仕事を休んだ女は、都心のホテルへと向かい…。平日昼間にだけ許される、婚約者にも秘密の時間
恋に仕事に、友人との付き合い。
キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。
すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす?
▶前回:見栄を張ることに疲れた30歳OL。周囲にひた隠しにしていた“至福のご褒美”とは

vol.2 ホテルでの贅沢な“おひとりさまランチ”
「ああ、もう。私、どうしたらいいの!?」
ある火曜日のランチタイム。上司とのミーティングを終えた桃子は、パニックに陥っていた。
― まったく、無理難題を押し付けるのも休み休みにしてほしいわ。
ただでさえ雅人のことで疲れ切った脳は、完全にオーバーヒート。シューシュー煙を出している。
「もうダメ…」
今にも頭がパンクしそうだ。思わずデスクに突っ伏した桃子だが、これでは何も解決しないと、すぐ我に返る。…このオーバーヒートした脳を鎮めるには“アレ”しかない。
― 大至急、休暇を取らなければ。
パソコンを開いた桃子は、すぐさま業務スケジュールを確認する。
木曜日の午後なら、会議や外出の予定がない。それに気づいた桃子は、その場でスケジュールに「午後休暇」と入力した。
そのままオフィスの外に出て、ある場所に予約の電話を入れる。
「12時30分から1名、コースをお願いします。可能なら、ペアリングも付けていただけますか?」
電話を切った桃子は、思わず「ふぅ」と声を漏らした。
「これで、ひとまず安心…」
仕事にプライベートに、順調だったはずの桃子を襲ったのは…?
浜野桃子、29歳。上智大学を出て、現在はある製薬会社のマーケティング部で働いている。
ずっと都内の実家で暮らしていたが、2年前から人形町で一人暮らしを始めた。
付き合って1年半になる彼・雅人は、徒歩10分のところに住んでいて、いわゆる“巣ごもり愛”を楽しんでいる。
公私ともに順調、だった。…少なくとも、昨日までは。
◆

迎えた木曜日。
「お疲れさまでした。午後はお休みをいただきます」
仕事を終えた桃子は、オフィスを後にしてタクシーに乗り込んだ。向かったのは『マンダリン オリエンタル 東京』だ。
今日は、ホテル内のレストラン『センス』を予約している。贅沢な“おひとりさまランチ”をする予定なのだ。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
案内されたのは、東京を一望できる窓際の席。さすがは高層階。窓の外に広がる景色は、晴天も手伝って息を呑むほど美しい。
うっとりと外を眺めていると、すぐにシャンパンが運ばれてきた。
― 私、お疲れさま!
声には出さず、心の中でひとり乾杯する。
一口飲むと、自然に頬が緩んだ。午前中、ヒィヒィ言いながら死に物狂いで仕事を片付けてきた甲斐があった。
平日昼間からシャンパンを飲む背徳感と幸せに、桃子は酔いしれる。だが今日の目的は、ただランチを楽しむだけではない。
「さて、と…」
桃子は、この4日間に起きた出来事を思い返した。
◆
月曜日の夜。
「俺、12月から大阪へ転勤になったんだ」
夜ご飯を食べ終え、2人でテレビを見ていたとき。雅人が、おずおずと切り出してきた。その瞬間、テレビの中から「辛い、辛すぎるぅ〜!」と騒ぎ立てる芸人の声が響く。
激辛好きな桃子は、四川料理特集に見入っていたのだ。しかし彼のただならぬ雰囲気を感じ取り、すぐさまテレビを消した。
「…えっ?」
何を言っているのか、正直わからなかった。
雅人は、大手不動産会社に勤務している。全国や世界各地に支店があるものの、基本的には出張がメイン。当面は東京勤務だと、本人も言っていたはずだ。
「大阪で大規模な再開発案件があるんだけど。それにアサインされることになったんだ。正直、俺も驚いてる」
「そ、そう…」
青天の霹靂とは、まさにこのこと。混乱した桃子は「そう…」と繰り返すことしかできない。
すると雅人が、桃子の手をギュッと力強く握りしめてきた。
「桃子、大阪についてきてくれないか?」
― え!?っていうか、今プロポーズされた…?
