伝説の大巨人、アンドレ・ザ・ジャイアントの知られざるトリビア
一晩で106杯のビールを飲み、慢性的な痛みにも治療を拒んだ、プロレス界の伝説=アンドレ・ザ・ジャイアントの素顔を捉えたテレビ映画が米国現地時間4月10日に公開。その内容について触れてみる。
大げさに振る舞うことこそがプロレスを大舞台での真剣勝負というファンタジーに仕上げてくれている。しかし偉大なる伝説の一角を担ったアンドレ・ザ・ジャイアントにあってはこの魅惑こそが現実だった。この火曜日の夜に先行公開された、
ジェイソン・ヘアーが監督したHBOのドキュメンタリー『アンドレ・ザ・ジャイアント』では、プロレス界の象徴的スターの名声、謎めいた実生活、圧倒的な力とその裏にある痛みを描いている。取材相手は同じくプロレス界の伝説たるハルク・ホーガン、リック・フレアー、ビンス・マクマホン、さらにはビリー・クリスタルやロビン・ライトなどのハリウッドのスターたち、そしてアンドレの家族や友人たちにも及んでいる。
アンドレ・ザ・ジャイアント(本名:アンドレ・ロシモフ)、1970〜80年代の世界のプロレス界において「大巨人」の名をとどろかせた人物。彼は生涯を通じて文字通り成長を続けた。先端巨大症の結果である。ロシモフの身長は7フィート4インチと記録され体重は520ポンドとされている。
「CGI以前には、アンドレ・ザ・ジャイアントただ一人しかいなかったんだ」とベテランのプロレス研究家デビッド・シューメイカーはこのドキュメンタリー作品で、こう説明している。このドキュメンタリーから分かる簡単なトリビアをローリングストーンではまとめてみた。
・アンドレが急速に成長し始めたのは15歳になってから。
監督のジェイソン・ヘアーは大巨人の10代の内面にフォーカス。彼が年相応の背丈だった子ども時代の写真も登場する。「彼はかわいらしい子どもでした」とアンドレの兄、アントワーヌ・ロシモフはこの作品の前半でこう語っている。「普通だったんです」と。しかし15歳になって全ては変わってしまった。アンドレの他の兄弟、ジャックは母親が彼の成長が止まらないのを心配していたのを回想する。
また、ロシモフは先端巨大症への治療は一貫して拒否。かつてアンドレの踝(くるぶし)の骨折の治療を担当したハリス・エット医師がアンドレのサイズに関する医学的推定を示している。「彼の踝(くるぶし)の骨は普通の人の膝の骨ほどの大きさがあったんです」とエットは語る。エット医師はアンドレの症状は治療可能なものではあったが、意味のないことはしたがらないとして治療を拒んだという。つまり、選手としての個性を歪めてしまう可能性をアンドレ自身が危惧したのだ。だが、そのせいで肉体的な痛みや苦しみは増すばかりだった。
アンドレの映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年)で共演したケイリー・エルウィスもその痛みこそが、彼の酒浸りの原因になったと見ている。「彼は痛くて飲まずにはいられれなかったの」と。
・アンドレは従来のプロレスの縄張りのフォーマットを乗り越えた、史上初めての国民的プロレススターの一人だった。
元プロレスラーで解説者のジェリー・ローラーとプロレス・ジャーナリストのデイブ・メルツァーが、プロレス界の縄張りについて語っている。フランス生まれのロシモフが欧州から米国にやってきた当時、北米には32もの異なる縄張りが存在していたとローラーは推定している。アンドレは各地域で2カ月間の興業をこなしては転戦していた。「当時、この業界にはアンドレ以外には完売間違いなしのスター選手はいなかったんだ」とローラーは語る。ただ、それゆえにアンドレは絶え間なく移動せざるを得なくなったのだ。
・北米でのアンドレ・ザ・ジャイアント人気の熱は当初あっさり収まってしまった。
当初はロシモフを一目見ようと会場に群衆が列を成したものだが、いったん本人を見てしまうと、繰り返し見ようとする魅力はまだ彼にはなかった。ビンス・マクマホン・シニアの助力で、アンドレは当時の北米各地のプロレス興行にピンポイントで参加できた。その結果、アメリカ国内および世界中でも名声を得た最初期のプロレスラーになれたのだ。
・アンドレは各地の地元マスコミを通じてお茶の間の人気者になった。
