮き彫りとなり、法改正を求める声が政府内外から高まった。まず一つには、先述の通り、1906年法は認可着色料について規定を定めたものの、認可着色料以外の着色料を使用することを禁止するものではなかった。

また、取り締まりを行うアメリカ食品医薬品局(Food and Drug Administration、通称FDA)の権限が小さく、効果的な規制がなされていなかった。そこで1938年、連邦政府は1906年法を改正し、食品と医薬品に加えて規制対象を化粧品にまで広げ、連邦食品・医薬品・化粧品法を制定した。

同法による着色料規制に関する最大の改定は、食品着色を行う場合、認可着色料の使用を義務づけたこと、そしてもう一つが着色料の名称を定めたことである。これまでは、認可・非認可の区別なく、着色料は一般的に商標名で呼ばれていた。それを認可着色料に関しては、赤や青などの色名と番号を組み合わせた名称に変更したのである。

例えば、商標名「ギニア・グリーンB」と呼ばれる着色料は、「緑色1号(英語ではGreen No.1)」、「ライト・グリーン・SF・イエロー」は、「緑色2号(Green No.2)」となった。さらに同法は、FDAにこれまでよりも大きな権限を与え規制を強化し、その後20年間にわたり、食品や医薬品・化粧品にかかるアメリカ国民の健康を保障するための法的基盤として位置づけられることとなった。

純正食品薬品法、およびそれに続く連邦食品・医薬品・化粧品法は、有害物質の使用規制という目的と並び、またはそれ以上に、連邦政府が認可着色料の安全性を保証し、人工的な食品の着色が不可欠かつ正当な食品生産過程であることを認めたことを意味するものでもあった。着色料の安全性に対する政府のお墨付きは、食品着色を推進することにもつながり、人工的に着色された食品がアメリカの食卓に一層のぼるようになったのである。

■大戦後に新しい食品が食卓に並ぶようになった

連邦食品・医薬品・化粧品法は、長らくアメリカの食品規制・安全基準として用いられていたが、1950年代頃よりその改正の必要性が指摘されるようになった。その理由の一つに、第二次世界大戦後、食品産業、特に食品加工業が急速に発展したことが挙げられる。乾燥加工技術や冷凍技術の進展や様々な合成化合物の開発によって、新しい食品が食卓に並ぶようになったのだ。

例えば、卵と水を混ぜるだけでケーキを作ることができるケーキミックスや、カラフルなゼラチンデザートの「ジェロー」、一つの箱の中に一食分のメイン、サイドディッシュ、デザートを詰めた冷凍食品「TVディナー」などである。斬新さと便利さを兼ね備えたこれらの食品は、第二次世界大戦後のアメリカで豊かな社会の象徴でもあった。

これら加工食品は、着色料や香料をはじめ多くの合成添加物を含んでおり、食品業界では、化学物質の使用が急増した。アメリカ食文化史家ハーヴェイ・レヴェンスタインによれば、1950年代にアメリカ食品化学産業は「黄金時代」を迎えたのである。

食品添加物の使用拡大に伴って、化学物質による健康被害が拡大した。これら添加物は、連邦食品・医薬品・化粧品法の規制対象だったものもあったが、有害性に関する知見は未だ不十分で、同法で使用が許可されていた添加物が後に有害だとわかったものなどもある。

■赤と緑に着色されたポップコーンで健康被害

例えば、1950年秋、オレンジ色のハロウィンキャンディーを食べた子供たちが下痢や腹痛を訴える事故が起きた。さらに1955年には赤と緑に着色されたポップコーンを食べた200人近い人々が健康に何らかの異常をきたし大きなニュースとなった。後にこれらの健康被害の原因が、使用されていた着色料だったことがわかったのだが、それらは、1938年法で使用が認められていたものであった。これにより同法の改正と有害性基準の見直しが急務となったのである。

写真=iStock.com/AnVyChicago
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これまで着色料の有害性に関する検査は、着色料メーカーが連邦機関の一つである農務省に個々の着色料に関するデータを提出し、同省の化学者が行っていた。このため政府の負担が大きく、検査に時間がかかると同時に、審査数の多さやその煩雑さから毒性を十分に判定することが困難であった。

1950年代の健康被害をきっかけに、連邦政府は、1958年に食品添加物改正法、その2年後には着色料に特化した着色料改正法を制定し、食品規制強化に乗り出した。この着色料改正法では、当時認可されていた合成着色料の全てについて、毒性を再検査することが定められた。さらに、有毒性検査は、連邦政府ではなく着色料メーカーが行うことが義務づけられ、安全性の再確認と新たな検査体制の確立を図ったのである。

■赤色の食品を巡る食品企業と消費者の攻防

連邦政府、産業団体、消費者団体が食品規制に関してせめぎ合いを続ける中で、1960年代に最も議論を巻き起こした着色料が「赤色2号」と呼ばれるものである。これは、他の赤色着色料に比べて安価であるだけでなく、褪色しづらく、さらに様々な食品に利用することができた。