予期せぬ転勤でパニックになっていたところに、まさかのプロポーズ。脳が処理できる範疇を超えたのだろう。桃子の頭の中は真っ白になってしまった。
ひとまず落ち着こうと、テーブルに置かれたティーカップに手を伸ばす。
「きゃっ!」
だが、手元が狂って紅茶をこぼしてしまった。
「ご、ごめん。いろいろビックリしちゃって…」
慌てて謝る。すると彼は、テーブルにこぼれた紅茶を拭きながら「そうだよな。ごめんな」と、ポツリとつぶやいたのである。
雅人が謝る必要はないはずだ。彼に申し訳なさを感じさせていることが情けない。だが、すぐにプロポーズの返事をすることもできなかった。
「少し時間がほしいの」
今の桃子は、こう答えるのが精一杯だった。
予期せぬ転勤とプロポーズで混乱する桃子。今度は仕事でも…?
迫られる人生の決断
プロポーズされた翌日。会議を終えた桃子は、部長から少し残るように言われた。
― なんの話だろう?
よくも悪くも心当たりがない。もしかして雅人との件が頭から離れず、心ここにあらず状態だったことを見抜かれてしまったのだろうか。
社会人7年目にもなって、プライベートのゴタゴタで仕事が手につかないなんて恥ずかしい。
緊張した面持ちで桃子が待っていると、部長が満面の笑みを浮かべながら、こう告げてきたのだ。
「今度、新しいリップクリームを販売するだろう。そのプロモーションの責任者を、浜野さんにお願いしたいと思ってるんだ」
「え、えっ!?」
予期せぬオファーだった。黙り込んだ桃子に、部長がすかさずフォローを入れる。
「浜野さんのこれまでの実績を評価してのことだ。不安かもしれないが、挑戦してみてほしい」
「ちょっと…。あ、えっと…」
雅人の転勤、プロポーズ、新規プロジェクトへのオファー。
人生を左右する大きな出来事が一度に降りかかり、ショート寸前だった桃子の思考回路は、完全に停止した。
― 大変なことになってしまった…。一度落ち着かないとマズイ。
そして桃子は、部長にこう申し出たのだ。
「新規プロモーションの件、光栄です。ただ、少しお時間をいただけないでしょうか」
「え?」
予想外の反応だったのだろう。部長は心配そうな表情を覗かせる。だが、すぐに「わかった。いい返事に期待しているよ」と、ほほ笑んだのだった。
◆
「なんて美味しいんだろう…」
初めに登場したのは、蒸籠に入った美しい点心。
さっそく食べると、旨味の凝縮されたスープが一気に口の中へ広がった。うっとりするようなその美味しさに、思わず目をつぶってしまう。
「ふぅー」
今なら、冷静になって考えられる。桃子は自分が直面している問題をゆっくりと洗い出し、整理してみることにした。
まずは雅人の転勤。そしてプロポーズと仕事のオファー。考えられるシナリオを描いていく。
シナリオ1。プロポーズを受けて、雅人についていく。仕事は辞める。
シナリオ2。プロポーズを断って、仕事を引き受ける。雅人とは別れる。
「んー、ちょっと極端。雅人との結婚も、仕事も引き受けたい…」
続いて出された温かいスープを味わいながら、今度は優先順位をつけてみる。こんなことを繰り返しているうちにコースは終盤、気づけばデザートに到達していた。
「よし。もう大丈夫」
会計を済ませ、レストランを後にする。その頃には、桃子の心は決まっていた。

その夜。桃子はプロポーズの答えを伝えるため、雅人を部屋に呼び出した。
「プロポーズはお受けします。だけど…」
桃子は一呼吸つき、彼の目をジッと見つめながら続ける。
「仕事は続けたいの。だから当面は別居になる。これが、プロポーズを受ける条件」
