純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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3月24日、大正製薬の新商品宣伝のためのライブアートイベントにおいて、「才色兼備」で売り出し中のクルヴァマネジメントヘラヘラ所属モデル兼「銭湯絵師」(いつ「見習い」がとれたのか?)勝海麻衣が描いた「作品」を、イラストレーターの猫将軍女史が知って、2012年の自作の模倣であると指摘。勝海は、試行錯誤の結果、構図がたまたま似ただけ、というような弁明で、よけい火に油を注いだ。

こんなの、弁明の余地など、ありえまい。そもそも、パクリにしても、ヘタすぎる。拡大したくらいで絵が歪むなど、看板屋にもなれまい。だいいち、原画の阿吽すら理解せず、図柄をまねただけとは、画家以前の話。Be Creative (創造的になろう)というスポンサーのコピーの前で腕を組んでポーズを取っている姿が、あまりに恥ずかしい。結局のところ、身の程知らずの自称「アーティスト」の余興なのだろうが、人前でカネを取って許されることではない。(武蔵美の空間演出(インスタ)デザイン学科出で、芸大院の学歴ロンダのようだが、この画力の低さを見る限り、大学入試以降、絵は描いていないのではないか。)

一方の猫将軍女史。彼女は、絵が好きで、好きで、高卒でそのままプロに。イラストレーターとして二次創作のようなものもあるが、そのオリジナリティは隠しようもない。同じライブアートでも、彼女の中から、トラが、ハチが、トカゲが、絵に飛び出す。この業界でその圧倒的な画力を知らない人はいない彼女の、イコンとも言うべきトラをパクるとは、バカにもほどがある。

似ているかどうかの問題ではない。なにが違うかだ。北斎とその娘、お栄。『百日紅』。杉浦日向子の原作よりも、原恵一の映画の方がわかりやすい。北斎の画いた龍を娘のお栄がまねる。だが、しょせんまねなのだ。一方、北斎は、腹に龍を飼っている。だから、そこに龍が見える。どういう姿で、どう動くか、腹の中の龍が暴れて、北斎の手に龍を画かせる。同様に、おそらく猫将軍女史の腹にもトラがいる。そのトラは、動物園のトラでも、草原のトラでもない。柄が違う。それは、まさに猫の将軍としてのトラ。

絵を描く、のではない。それは看板屋やペンキ屋の仕事だ。絵で描く。なにを? 腹の中でトグロを巻き、外へ出せと暴れ騒ぐバケモノを。佐村河内の一件で、ピアノも弾かないで、と、ゴーストの方が揶揄していたが、まさに馬脚。モーツァルトもベートヴェンも、作曲にピアノなどいらない。音楽は、腹の中で鳴っている。それをペンで楽譜に書き出すだけ。脚本家が脚本を書くのに、役者たちを目の前に並べてしゃべらせたりしないのと同じ。脚本家の腹の中で、多くのキャラクターたちがかってにばらばらに語り出し、動き出す。それらを追って、その声を聞き取るところにこそ、脚本家の才能が求められる。

音楽家なら、腹の中にオーケストラがある。ピアノなどいらない。芝居を文字の戯曲で読むように、レコードの無い昔は、みな紙のスコア(総譜)を読むだけで、交響曲を自分の腹で聞いた。五線上に見る音が、いっせいに腹で鳴るのだ。指揮者など、いまでもそれができて当たり前。絵描きも同様。トラを見て、トラを見て、トラの絵、トラの映画、トラの物語。そのうち、トラが奇妙な立体のバケモノになって、昼も、夜も、腹の中を歩き回る。最初はおとなしかったのに、やがて暴れ出す。トラを腹に飼う、とは、そういうこと。自分がトラに取り憑かれ、全身を乗っ取り、画面に出てきてしまう。それを描くのに、コピペなど、むしろよけいなだけ。

耳で聞かなければわからない腹「ツンボ」の連中のために、聞こえる音にしてやっているだけ。腹「メクラ」の連中のために、見える絵にしてやっているだけ。だが、結局、音にしても、絵にしても、聞こえないやつには聞こえない。見えないやつには見えない。やつらは、音を聴いて、音楽を聞かない。絵の具を視て、絵を見ない。ようするに、味わう才能、感性が無い。だから、音や絵の輪郭だけをなぞる。腹で聞く、腹で見る、ということの意味など、永遠にわかるまい。