1970〜80年代、アンドレはアメリカ各地のローカルニュースによく出演した。マスコミ関係者と握手する際、手を強く握り締めてはその痛みに相手の顔をしかめさせたり、2000ポンドのバーベルを軽々と上げたり、インタビュアーに自分の巨大な衣装を着させたり、ファンに自分を売り込む術を彼は知っていたのだ。中でも人気番組『60 Minutes』で彼はこうも言っている。「(この身体は)神さまが俺の生計を支えるために下さったものだ」と。
・アンドレのおならは文字通り危険物だった。
ロシモフが町から町への旅暮らしのなかで、その巨大な身体が収まるクルマが用意できるかどうか、また飛行機の座席一列が確保できるかどうかで、悩まされていたのは有名な話だ。巡業ではプロレスラー仲間と移動する。そのときに、大巨人の強烈なおならに皆が悩まされたという。かつてのプロレス・パーソナリティ、ジーン・オーカーランドは、アンドレがやらかす前にはいつもその左足を上げて見せ、それが周りへの一種の合図になっていたことを回想する。ハルク・ホーガンは、アンドレがある飛行機の中で盛大にやらかしてしまったときの話をする。パイロットたちや乗組員がパニックに陥り、外の空気を求めたそうだ。
・アンドレは格下扱いされることを嫌った。
アンドレはいつも大物としてふるまうことが期待されていたと、ローラーもヴィンス・マクマホン(ヴィンス・マクマホン・シニアの息子)もホーガンも語っている。そしてアンドレが、”マッチョマン” ランディ・サベージやアンドレと同じ巨大レスラーのビッグ・ジョン・スタッドとの間に抱えていた問題を指摘。
当時、スタッドはこのフランスの大巨人にしか許されていないようなこと、例えばトップロープを一跨ぎしてリングに上がることなどをしては、アンドレを怒らせていた。「アンドレは誰が本当のボスなのかを見せつけたかったんだ」とマクマホンは語る。アンドレとのハードな試合の後、スタッドがあわててロッカールームに駆け込んできてスタッフと一緒に消えようとした。マクマホンがスタッドにどこに行くのかと聞くと、スタッドはすぐ出ていくと言って、こう答えたという。「彼に殺されちまうよ!」と。
・ギリギリのタイミングで決まったアンドレとハルク・ホーガンの決戦
この作品のクライマックスは1987年「レッスルマニアIII」でのアンドレ・ザ・ジャイアント対ハルク・ホーガンの名勝負である。9万3173人という観客を驚かせたのは、ホーガンがアンドレにボディスラムを繰り出した瞬間だ。
しかしマクマホンによると、実現までには大きな困難があったとのこと。ロシモフの巨人症は悪化する一方だったが、ホーガン戦の前にWWFへの復帰をまず説得する必要があった。また、ホーガンも試合は実現するまで先が読めない状態であったと詳細を語っている。ホーガンは試合中盤にアンドレが無事に試合をこなせていることに気づき、安堵したという。ホーガンは同試合の最後の歴史的な瞬間を口立てで再演してくれている。「スラーム! レッグドロップ!」と。
・アンドレの酒豪ぶり
「彼はリングの上でのパフォーマンスも好きだが、その後のパーティの方が大好きだった」とマクマホンは笑う。ヘアーの取材したプロレス関係者たちは皆口をそろえて、アンドレがどれだけの大酒飲みだったのかを語る。リック・フレアーはアンドレが一晩で106杯のビールを飲んだと語り、ローラーは少なくとも24杯だと述べ、オーカーランドはまずワインひと箱だと証言する。
・色褪せない「アンドレ伝説」
アンドレ・ザ・ジャイアントをめぐる物語は本人同様に神話的だ。この作品は繰り返しそれを描いている。アンドレにはサメのような80本の歯があるという噂があったというが、マクマホンはそれもアンドレ伝説の魅力の一部だと認めた。「アンドレに関してはどんなことでも言えるし、きっと信じられるはずだ」と。
アンドレの生涯はずっとつらいものでもあり、彼はその残酷さに敏感にもなっていった。何もかもが彼にとっては小さすぎたとホーガンは語っている。飛行機のトイレが使えずバケツで用を足すことになったり、街角で目立ち群衆に追いかけられたり、「彼は泣いていた」とオーカーランドは語る。「あれだけの大きな男が、と思うだろうが彼は泣いていたんだ」と。
・世界8番目の不思議
この作品で最も胸を突かれる瞬間で、アンドレが自分の日常生活上の困難を語るシーンがある。「どこでも何もかもが難しいんだ」と深くしかし疲れた声でアンドレは語る。「巨人用には何もない。視覚障碍者にも、その他の障碍者にもいろいろあるのに。巨人には何もない。だから自分からそちらに合わせるしかない。でもそれはたやすいことじゃないんだ」と。
