日本でいちばんクマを撮っている「クマ恐怖症」になったカメラマンが5年がかりで撮った“決定的瞬間”とは〉から続く

 日本で今、もっともクマの写真を撮っているカメラマン、二神慎之介は昨年、日本全国でクマが大量出没した“好機”に、ほとんどクマの写真を撮らなかったという。その理由について、「怖かったから」と素直に語る。二神の最大の弱点。それは長年の濃密な撮影活動による「クマ恐怖症」を抱えているということだ。日本で今、もっともクマの写真を撮る男は、もっとも“ビビり”な男でもあった。

【画像】ゆっくりとこちらに向かってきたという親グマの姿

 クマと人との遭遇事故が頻発する昨今、二神はこう警鐘を鳴らす。「クマの本能が変化してきている。『共生』という言葉では、追いつかない時代がすぐそこまで来ています」――。(全3回の2回目/#3に続く)


二神はシカの増加がヒグマの肉食化につながっているのではないかと話す。「根雪が薄くなって、シカが死ななくなった。動けなくなって死ぬこともないし、雪の下の草もたべられる。温暖化があらゆる動物の生態に大きな影響を与えているのは間違いないと思いますよ」 ©二神慎之介

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子連れヒグマとの遭遇

――ヒグマを追いかけていると、危険な目に遭遇してしまうこともあるわけですよね。

二神 これはあんまり話したくないのですが……。本来、そういうことがあってはならないので。僕と同じ失敗を繰り返さないで欲しいという意味で恥を忍んで、今回はお話しします。知床の山に入るようになって、2年目だったと思うんです。その頃は、とにかく夢中だったので怖さよりもクマに会いたいという気持ちが勝っていた。12月に入って、森の中をあてどもなく歩いていたんです。そうしたら雪景色の中、すごくきれいなヒグマが歩いていたんです。「うわ、俺が会いたかったクマはこいつだ!」と思ったんです。今でもいちばん美しいヒグマだと思っているんですよ。ただ、そのクマは子連れだったんです。

――子連れのクマはとにかく怖いという印象があります。

二神 子どもにレンズを向けたら、親グマは何かされるんじゃないかと思ってすごい怒ります。なので、子どもが先に逃げたのを確認してから親だけを単体で撮っていたんです。僕はすごく興奮していて、記者会見場のカメラマンみたいにパシャパシャ撮っていた。そうしたら、親グマがゆっくりとこちらに向かってきたんです。

 まずいと思ってクマスプレーを構えたんですけど、手が震えてストッパーが外せなかった。とても簡単な作業なのに。クマとの距離が20メートルを切っていたので、クマにプレッシャーを与えちゃいけないと思って腰をかがめたんです。でも今思うと、すでに怒っていたので意味がないんです。やるなら立ち上がって、威圧すべきだったのかもしれません。そのときのクマの圧力がとにかく凄くて、最後は、尻餅をついてしまった。そうしたら上からジロッと僕のことを見下ろして、しばらくしてから、きびすを返したんです。僕は「はぁ……」って、呆然と去って行くクマのお尻を眺めていました。

――ヒグマのブラフチャージの話はよく聞きますよね。突進されたけど、襲われまではしなかったという。最終的に、どれくらいの距離まで詰められたのですか。

二神 2メートルか3メートルぐらいだったと思います。上から見られた感じがあったので、確実に5メートルは切っていたんじゃないかな。あのとき、初めてヒグマの怖さを思い知りました。生物としてヒグマとの上下関係を本能に刻み込まれましたね。おそらく殺すつもりはなかったと思うんです。威嚇ですよね。関西弁で言うと「たいがいにせいよ」と。「子どももおるのに」って。そう、ヒグマが僕に教えてくれていたんだと思います。でも、僕からしたら死ぬほど怖かった。おそらく背を向けて逃げ出したら、殺されていたと思います。すぐに車が置いてある道路まで戻ったのですが、車の前でへたり込んでしまって。そのときは車に乗り込めないくらいに消耗していました。

――直前までシャッターは切っていたのですか。

二神 こちらに向かってきているときもまだ撮っていました。今は、そんなこと絶対しないですよ。ただ、毛が逆立っていたし、距離が20メートルを切ったあたりで、これはやばいと思ってやめました。ただ、その写真はすごく美しいんですよ。ハラハラと雪が降っていて、倒木を乗り越えて、こちらに向かってきている写真なんですけれども。ただ、あれはどこにも発表できないですね。

――それはなぜですか?

二神 あれは僕のミスだし、写真家としては本来、あってはならないことだと思うんです。それと、完全に怒っているクマの顔を出したくないというのもあります。あの写真を出したら武勇伝にしかならない気もするんですよね。こんな危険な目にあっても撮った写真なんだ、と。あれは自慢話にしちゃいけないと思っています。

クマ恐怖症は花粉症に似ている

――一度でもヒグマに襲われかけるという経験をしたら、動物カメラマンをやめたくなりそうな気もしますが。

二神 初めて(ブラフ)チャージを受けたときは、その日はもうダメでした。でも翌日か、翌々日には、また山に入っていましたね。ただ、2017年か2018年ぐらいかな、クマが怖くて仕方なくなった時期があるんです。2018年夏はシーカヤックに乗ってヒグマの撮影をしました。表向きは海側から撮りたいという理由だったのですが、実はクマが怖かったんです。クマの気配がギューッと詰まった森の中に入っていくことができなくなってしまって。別に何か危険な目に遭ったというわけではないんです。その頃には危機回避能力もかなり高くなっていたので。

