『虎に翼』(写真:NHK公式サイトより引用)

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープしている。毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。

憂鬱な弁護士試補としての下積み時代

『虎に翼』のモデルとなった三淵嘉子は、父が仕事の都合でシンガポールに赴任しているときに生まれた。当時、「シンガポール」は漢字表記で「新嘉坡」とも記されたことから、両親はそこから「嘉」の地をとって、長女となる娘に名づけたようだ。

民主的な思想を持った父から言われた「何か専門の仕事をもつための勉強をしなさい」という言葉を胸に、嘉子は法律を学ぶことを決意(記事:「虎に翼」のモデル"三淵嘉子"人生支えた父の一言参照)。同じ志を持つ仲間たちと学生生活を楽しみながら、昭和13(1938)年に司法科の試験に合格を果たす。

当時、裁判官や検察官は男子に限るとされていたため、嘉子は弁護士の道へと進むことになった(記事:虎に翼モデル「三淵嘉子」が愕然とした"差別文言")。

昭和11(1936)年に弁護士法が改正されたことで「弁護士試補制度」が導入され、1年半にわたる修習制度が新たに設けられた。嘉子は、丸ノ内ビルヂング内にある、仁井田益太郎の弁護士事務所で修習を受けることになる。


嘉子が修習を受けた弁護士事務所が入っていた丸ノ内ビルヂングは、現在丸の内ビルディングに(写真: ふくいのりすけ / PIXTA)

やる気に満ちあふれた嘉子は、さぞ張り切ったであろう……と思いきや、自分の父親のような世代の男性たちと一緒に議論するのは、やや気が重かったようだ。「私の歩んだ裁判官の道」で、嘉子は当時のことを次のように振り返っている。

「討論の場で若い小娘が年輩の男性の自尊心を傷つけるような議論ははばかられ、遠慮しながらの発言で常に欲求不満が胸にたまっていた」

いかなる状況においても、自分が正しいと思うことだけを言葉にしたい――。嘉子のそんな思いは、やがて弁護士から裁判官へと転身させることになる。

開戦によって民事裁判が減少することに……

修習を終えると、嘉子は弁護士試補考試に合格。昭和15(1940)年12月に、弁護士登録を無事に終えている。

引き続き、仁井田益太郎の弁護士事務所で勤務することになり、ついに嘉子は弁護士としてのキャリアをスタートさせる……はずだったのだが、なかなか思ったように活躍できない。戦争が始まってしまったからだ。その影響を嘉子はこんな言葉で説明する。

「昭和16年に第二次世界大戦が始まると、訴訟事件殊に民事事件は国が戦争をしているのに国民が私的な争い事でお上を煩わすとは何事かという風潮で、次第に事件が減少した」

当時、駆け出し弁護士の嘉子は、離婚訴訟の担当をしていた。夫から離婚を請求されている妻が、疑われている自身の不貞を否認。名誉のために戦う構えだったという。

ところが、夫に召集令状が届けられると「何の憂いもなく出征することが第一だ」という雰囲気のなか、協議離婚が成立。訴訟が取り下げになったこともあり、嘉子は「呆気にとられる思いであった」と胸中を明かしている。

戦争という一大事の前には、個人間の争いは、当人同士で話し合って解決すべき……そんな法律家の存在意義が問われるような時代になってしまったようだ。

嘉子は弁護士登録を行う前に、明治女子部法科の助手になっていたため、いつしか弁護士より、教師としての活動が主軸になっていったようだ。

また、この頃、嘉子はプライベートでも大きな変化があった。

両親は26歳になった嘉子のもとに、何度も見合いを持ちかけるが、娘はどうも乗り気ではない。事情を聞いてみれば、意中の男性がいるという。

その相手とは、一時期、書生として家に出入りしていた和田芳夫だという。芳夫は嘉子の父にとっては中学時代の親友の甥にあたる。働きながら明治大学の夜間部に通い、卒業後は紡績会社に就職していた。

芳夫は出入りしていた書生のなかでも、おとなしい男性だったために、両親は驚いたという。嘉子はその活発さから学生時代に「ムッシュ」というあだ名で呼ばれていたくらいだから(記事:「虎に翼」モデル"三淵嘉子"大胆すぎるスキー事件参照)、2人は大分違ったタイプだったようだ。

やがて嘉子は芳夫と交際をスタートさせて、昭和16(1941)年11月に結婚。昭和18(1943)年1月には、長男の芳武が生まれている。

芳夫は妻が働くのを阻むような夫ではなかったが、戦争の影が徐々に色濃くなるなか、プライベートでの変化もあり、弁護士活動は限定的だったようだ。嘉子はこう振り返っている。

「たまたま私自身の結婚や育児の時期に重なったこともあり、弁護士業は開店休業の状況になってしまった」

二度も届いた夫への召集令状

だが、昭和19(1944)年に入ると、さらに大きな変化に見舞われることになる。夫の芳夫のもとに召集令状が届いだのだ。

芳夫には結核による肋膜炎の跡があったため、すぐに召集解除になるが、1年後に再び赤紙が届く。そして今度は、戦地へと向かうことになったのである。

(つづく)

【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 ‎『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)

(真山 知幸 : 著述家)