「アンドレにはコスチュームは不要だった。顔のペインティングも、へんてこなローブもいらなかったんだ。彼はとにかく唯一無二だったんだ」とジャーナリストのテリー・トッドはこの「世界8番目の不思議」を、5000余りのマッチを数百万の観衆の前で戦い抜いたアンドレをこう語る。「彼は創造の世界から生きたままやってきたような存在だったんだ」と。
大げさに振る舞うことこそがプロレスを大舞台での真剣勝負というファンタジーに仕上げてくれている。しかし偉大なる伝説の一角を担ったアンドレ・ザ・ジャイアントにあってはこの魅惑こそが現実だった。この火曜日の夜に先行公開された、
アンドレ・ザ・ジャイアント(本名:アンドレ・ロシモフ)、1970〜80年代の世界のプロレス界において「大巨人」の名をとどろかせた人物。彼は生涯を通じて文字通り成長を続けた。先端巨大症の結果である。ロシモフの身長は7フィート4インチと記録され体重は520ポンドとされている。
「CGI以前には、アンドレ・ザ・ジャイアントただ一人しかいなかったんだ」とベテランのプロレス研究家デビッド・シューメイカーはこのドキュメンタリー作品で、こう説明している。このドキュメンタリーから分かる簡単なトリビアをローリングストーンではまとめてみた。
・アンドレが急速に成長し始めたのは15歳になってから。
監督のジェイソン・ヘアーは大巨人の10代の内面にフォーカス。彼が年相応の背丈だった子ども時代の写真も登場する。「彼はかわいらしい子どもでした」とアンドレの兄、アントワーヌ・ロシモフはこの作品の前半でこう語っている。「普通だったんです」と。しかし15歳になって全ては変わってしまった。アンドレの他の兄弟、ジャックは母親が彼の成長が止まらないのを心配していたのを回想する。
また、ロシモフは先端巨大症への治療は一貫して拒否。かつてアンドレの踝(くるぶし)の骨折の治療を担当したハリス・エット医師がアンドレのサイズに関する医学的推定を示している。「彼の踝(くるぶし)の骨は普通の人の膝の骨ほどの大きさがあったんです」とエットは語る。エット医師はアンドレの症状は治療可能なものではあったが、意味のないことはしたがらないとして治療を拒んだという。つまり、選手としての個性を歪めてしまう可能性をアンドレ自身が危惧したのだ。だが、そのせいで肉体的な痛みや苦しみは増すばかりだった。
アンドレの映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年)で共演したケイリー・エルウィスもその痛みこそが、彼の酒浸りの原因になったと見ている。「彼は痛くて飲まずにはいられれなかったの」と。
・アンドレは従来のプロレスの縄張りのフォーマットを乗り越えた、史上初めての国民的プロレススターの一人だった。
元プロレスラーで解説者のジェリー・ローラーとプロレス・ジャーナリストのデイブ・メルツァーが、プロレス界の縄張りについて語っている。フランス生まれのロシモフが欧州から米国にやってきた当時、北米には32もの異なる縄張りが存在していたとローラーは推定している。アンドレは各地域で2カ月間の興業をこなしては転戦していた。「当時、この業界にはアンドレ以外には完売間違いなしのスター選手はいなかったんだ」とローラーは語る。ただ、それゆえにアンドレは絶え間なく移動せざるを得なくなったのだ。
・北米でのアンドレ・ザ・ジャイアント人気の熱は当初あっさり収まってしまった。
当初はロシモフを一目見ようと会場に群衆が列を成したものだが、いったん本人を見てしまうと、繰り返し見ようとする魅力はまだ彼にはなかった。ビンス・マクマホン・シニアの助力で、アンドレは当時の北米各地のプロレス興行にピンポイントで参加できた。その結果、アメリカ国内および世界中でも名声を得た最初期のプロレスラーになれたのだ。
・アンドレは各地の地元マスコミを通じてお茶の間の人気者になった。
1970〜80年代、アンドレはアメリカ各地のローカルニュースによく出演した。マスコミ関係者と握手する際、手を強く握り締めてはその痛みに相手の顔をしかめさせたり、2000ポンドのバーベルを軽々と上げたり、インタビュアーに自分の巨大な衣装を着させたり、ファンに自分を売り込む術を彼は知っていたのだ。中でも人気番組『60 Minutes』で彼はこうも言っている。「(この身体は)神さまが俺の生計を支えるために下さったものだ」と。
・アンドレのおならは文字通り危険物だった。
