見上愛

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彰子が皇子を産んだらややこしいことに

 ついに中宮彰子(見上愛)が一条天皇(塩野瑛久)の子を懐妊したことで、次の東宮(皇太子)がだれになるか、宮中ではしきりに噂されるようになった。NHK大河ドラマ『光る君へ』の第36回「待ち望まれた日」(9月22日放送)。

【画像】“大河”劇中とはイメージが変わる? 「彰子」を演じた見上愛

 藤原道長(柄本佑)が公任(町田啓太)や斉信(金田哲)、行成(渡辺大知)らと酒を飲み交わす場面でも、その話題になった。斉信が「中宮様のお子が皇子であったら、道長は盤石だ」と言うと、公任は「皇子であったらややこしいになるのぉ」と、核心を突いた。一条天皇の第一皇子は、亡き皇后定子が産んだ敦康親王(渡邉櫂)だが、もし彰子が皇子を産めば、それは最高権力者である道長の孫だから、第一皇子を差し置いて、第二皇子が東宮になるかもしれない。公任はそのことを「ややこしいこと」と表現したのである。

見上愛

 これに対して、行成は「ややこしいことはございませぬ。これまでの習いによれば、居貞親王様のあとは帝の一の宮、敦康親王様が東宮になられるのが道理にございます」と正論を述べた。公任が「敦康様の後見は道長だが、もし道長が後見をやめたらどうなる?」と問い返すと、行成は「そのようなことを道長様がなさるはずはございません」。そう言い切ったものの、聞いていた道長は、話題をさえぎってしまった。

 言うまでもない。道長は中宮が皇子を産んだら、自分の孫にあたるその子をこそ、東宮にしたいと思っていたからである。

 続く場面では、現東宮の居貞親王(小菅聡大)が登場し、こう言った。「わが子が、敦良が次の東宮にならねば、冷泉の皇統は途絶える。中宮様のお産みになる子が皇子でないことを祈るばかりだ」。

 居貞の発言には少し説明が必要だろう。

 この時代は両統迭立といって、村上天皇の子であった冷泉天皇(63代)の系統と円融天皇(64代)の系統が、交互に即位することになっていた。だから、冷泉の子の花山(65代)の次は、円融の子の一条(66代)が即位した。冷泉の子で花山の弟の居貞親王(のちの三条天皇)にすれば、自分の次は円融系でいいが、そのとき東宮には息子の敦明親王を就けたい。だが、道長の娘である彰子が一条の皇子を産んでしまうと、敦明は弾かれて、東宮になる余地がなくなってしまいはしないか。そう心配しているのである。

敦康が彰子に育てられた理由

 そして、敦康親王自身が心配する場面も登場した。敦康は育ての親である中宮彰子に「子が産まれたら、私と遊ばなくなるのでしょ?」と問いかけ、次第に核心を突いていった。「私は中宮様の子ではございません。まことの子がお産まれになれば、その子のほうが愛おしくなるのは道理です」。

 その問いに対する彰子の返答は、おそらく史実の彰子の思いに近かったと思われる。「親王様がほんの幼子であられたころから、親王様と私はここで一緒に生きて参りました。今日までずっと。帝の御渡りもないころから、親王様だけが私のそばにいてくださいました。この先も、私のそばにいてくださいませ。子が産まれても、親王様のお心を裏切るようなことは決してございませぬ」。

 実際、敦康親王は道長の思惑によって、彰子に育てられたのだった。

 皇后定子が敦康を産んだのは長保元年(999)11月7日のことだった。ところが、1年後の長保2年(1000)12月15日、定子は第二皇女を出産後に亡くなってしまう。定子の兄の伊周も、スキャンダルで流罪になったのち、帰京は許されたが、まだ以前の地位にはほど遠く、敦康は後見がいない状況に置かれた。

 道長にすれば、入内させた彰子に皇子を産ませたいが、数え12歳で入内した彰子は若すぎて、まだその可能性はない。敦康親王が円融系の唯一の親王である以上、最高権力者たる道長としては、不本意ながらも後見するしかなかった。