そして、仕事で千載一遇のチャンスが訪れていることも併せて説明する。雅人は、時折「うーん」と声を漏らしながら、桃子の話を静かに聞いていた。
「この仕事を終えたときに、もう一度考えさせてほしいの。退職、転職、別居婚…。いろいろな選択肢があると思うから」
言いたいことはすべて言った。桃子は、雅人の答えをジッと待つ。
「…わかった」
そして彼は、ホッとした表情を見せながらこう続けたのだ。
「断られるんじゃないかって、ここ数日ヒヤヒヤだったんだ。桃子らしい答えだな。じゃあ、俺も条件出していいかな?」
一瞬、桃子は身構える。自分は条件を出したくせに、彼からも条件を出されるとは思ってもいなかったのだ。
「あんまり頑張りすぎないこと。今後は近くで見てやれないから心配で。それが守れないなら、別居は嫌だよ」
嫌という言葉とは裏腹に、雅人の表情は優しい。おそらく彼は、キャパオーバーになりがちな桃子を心配しているのだろう。
「わかった。絶対に守る。ありがとう!」
桃子は、雅人にギュッと抱きついた。
仕事にプライベートに忙しい桃子。彼女が考える“贅沢なひととき”とは…?
新たなチャプター
「新規プロモーションの件ですが、お待たせして申し訳ありませんでした。ぜひ私にやらせてください。頑張ります」
桃子がそう伝えると、部長は「それはよかった」と安堵の表情を見せた。そしてすぐさま、プロジェクトについて話し始める。
「では、明日にでもキックオフミーティングをしよう。メンバーには、私から声をかけておく」
「はい!」
仕事もプライベートも、新たなチャプターに突入だ。不安はある。だが今は、期待感のほうが大きかった。
◆
1ヶ月後。
「もうダメ…。こんなときは“おひとりさまランチ”しかない!」
2時間に及ぶミーティングを終えた桃子は、疲れ果てていた。
新規プロモーションの件で、広告代理店となかなか厄介なトラブルが発生。連日対応に追われていた矢先、アシスタントの後輩が転職することになったのだ。
事件続きで、脳も身体もヘロヘロだ。気力を振り絞って急いでスケジュールを確認し、休暇を確保する。その足でレストランに予約を入れた。
「これでちょっと安心。頭の整理ができるわ…」
そして迎えた、休暇当日。死に物狂いで仕事を片付け、本日のレストラン『レ セゾン』へと向かう。
席につき、まずはシャンパンをゴクリ。
「ふぅー」
目をつぶって深呼吸すると、パニック状態だった心と頭が落ち着きを取り戻していく。
「さてと。問題を整理することにしますか」

食事を終えた桃子は、コーヒーを飲みながら、ふと考える。
女の人生は、岐路が多くて日々迷うものだ。キャリアや結婚、出産に子育て。次から次へと決断を迫られる。パニックに陥るのも無理はないだろう。
だが、よく考えずに即決したり周囲に流されてしまっては、いいことなどひとつもない。
そんなときに必要なのは、ゆったりと過ごす時間。自分はどうしたいのか?だけを考え、思考を整理する、大事なひとときだ。
そのためには忙しない日常から離れ、心身ともにリラックスすることが大切なのである。
「…なんとなく、方向性が見えてきたかも」
頭の中が整理された桃子は、会計をお願いした。
平日のランチタイム。
喧騒とは無縁の空間で、優雅な食事をいただきながら、ひとり頭の中を整理する。
これが、仕事にプライベートに忙しい桃子にとって、最高の“贅沢時間”なのだ。
▶前回:見栄を張ることに疲れた30歳OL。周囲にひた隠しにしていた“至福のご褒美”とは