ところで、この一件に先立って、3月20日、慶応大学は、メディア学者・ジャーナリストの渡辺真由子の学位を取り消した。本人は、手続云々と抗弁しているが、オレオレオレだよオレ(アレ)氏の検証を見るに、これまた弁明の余地はあるまい。注目すべきは、今回の一件と、この学位取り消しが、それこそ同じ構図だ、ということ。これらに、前の小保方の一件、その他を加えてもいい。

どうも近ごろ、アーティストやジャーナリスト、学者、医者、弁護士、さらには漫才師まで、肩書を、タレントとして有名になるためだけの差別化手段と勘違いしている連中が多すぎるのではないか。実際、「医学部は研究ではなく、有名になるために行きます」と公言するバカもいる。東大医学部卒といっても、理二(工学系)からの保健学科(これはこれで厚労省のエリート候補なのだが)出だったり、「国際」弁護士といっても、米国のどこか一州の資格があるだけだったり。あれほど多学部多学科で、年限も異なる東大なのに、その「首席」を名乗ったり。本人も、事務所も、マスコミ受けする売り文句程度のつもりなのだろうが、世間をなめすぎ。本物になるのが、本物でいるのが、どれだけ大変なことか、わかっていない。

たとえ本物の資格を取ったとしても、いまそれをやっていないのなら、もはやそれではない。かつて医師免許を取っても、その後、医師をしていないのなら、いま、医師ではあるまい。最先端をキャッチアップし続けているのでなければ、人の命は預かれまい。弁護士も同じ。近年の現場実務も無しに、資格だけでクライアントを守れるものか。松任谷由実や竹中直人、稲川淳二など、本業がしっかりしている連中は、いまさら画家やデザイナーを名乗ったりしない。まして、まともに絵も描けないのに、まともに研究もできないのに、「アーティスト」や「学者」を名乗るのが、どれほどの恥か。

半分は自戒だ。これまで、運良く教授になれても、著書も無く、あっても引用と注釈の寄せ集めを著書と称しているだけで世を去って行った人々を数多く見てきた。あれはみじめだ。ああはなりたくない。劣等感と優越感のコンプレックスで他人にマウンティングしたがるが、そんなことをしたって自分の才能の無さはごまかしきれない。人知れず夜中に自分の頭の中を探り、論文を何度も何度も書き直す。それが研究者の仕事。絵描きのくせに、人前で心底の真剣な問題をペラペラと軽々しくしゃべってドシロウトに絡まれるなどというやつも、自業自得。絵描きなら、黙って絵で描け。絵で語れ。ほんとうに理解している人々は、タレントのようなトークではなく、作品にこそ大きく期待しているのだから。

もちろん、物事は、当たるときも、はずれるときもある。だが、絵描きなら、人に見せる見せないにかかわらず、絵に画かずにいられないなにかがあるはず。歌手なら、たとえだれも聞いてくれなくても、歌わずにいられないなにかがあるはず。研究者なら、だれにも理解されなくても、探究せずにはいられないなにかがあるはず。そういうバケモノを腹の中で育てないなら、絶対に大成しない。その生き方を外面だけ猿マネしても、道化にさえならない。 一方、本物は、かならず本物が見ている、聞いている。どうせ世間には、真贋など、わからない。しかし、本物であれば、本物になれば、絶対に本物の目、耳、心を動かすことができる。

メディアや広告代理店、スポンサーも、いいかげん、すこしは考えた方がいい。ニセモノは、しょせんニセモノだ。いつかバレる。いっしょに地獄に引きずり込まれる。自分にわからないのだから、世間だってかんたんに欺ける、などと甘く考えない方がいい。世の中には、見る目のある人、聞く耳のある人がいる。逆に、本当の本物は、タレントではない。渋い顔でインスタントコーヒーなんかのCMに出たりしないし、経営者のインタビュー番組なんかもレギュラーでやったりしない。本業第一で、そんなヒマではない。メディアがダメなら、見る方がすこしは考え、ニセモノに騙されない本物になろう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)