 おそらく恐怖症って花粉症に似ているんです。大なり小なりヒグマの圧倒的な存在感に本能を傷つけられていると、あるとき、その恐怖心が許容量を超えてあふれ出してしまうというか。

――一度、割と近距離でヒグマと遭遇する可能性のある撮影ポイントに連れて行ってもらったことがあるじゃないですか。二神さんがそばにいるときは緊張という言葉で済んでいたのですが、あるとき、二神さんが先に行ってしまって。「二神さんの姿が見えない」と思った瞬間、緊張が10倍ぐらい跳ね上がったんです。呼吸が乱れるというか、あれは恐怖でした。

二神 実は、わざとやったんです。もちろん僕は中村さんの位置をちゃんと把握していたので。一人で山に入るという感覚を、少しでも体感して欲しかったんです。

「至近距離でクマに遭遇してしまったら…」

――確かに何の事故が起きなくても「至近距離でクマに遭遇してしまったら……」という恐怖感に少しずつ精神が蝕まれる気がします。恐怖症が花粉症だとするなら、発症するとなかなか治らないわけですか。

二神 山に入るのが怖くて仕方なくなったとき、奥会津の金山町というところで狩猟をしている猪俣昭夫さんに相談しに行ったんです。「奥会津の最後のマタギ」と呼ばれて、けっこう有名な方なんです。その方に「クマが怖くて仕方ないんです」という話をしたら、嬉しそうに「そこからだよ」って言われたんです。なぜか、嬉しそうに見えたんですよね。おまえもそういう心境まで来たのか、と見てくれたのかな。それとも単に、そらそうだよ、と思っただけだったのかもしれないですけど。

――そういう話をカメラマン仲間としたりしたことはあるのですか。

二神 ないです。同じような経験をしている人がいたら、対処法を教えて欲しいです。もう僕はビビり過ぎて、チャンスを逃しまくっているので。

――今もまだ怖いことは怖いわけですか。

二神 怖いですよ。ただ、少しは回復しています。中村さんが恐怖を50感じているとしたら、僕は25くらいかもしれない。僕の方が経験がちょっとあるので。でも、昔の僕は5くらいだったんです。クマを撮りたい気持ちが強過ぎて。

――25でも十分、怖いですよね。

二神 昨年、ヒグマがいろんなところで出没してニュースになりましたよね。ある意味、カメラマンからしたらチャンスでもあるわけです。でも、こんなにクマの写真を撮ってきたにもかかわらず、昨年は悲しいくらいに撮れていないんです。怖くて、なかなか山の中に入れませんでした。

避難小屋の前に親子グマが居座り…

――昨年7月頃は大雪山の白雲岳の避難小屋の目の前に親子グマが居座り、話題になっていました。なかなか出会えないシチュエーションでもあるので、カメラマンが殺到し問題にもなっていたようですが、あのクマは撮りに行ったのですか。

二神 あのエリアでクマを撮ろうと向かっている途中、携帯電話で山小屋のSNSを見たら「キャンプ場の近くに親子グマが居座っている。危険なので山小屋の利用は自粛してほしい」という書き込みがあったんです。それを見て引き返しました。この状況で行くのはちょっと違うだろうと……。でもそのまま行っていれば、いい写真が撮れたんじゃないかって、そのあと、くよくよ悩みましたけど。

――プロのカメラマンもけっこういたそうですよ。

二神 むしろ、それでこそプロと言えるのかもしれません。でも僕はもう撮れればいいという考えにはなれないんですよね。ああやって大挙して押しかけると、クマが人慣れしてしまう恐れもあります。単純に僕自身がクマを恐れているのもありますけど、今、それ以上に怖いのはクマの人間に対する反応の変化なんです。

――昨年5月には、朱鞠内湖で釣り人が襲われるだけでなく捕食されるという衝撃的な事件も起きました。

二神 これまで、そういう事故の話を聞かなかった場所なので驚きました。クマに襲われるケースって、いちばん多いのは出会い頭なんです。予期せず遭遇してしまって、クマがパニックを起こして人間を襲ってしまう。でも朱鞠内湖の場合はヒグマが自ら近寄っていき、人間を捕食した可能性が高い。そういうクマが出てきたら、人間は何の対処もできません。それは従来のヒグマの行動では考えられないことなんです。何かのきっかけでクマの遺伝子情報が書き換えられつつあるのかもしれません。

――僕も10年以上前、3泊4日で知床の山に入ったことがあるんです。あたりは糞だらけなのにヒグマの姿はチラリとも見えない。こんなにも人間の前には姿を現さない生き物なんだと思ったんですよね。

二神 その頃までは、クマの方がちゃんと避けてくれるという前提があった。でも今は、その考え方も古くなりつつある。だから、もはや見通しの悪い森の中でクマを撮影するという時代ではないのかもしれません。そう言いつつも、もう一回はちゃんと撮りたいと思っている自分もいるんですけどね。ただ、そうしたら最後、おれはクマに殺されちゃうのかなとも思うわけです。そうなったら絶対にいけないんですけど。

 ヒグマの夢を見るときは、たいてい怖い夢なんです。最近は、ヤバいと言われているクマのいる森に僕が入っちゃって、そのクマにジロッて睨まれている夢とかが多いですね。

〈「ヒグマと鉢合わせたら…」「ツキノワグマの方が断然怖い」多数のクマと遭遇したカメラマンが語る“対処法”と“適正な距離”〉へ続く

(中村 計)