例えばアメリカでは、清涼飲料水やアイスクリーム、ケーキ、スナック菓子、ハムやソーセージなどの食肉加工品、調味料など幅広い食品に使われていた。この赤色2号は、長らく最も安全な着色料の一つとして考えられていたもので、1907年に連邦政府が認可をした最初の合成着色料の一つだったのである。

だが、1950年代に初めて赤色2号の安全性を疑う調査結果が発表されたのだ。その後、1960年にはソ連の研究者らが、発癌性を持つ物質であると発表した。アメリカ政府関係者や研究者の一部は、ソ連の研究は信憑性に欠けその結果を信じることはできないとして、即座に規制が設けられることはなかった。これに対し多くの消費者団体は、政府が企業と手を組み消費者を危険に陥れていると訴え、早期に赤色2号の使用を禁止するよう求めた。

新聞記事でも赤色2号に関する記事が多く取り上げられるようになると、消費者は抗議や安全性に関する疑問を綴った手紙を政府に送ったりもした。これに対し政府関係者らは安全性に問題がないことを強調し、企業利益のために国民の健康を蔑ろにしているわけではないことを訴えた。

当初、赤色2号の有害性やソ連の研究結果に懐疑的だったのはアメリカ政府だけではなく、その規制をめぐる対応は国によって様々であった。ドイツは赤色2号の使用を全面禁止した一方、フランスとイタリアは一部の食品のみへの使用を認め、イギリス、カナダ、オーストラリア、日本では使用が認可された。これは、食品や使用される添加物の安全基準が国によって異なっているためで、食の「安全性」が社会的・政治的に構築されたものであるともいえる。

■大手菓子メーカーは11年にわたって赤色チョコを封印

アメリカでは、赤色2号の安全性をめぐる議論が20年近く続き、消費者団体らの反対活動に屈する形で、1976年にようやく連邦政府は使用禁止を発表した。赤色2号の使用が禁止されたことで、食品企業は商品生産・マーケティング戦略を新たに模索する必要に迫られた。

解決策の一つは、別の赤色着色料を使用することで、代替品として最も広く利用されたのが赤色40号である。だが、これは赤色2号に似た色ではあったものの、値段が2号よりも高く、食品によってはくすんだ色になってしまい、完璧な代替品とはならなかった。さらに、赤色40号の安全性にも疑問が持たれており、アメリカ政府は使用を認めたのに対し、赤色2号の使用を認めていたカナダでは、安全性を担保できないとして40号の使用を禁止した。

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赤色40号のような代替品を使用する企業があった一方、赤い商品の生産を中止する食品企業も現れた。例えば、チョコレート菓子メーカーのマース社は、1976年に看板商品でもあるエムアンドエムズ(M&M’s)から、赤色にコーティングされたチョコレートを外すことを決定した。同社によるとそれまで自社の商品に赤色2号は使用していなかったものの、赤色全般が多くの消費者に不安を与えることを危惧してのことだった。1987年に赤色を復活させるまでの11年間、赤いエムアンドエムズは市場から姿を消すこととなったのである。

■カラフルな食品が不健康なイメージと結びつく理由

今日当たり前のように使用されている食品着色料は、食品の色を簡単かつ安価に操作できるものとして、色の商品化を促進させてきた。政府が食品規制法によって着色料使用を規制すると同時に、一部の着色料の使用を認可したという事実は、着色が食品生産過程の一部として認められたということを意味しており、これによって、食品着色は一つの産業として確立されていったのである。

久野愛『視覚化する味覚』(岩波新書)

また、食品着色の産業化と色の商品化は、食品の大量生産が進む中で色の画一化をより一層促すものともなった。黄色いマーガリンや赤いケチャップ、緑色のグリーンピースの缶詰など、多くの人が「当たり前」だと思うような色を大量かつ安価に再現する手段となったのだ。そしてそれは、私たちの視覚環境、そして味覚と結びつけられた視覚(色)が次第に標準化されてきた過程でもあった。

同時に、有害な着色料や化学物質による健康被害が拡大したことで、食べ物の色は、新鮮さや味、食べ頃を示すだけでなく、安全性の基準を示すようにもなったのである。そして、派手に着色された菓子や鮮やかで均一な色をした加工食品などが、一般的に不健康なイメージと結びつく要因の一つとなったともいえるだろう。これは、食品産業と化学産業との強固な結びつきによって、何を「食べ物」と考えるかが大きく変化し、人と食べ物、さらには自然との関係の大きな転換を意味してもいた。

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久野 愛(ひさの・あい)
東京大学大学院情報学環准教授
東京大学教養学部卒業、デラウエア大学歴史学研究科修了。2021年4月より現職。近著に『Visualizing Taste: How Business Changed the Look of What You Eat』(ハーバード大学出版局)がある。
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(東京大学大学院情報学環准教授 久野 愛)