相手チームの戦いぶりについて、とやかく言うのはあまり好きではないが、この際、仕方がない。

北朝鮮はロスタイムが5分ではなく3分だったら、勝ち点1を得ていた。惜しい試合。善戦と言えば善戦だ。しかし、敗戦に変わりない。結局、最後に1点を奪われてしまった。守り決れなかったわけだ。僕が相手のサポーターなら、ブーイングを飛ばしているに違いない。

思い出すのは10年前。トルシエジャパンがフラット5で臨んだ一戦と言えば、お分かりいただけるだろう。2001年4月、コルドバで行われたスペイン戦だ。日本は徹底的に守った。0−0の引き分けは目前だった。が、最後の最後にバラハにゴールを奪われ惜敗。トルシエは試合後の記者会見で「守備はオッケー、あとは攻撃的精神を持って臨めば」と語った。善戦をアピールしたわけだが、地元スペインのメディアは冷ややかだった。恥も外聞もなく5人バックで守備を固めるそのやり方に「日本ははるばるスペインまで何をしに来たのか」と、嫌みたっぷりに語った。

結果的に守りっぱなしになったのなら、力不足と納得できるが、意図的に守り、敗れた場合は、空しさばかりが残る。次に繋がらない収穫のない敗戦、肥やしにならない敗戦になる。

北朝鮮は、このところずっと守備的だ。申し訳ないが、志の低ければ、エンタメ性も低い、見ていて面白くないサッカーをする。痛々しささえ覚えるサッカーだ。このやり方では、勝利を収めない限り(アウェーでの引き分けもそれに値するが)、サッカーの魅力、楽しさは伝わらない。

「弱者は守備的に」は古い発想。「弱者ほど攻撃的に」迫るのが現代のサッカーだ。強者は弱者に、威勢良く攻撃的に出てこられることを恐れている。

弱者が引いて構えれば、強者のボール支配率は、実力差以上に上昇する。この日の日本の支配率は66%だったが、少なくとも6%分は、相手からプレゼントされたようなものだった。つまり日本は、相手が引いて構える敵陣ゴール前では苦戦を強いられても、中盤では、ある程度自由に組み立てることができる立場にあった。自慢のパスワークだけは、十分披露できる環境にあった。相手がプレッシング系ではないので、いわゆる日本らしいサッカーは、むしろしやすかったはずだ。

しかし、相手から6%プレゼントされているにもかかわらず、中盤でパスは綺麗に回らなかった。パスミスも多かった。悪いタイミングでボールを奪われることもしばしばあった。相手が引いて構えることと、それは密接な関係になかった。上手く行かない理由は、自分自身にあった。外的ではなく内的なものだった。

9月2日付けのメルマガで述べた不安は的中した。僕はそう思う。本田圭佑不在。苦戦を強いられた最大の原因は、ズバリこれに尽きる。僕はそこで、これまで(南アW杯初戦以降)の日本代表は「本田ジャパン」だと述べた。ザッケローニに監督が替わってもその傾向は続いていた。「ザックジャパン」と言うより「本田ジャパン」だと。

本田不在で戦うことになった今回は、そうした意味で注目の一戦だった。「ザック」の真価が問われる一戦と言えた。文字通りのザックジャパンが拝める試合として注目したわけだが、試合の満足度は低かった。本田抜きでは苦戦必至の予想は的中した。

柏木には申し訳ないが、本田とは役者が違った。代役は果たせなかった。柏木を抜擢したザッケローニの判断にも、疑問を抱かざるを得なかった。他に選択肢はなかったのか。率直に言って判断ミスだと僕は思う。

日本のパスワークは汚かった。美しくなかった。鋭さも意外性もタメもなかった。結果として相手の守備陣の逆を突けなかった。お家芸に偽りありと言いたくなった。