星野仙一氏の弱点は性格にあり…広島カープのレジェンド“ミスター赤ヘル”山本浩二氏が語るライバルたちとの戦いと長嶋茂雄氏との知られざるエピソード

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昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアウンサー界のレジェンド・紱光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

昭和50年に4番打者として広島カープを初優勝に導いたのが山本浩二氏だ。4度のホームラン王に輝き、18年の現役生活の間に放ったホームランは歴代4位、大卒選手では最多となる536本。「ミスター赤ヘル」と呼ばれた広島カープのレジェンドに紱光和夫が切り込んだ。

【前編】からの続き

星野仙一は「性格を読んでカモにした」

中日のエースとして活躍した星野仙一氏とは同学年。明治大学の星野氏と法政大学の山本氏は六大学野球でしのぎを削り、プロに入ってからも好敵手として戦った。山本氏は星野氏との相性が良く、通算対戦成績は打率3割5分1厘、ホームラン10本。

山本:
僕は大学時代、星野からほとんど打ってないんですよ。あいつは意外とピッピッて投げてくるんです。そんなに球は早くなかったのに。大学の時は結構詰まらされてました。

紱光:
でもプロ2年目に星野さんからサヨナラヒット。

山本:
星野の場合は、威嚇で胸元近くに投げてくるじゃないですか。怖いじゃないですか。
でも、「星野は本当は優しいヤツだから当てては来ないだろう」と思って打ちに行くと、肩が開かずにトップの位置からスムーズにバットが出て、自分のポイントで打てる確率が高くなるんですよ。
星野いわく、「山本浩二の家の柱の何本かワシが立ててやった」。そういう言い方してました(笑)。

盟友にして最大のライバル「鉄人・衣笠との絆」

広島でチームメートだったのが衣笠祥雄氏。2215試合連続出場という金字塔を打ち立てた鉄人だ。山本氏と衣笠氏は同学年で、ともに広島打線を引っ張った。

紱光:
やっぱりカープでは衣笠さんが最高のライバルだったわけですよね。

山本:
ああ、本当に良きライバルでしたね。

紱光:
良きライバルとはいえ、最初は仲が悪かったでしょう。

山本:
良くはなかったです(笑)。
話はしますよ。しますけど、ほとんど私生活では付き合わなかったですね。
お互いやっぱり負けたくない気持ちがありますから、キャンプで練習してても意識するんですよね、どこにいるかと。
全体練習が終わると、どちらかともなくバットを持ってバッティングケージに行くみたいな。張り合ってやってましたね。

紱光:
衣笠さんもやっぱり浩二さんの動きを見てたんでしょうね。

山本:
多分見てましたね。それで、練習も結構遅くなりますよね。でも、あいつが辞めるまでこっちも辞めんぞと思いながらやってました。
優勝するまではそういう状況があった。優勝してからは、お互い家族同士で飯食いに行ったりするようになりましたね。それで、練習中に、お互いのいいところとか、ここをなんとかしたらどうかという話をするようになって、それまでは腹の中にしまっていたものを口に出して言える仲になりました。

広島が初優勝を果たした昭和50年のオールスター、衣笠氏と山本氏は2打席連続でアベックホームランを放った。これが当時、社会現象にまでなった「赤ヘル旋風」のきっかけとなる。

紱光:
「赤ヘル軍団」という言葉が生まれたのは、あの試合でしたよね。

山本:
3番で出してもらったんです。後ろが王さん。5番が田淵でキヌ(衣笠氏)が6番でした。
最初の打席で近鉄の太田幸司からホームラン打って、2打席目が阪急の山田久志から連続で打って、キヌも同じように2打席連続。それで「赤ヘル旋風」って言われるようになりました。
ミスターが引退されて1年目の監督の年じゃなかったかな。

「コーちゃん打って」“雲の上”長嶋茂雄氏からかけられた言葉

紱光:
今、ミスターの話が出ましたけど、ちょっと破格な感じがあったんですか

山本:
ありました。全く雲の上の人です。話もできないくらい。
やっとオールスターに出られるようになって、声かけてもらえるぐらいですよね。
僕はすごく印象に残ってるシーンがありましてね。まだ2年目かな。3年目かな。
ジャイアンツ戦で1番打った時があるんですよ。1番ですから塁に出たいと思ってセーフティーバンドしたんです。ファールになったんですけど、ミスターが前にダッシュしてきて、「コーちゃん、打って打って」って。

山本:
それがね。すっごく印象残ってるんですよ。
「そんな小細工せずに打ちなさい」っていうのは理解したんですが、よく考えてみたらミスターのほうがしんどいんですよね。前に来るのが(笑)。

紱光:
でも、まさか「コーちゃん」って呼ばれるとは思わなかったでしょう。

山本:
もう嬉しくて。いまだにコーちゃんですからね。
いきなりコーちゃんって呼ぶその真意はミスターにしか分からないですよ。
それとミスターの頭の良さね。いろいろエピソードあるじゃないですか。あれは、ある程度演技だと思いますね。

紱光:
絶対そうですね。あれはね、記者を喜ばせる。それで記者を通じて、ファンを喜ばせるっていう。

山本:
その通りだと思います。
一緒にゴルフとかするじゃないですか。一緒に回ってて、ミスターのボールがグリーン乗って、僕はちょっと寄せをしなきゃいけない。でも、ピンの手前にミスターが座ってラインを見てるんですよ。「ミスター行きます」って言ったら、ライン見ながら「はい、どうぞ」って、そのまま動かないんですよ。
そういう人なんですが、何ホールの何番をあそこに打ってこうなったなとか、全部覚えてるんです。

広島市民30万人が感涙…伝説のカープ初優勝

昭和50年、前年まで3年連続最下位だった広島は、シーズン途中で就任した古葉竹識監督のもとで快進撃、阪神・中日との三つ巴の争いを制し、球団創設25年目で悲願の初優勝を果たした。

紱光:
当時の広島市民は約84万人でしたけれども、30万人の人がパレードに出た。

山本:
もっと来られたじゃないかと思うぐらい熱狂的。
初優勝ですから、拝む人がいれば、遺影を持って涙を流している人がいたり…。
「ありがとう」という声が一番多かったですね。

紱光:
当時、“弱小球団”という言葉が広島の代名詞みたいになっていた。それが悔しかったんでしょうね。

山本:
そうでしょうね。ファンもそうでしょうし、選手ももちろん悔しかったですよ。
でもね、まさか優勝すると思ってないんですよ。5月までの季節だったのが6月・7月になる。おいおい、ひょっとしたらっていうのが徐々に湧き上がる。そのまま8月も行ってる。

紱光:
その時のチームの雰囲気はどうだったんですか。優勝についての話し合いはあったんですか。

山本:
ないです、ないです。口に出さないんです、みんな。
優勝するかもしれないと思うと、みんなプレッシャー感じてるんですよ。

優勝を決めた試合は10月15日に敵地・後楽園球場で行われたジャイアンツ戦。エース・外木場の力投、助っ人・ホプキンスのホームランなどで、4対0でジャイアンツをくだし、古葉監督が宙を舞った。

山本:
あの後楽園が赤一色になりましたからね、一塁側も。あれは驚きましたね。あんなにカープファンがいるんだと思って。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/4/2より)

【後編】へ続く