ロシモフが町から町への旅暮らしのなかで、その巨大な身体が収まるクルマが用意できるかどうか、また飛行機の座席一列が確保できるかどうかで、悩まされていたのは有名な話だ。巡業ではプロレスラー仲間と移動する。そのときに、大巨人の強烈なおならに皆が悩まされたという。かつてのプロレス・パーソナリティ、ジーン・オーカーランドは、アンドレがやらかす前にはいつもその左足を上げて見せ、それが周りへの一種の合図になっていたことを回想する。ハルク・ホーガンは、アンドレがある飛行機の中で盛大にやらかしてしまったときの話をする。パイロットたちや乗組員がパニックに陥り、外の空気を求めたそうだ。
・アンドレは格下扱いされることを嫌った。
アンドレはいつも大物としてふるまうことが期待されていたと、ローラーもヴィンス・マクマホン(ヴィンス・マクマホン・シニアの息子)もホーガンも語っている。そしてアンドレが、”マッチョマン” ランディ・サベージやアンドレと同じ巨大レスラーのビッグ・ジョン・スタッドとの間に抱えていた問題を指摘。
当時、スタッドはこのフランスの大巨人にしか許されていないようなこと、例えばトップロープを一跨ぎしてリングに上がることなどをしては、アンドレを怒らせていた。「アンドレは誰が本当のボスなのかを見せつけたかったんだ」とマクマホンは語る。アンドレとのハードな試合の後、スタッドがあわててロッカールームに駆け込んできてスタッフと一緒に消えようとした。マクマホンがスタッドにどこに行くのかと聞くと、スタッドはすぐ出ていくと言って、こう答えたという。「彼に殺されちまうよ!」と。
・ギリギリのタイミングで決まったアンドレとハルク・ホーガンの決戦
この作品のクライマックスは1987年「レッスルマニアIII」でのアンドレ・ザ・ジャイアント対ハルク・ホーガンの名勝負である。9万3173人という観客を驚かせたのは、ホーガンがアンドレにボディスラムを繰り出した瞬間だ。
しかしマクマホンによると、実現までには大きな困難があったとのこと。ロシモフの巨人症は悪化する一方だったが、ホーガン戦の前にWWFへの復帰をまず説得する必要があった。また、ホーガンも試合は実現するまで先が読めない状態であったと詳細を語っている。ホーガンは試合中盤にアンドレが無事に試合をこなせていることに気づき、安堵したという。ホーガンは同試合の最後の歴史的な瞬間を口立てで再演してくれている。「スラーム! レッグドロップ!」と。
・アンドレの酒豪ぶり
「彼はリングの上でのパフォーマンスも好きだが、その後のパーティの方が大好きだった」とマクマホンは笑う。ヘアーの取材したプロレス関係者たちは皆口をそろえて、アンドレがどれだけの大酒飲みだったのかを語る。リック・フレアーはアンドレが一晩で106杯のビールを飲んだと語り、ローラーは少なくとも24杯だと述べ、オーカーランドはまずワインひと箱だと証言する。
・色褪せない「アンドレ伝説」
アンドレ・ザ・ジャイアントをめぐる物語は本人同様に神話的だ。この作品は繰り返しそれを描いている。アンドレにはサメのような80本の歯があるという噂があったというが、マクマホンはそれもアンドレ伝説の魅力の一部だと認めた。「アンドレに関してはどんなことでも言えるし、きっと信じられるはずだ」と。
アンドレの生涯はずっとつらいものでもあり、彼はその残酷さに敏感にもなっていった。何もかもが彼にとっては小さすぎたとホーガンは語っている。飛行機のトイレが使えずバケツで用を足すことになったり、街角で目立ち群衆に追いかけられたり、「彼は泣いていた」とオーカーランドは語る。「あれだけの大きな男が、と思うだろうが彼は泣いていたんだ」と。
・世界8番目の不思議
この作品で最も胸を突かれる瞬間で、アンドレが自分の日常生活上の困難を語るシーンがある。「どこでも何もかもが難しいんだ」と深くしかし疲れた声でアンドレは語る。「巨人用には何もない。視覚障碍者にも、その他の障碍者にもいろいろあるのに。巨人には何もない。だから自分からそちらに合わせるしかない。でもそれはたやすいことじゃないんだ」と。
「アンドレにはコスチュームは不要だった。顔のペインティングも、へんてこなローブもいらなかったんだ。彼はとにかく唯一無二だったんだ」とジャーナリストのテリー・トッドはこの「世界8番目の不思議」を、5000余りのマッチを数百万の観衆の前で戦い抜いたアンドレをこう語る。「彼は創造の世界から生きたままやってきたような存在だったんだ」と。