阪神淡路大震災では避難所を回る企画を立てたが…(C)日刊ゲンダイ

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【武内陶子「今があるのは…」】#4

【シリーズ初回はこちら】NHK局アナ新人時代は「一輪の大木」「ガリバー武内」と呼ばれた

 1991年の入局以来勤めた松山放送局から94年に大阪へ。翌年に阪神・淡路大震災を体験した。

 大阪放送局に移った翌年に阪神・淡路大震災が起きました。局は全員態勢で、私は安否情報を夜通しお伝えしていました。でも、震災から時が経つと、視聴者のみなさんそれぞれに生活があるわけですから、家族や仕事が大切になりますよね。それはもちろん当たり前なのですが、これから復興していくという一番大変な時に、視聴者のみなさんの関心は薄れていく……これからは何を伝えていったらいいんだろう? という問題を突きつけられました。

 そんな時、私は日々大変な中でも何か明るい話題を見つけようと「明日に向かって」という企画を立てて、避難所を日々回ることにしました。運動不足を解消するために朝ラジオ体操をするようになったら、大人も子供も参加して会話が増えたという避難所など、小さくても何か光を感じる明るい話題を取材。道はガタガタですから、電車が通っている駅まで行って急いでテープを持ち帰り、編集してコメントを加えてすぐオンエアという仕事をやりました。

 震災直後、みなさんが寒い思いをして炊き出しを待っている状況で「なんで私はマイクを持って中継しているんだろう? 私の仕事に意味はあるのか」とアイデンティティークライシスみたいな状態に陥ったのですが「明日に向かって」を始めると、うれしい反響が来るようになったんです。

「放送を見て、うちの避難所でもラジオ体操を始めてみたら、会話が増えて前向きになれました」

 そんな声があって、私が出す情報が誰かを勇気づけることがあるということに気づかされました。やがては「うちの避難所では○○を始めました。取材に来てください」と連絡をくださる方も増えて。

 池に小石を投げた小さな波紋でも、こうして広がっていくこともあるんだと実感しました。炊き出しのお手伝いはできなくても、アナウンサーはアナウンサーの仕事、放送で何かを伝えることで誰かのお役に立てるんだと思え、救われました。

■東京で全国放送「おはよう日本」担当に

 大阪時代は迷いながら悩みながら頑張っていた記憶があります。朝の番組もやらせていただき、新人以来「おはようえひめ」「おはようきんき」と朝に縁があったからか、ついに東京で全国放送「おはよう日本」を務めることに。

 入局時には同期のカメラマンから「陶子ちゃんは顔が濃いから朝は見たくないかな」と言われ、「映像のプロがそう言うんだから私は朝向きじゃないな」と思っていたのですが、蓋を開けてみたら朝ばかりで。次回からは東京でのお話をお楽しみに。

(武内陶子/フリーアナウンサー 構成=松野大介)