広島東洋カープの前田健太投手が6日の横浜DeNAベイスターズ相手にノーヒットノーランを達成した。快挙達成にはキープレーがつきものだが、この試合でも5回、ラミレスの左中間大飛球を左翼のニックが体をよたよたしながらもナイスキャッチ。その後は危なげなく抑え込んだ。

 亡くなった"記録の神様"故宇佐美徹也氏の名著、「プロ野球記録大鑑」には、ノーヒートノーランのリストだけでなく、エピソードのつまった試合を紹介している。その中で最も面白いのが巨人の左腕エース・中尾輝三(後の碩志)の2度の快挙だろう。1939年11月3日のセネタース戦、ノーヒッター史上最多の10四球を出しながら1点も許さなかった。4回無死一塁で野口二郎の打球は二塁手の差し出すグラブをかすめて右前に。一塁走者・尾茂田叶はライナーで捕られると思ってスタートが遅れ、右翼・中島治康の好返球で二塁封殺。走者なしか2アウトからなら完全にヒットだった。2度目の快挙となった1941年7月16日名古屋戦も8四死球を出したが、8回無死一、二塁で牧常一の右前に落ちた打球。再び右翼・中島が機敏に送球し、一塁走者・木村進一を刺してピンチを救った。ノーコンと中島の強肩が2度のノーヒッターにつながったわけだ。

 さて、本題は先日見つけた珍ノーヒッターだ。メジャーの1901年以降のノーヒッター全試合のボックススコアがすべて掲載されている本を読んでいると、外野手に補殺がついている試合があった。中尾投手のようなケースかと思っていたら違っていた。1923年9月7日、レッドソックスの横手右腕ハワード・エームキーがアスレチックス戦に登板。相手投手のスリム・ハリスに左越えに打たれ、打者走者が二塁進塁。ところが、一塁ベースを踏み忘れるというチョンボでアピールアウト。そのため左翼手に補殺がついて、記録上は"レフトゴロ"。その後もぴしゃりと封じて快挙達成というのだ。

 エームキーは続く11日のヤンキース戦でも1安打完封の快投を演じた。その1安打が快足ホワイティー・ウィットの三塁強襲。当日の公式記録員は後にテイラー・スピンク賞を受けたフレッド・リーブ記者。即座にヒットとしたが、終わってみればエームキーが打たれたのはこの1安打のみ。多くの記者が「あれは失策」だと記録への訂正を要求したが、リーブは信念を曲げなかったという。もし、記録訂正なら1938年レッズのジョニー・バンダー・ミーアより先に2試合連続ノーヒッターの名誉に浴していたはずだ。

 エームキーは35歳となった1929年、アスレチックスに所属。レギュラーシーズンは8勝に終わったが、通算3731勝の名監督コニー・マックがカブスとの第1戦の先発投手に抜擢。当時のシリーズ新記録となる1試合13個の三振を奪って"奇策成功"として後世に語り継がれている。後にプロ野球コミッショナーとなった内村祐之氏は月刊ベースボールで、1950年に毎日オリオンズが日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)初戦に、公式戦4勝の42歳の若林忠志投手起用のケースを、エームキー起用とだぶらせて書いています。