 ただ、最初は道長の長兄である道隆(井浦新)の四女、つまり定子の末妹の御匣殿が敦康を養育していたのだが、一時、定子が忘れられない一条天皇の寵愛が御匣殿に向かったことがあった。このため、道長は一条天皇を御匣殿から切り離すために、彰子に育てさせることにしたのである。

敦康を東宮にしたかった彰子

 道長が敦康を彰子に育てさせたねらいは、別のところにもあった。敦康が彰子のもとにいれば、一条天皇は敦康に会いたくて、彰子の後宮を訪れる機会が増えるのではないか。そうすれば、彰子が皇子を産む可能性も増すのではないか。それをねらうのと同時に、彰子が皇子を産まなかったときのことも考えていた。結果的に敦康が即位することになっても、彰子を敦康の養母にし、自分は養祖父になっておけば、権力を維持できるというわけである。

 しかし、寛弘5年(1008)9月11日、道長の念願がかなって、彰子は敦成親王を出産した。ドラマでは秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』によれば、道長は言い表せないほど大よろこびだったという。そして、これ以降、道長にとって敦康は、「まったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となった」(『藤原道長と紫式部』講談社現代新書)のである。

 しかも、翌寛弘6年(1009)11月25日には、彰子はさらに第三皇子の敦良親王を出産した。東宮候補の孫が2人できた道長にとって、敦康の存在はますます邪魔になっていっただろう。そして、すでに40代半ばに達していた道長は、自分が早く天皇の外祖父になって、政権を安定させたいという望みを、大きくふくらませたと考えられる。

 だが、彰子は『光る君へ』のセリフどおりに、敦康親王が「ほんの幼子であられたころから、ここで一緒に生きて」きた。親代わりになって8年が経過していた。だから、たとえ敦成を出産したあとであっても、先例どおりに第一皇子である敦康を東宮にすべきだと考えた。

 というのも、先に敦康が東宮になり、即位したとしても、敦成はまだ生まれたばかりなのだから、いずれ東宮になり、即位する可能性は十分にあった。一条天皇の在位は25年続いたが、その長さは当時としては例外で、数年で引退することが多かった。だから、両統迭立の習いで、敦康の次には冷泉系の敦良をはさんでも、敦成はその次に東宮になればいい。

 だから、一条天皇も彰子も、まずは第一皇子の敦康を東宮にしたいと望み、『栄花物語』によれば、彰子は父の道長に、敦康を東宮にしてほしいと何度も申し入れたという。

第一皇子で東宮になれなかった例外中の例外

 しかし、道長は彰子の願いにはまったく耳を傾けなかった。『光る君へ』では描かれないが、道長は病弱であり、ある年齢からは飲水病(現代の糖尿病)の持病もかかえていた。元気なうちに、一刻も早く天皇の外祖父になり、摂政として君臨したかったと思われる。

 結局、道長は寛弘8年(1011)5月26日、一条天皇の譲位を発議し、6月2日、東宮の居貞親王に即位を要請した。そして、6月13日に居貞が即位すると(三条天皇)、敦成が東宮になった。藤原行成の日記『権記』によれば、一条天皇は譲位を決意したのちも、なんとか敦康を東宮にしたいと望んだそうだが、行成は「道長の意を損ねたら敦康も不幸になる」と言って諭したという。その忠告は、当時の政治状況を考えれば的を射ている。

 ちなみに、平安時代に皇后および中宮が産んだ第一皇子で東宮になれなかったのは、敦康を除けば、4歳で早世した白河天皇の皇子、敦文だけだったという。敦康はいわば例外中の例外に追いやられたわけで、本人も、一条天皇も、育ての親である彰子も、さぞかし悔しかったことだろう。

 その代わりに、敦康親王には経済的に手厚く援助することが決まった。その後、敦康は政争から離れて風雅の道に生きたが、残念ながら長くは続かなかった。異母弟の敦成親王が即位して(後三条天皇)2年余りのち、寛仁2年(1018)12月に発病して亡くなった。享年はわずか数え20歳。自分の意志はなんら示せないまま、周囲のどろどろした思惑に翻弄され続けた短い人生だった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部