『ヤジと民主主義 劇場拡大版』は12月9日よりポレポレ東中野・シアターキノほかにて全国公開ⒸHBC/TBS

ギャラクシー賞、日本ジャーナリスト会議賞などをはじめ数々の賞を受賞し、書籍化もされた北海道放送(HBC)のドキュメンタリー番組「ヤジと民主主義」が、テレビや書籍では描けなかった当事者たちの思いも追加取材し、『ヤジと民主主義 劇場拡大版』として12月9日より、ポレポレ東中野・シアターキノほかにて全国公開される。

同作が描くのは、2019年7月15日。JR札幌駅前で遊説中だった安倍元首相に向けて、市民が政権に異議をとなえたことで、警察に取り囲まれ移動させられたいわゆる“ヤジ排除問題”。

この問題の報道をきっかけに、表現の自由とは、民主主義とはどうあるべきか、といった課題が広く議論されることとなった。ちなみにこの問題は現在も続いており、排除された市民2人が原告として警察側を訴え、一審は勝訴したものの、今年6月に行われた二審・札幌高裁では判断が分かれ、双方が上告(ただし原告の市民2名のうちひとりは上告はしない方針)。裁判はいまだ続いている。

日本の民主主義はどうあるべきか

この問題に対して「たかがヤジで……」という声も多かったというが、一方でこのヤジ問題を通じて、日本の民主主義はどうあるべきか、という問題も浮かび上がってくる。

地元・北海道の放送局、HBCはどのように報道に向き合ったのか。同作を手掛けたHBCコンテンツ制作センター報道部デスクの山粼裕侍監督に話を聞いた。

――HBCが、安倍総理(当時)の演説中のヤジ排除問題の報道を積極的に行った理由として、3つの後悔があったからだと伺いました。まずはその3つの後悔からお聞きすることで、日本のメディアが抱えるいろいろな問題につなげられたらと思うのですが。

3つの後悔というのは、「カメラがなかった」「僕自身が現場にいた」「すぐに報道できなかった」ということですね。

まず「カメラがなかった」というのは、ほかの局は自分たちのカメラでちゃんとヤジ排除の現場を撮れていたのに、うちはなかったということがあります。そもそもヤジ排除が起きるとは思ってなかったものですから。

もちろんこの日はヤジが飛ぶかもしれないから、そのときの安倍総理のリアクションを撮るためにカメラを配置しようという話をしていたのですが、それぞれの演説会場でテレビ各社を代表したカメラがあるから、何カ所も自分たちで出す必要もないだろうということになったんです。

結果としてヤジ排除の場面が、うち独自の映像としては撮れなかったので、現場に居合わせた市民が撮った映像に頼らざるをえなかったというのが後悔の1つです。


JR札幌駅前の演説会場で排除された市民のひとりである桃井希生さん(中央)ⒸHBC/TBS

ただ唯一、安倍総理が来るからということでプライベートで演説を聴きにきていた通信員がいて。たまたまスマートフォンで撮影していたんですけど、そこで決定的な排除の場面が撮れていました。でもそれは後になってわかったことですが。

視聴者映像に頼るのはリスクがある

――やはり撮ってないと気づいたときはゾッとしたのでは?

そうですね。まず、ああいう排除があったというのは朝日新聞を読んでわかったんです。そこからその映像はあるのかと探したんですが、やっぱりうちにないというのがわかって。その後に通信員の映像があるとすぐにわかったんですが、桃井希生さんのヤジ排除の映像はなかったんですよね。

その場面も結局、視聴者から提供してもらうしかなかった。もうちょっと後になって本人が撮った映像があるとわかったので、それを提供していただいて。必死にかき集めたらものすごい映像がそろったという形ですね。ただやっぱり、ニュースの責任者の立場としては、自前のカメラで撮れなかったっていうのは痛いところでしたね。

第三者が撮った映像は本当かどうかがわからないんです。現場で起きたことというのは、そこにいないとわからない空気感があるので。カメラをまわす前と、まわし終えた後の様子ってわからないわけですからね。

恣意(しい)的に画角を切り取られることもありますし、視聴者映像だけに頼るというのは報道機関としてはリスクがありますよね。

――それが1つめの後悔ということですね。

2つめの後悔は、僕自身が会場にいたということですね。僕は以前、政治担当の記者をしていたものですから。藤沢澄雄さんという自民党の道議会議員と選挙情勢などの意見を交わしていたんですが、一瞬、ヤジが飛んだのが聞こえたんです。

けれどもすぐ聞こえなくなったので、終わったなと思ったんですが、あんな形で排除されていたというのは映像を見るまでわからなかった。

だけどその場所にいて何もしなかった、黙認していたという意味では僕もその1人であるから、メディアというよりは、そういう沈黙した民衆の1人という立場に自分がなってしまったという後ろめたさもありました。

第一報を報道できなかった悔しさ

――そして3つめの後悔とは?

やはり第一報を報道できなかったということですね。

朝日新聞が報じるまで知らなかったですし、しかも何番手も遅れた後に報じているんです。

ただ第一報を報じるというのは本当に難しくて。特に警察が発表した情報ではなく、警察のやっていることを批判する内容ですから。

朝日新聞でもいろいろ議論はあったらしいんですけども、自分たちでも第一報が打てたかというと、それは胸を張って言えないところがあって。報道しようとする思いがあっても社内で止められた可能性もありますよね。

そういう意味でも第一報を報じられなかったという後悔がありました。後悔があった分、追いつかなくてはという思いで続報を出し続けたのですが、気がついたら誰もが途中で走るのをやめていて。自分たちだけが走り続けていたという感じですね。


 「ヤジと民主主義」を手掛けたHBCの山粼裕侍監督 (写真:筆者撮影)

――山粼さんはニュースを統括する上司の立場ですが、部下の記者さんたちにどういう態度で接するのがいい上司だと考えていますか?

南極の第1次越冬隊の西堀榮三郎隊長が言った言葉で「とにかくやってみなはれ」と。やる前からつべこべ言うやつはつまらないやつだと。失敗してもいいからやってみなよと言ってくれるのはいい上司だと思いますね。何か理由をつけてやらないのはつまらないことだと思います。

もちろん誤報を出すとか、誰かの人権を傷つけるというのはよくない失敗ですが、リカバリーできる失敗はしていいし、逆に失敗しても次にいいものを出せればいい。だからやりたいことを応援してくれるのが一番いい上司だと思いますね。

――SNSの発達などもありますが、周囲から批判されないようにという風潮があって。「やってみなはれ」という人が少なくなっている気がします。

若い記者が言うには、みんなの前で怒られるのは嫌だけど、みんなの前で褒められるのも嫌なんですって。つまり目立ちたくない。彼らはSNSネイティブですから、炎上を恐れるんですよね。

確かに仕事は器用に、人並みにこなすんですけども、人より目立つことはしたがらないですね。この間も、森達也さんが監督を務めた映画『福田村事件』が札幌で先行上映される機会があって、「震災とデマ」というテーマで取材しようとしたんですが、そういう重いテーマはなかなかやりたがらないです。デスクはデスクで、こういうテーマは扱ったことがない。

僕はヘイトスピーチの問題とかを取材したこともあったので、そういうテーマに対してハードルを感じたことがなくて。こういうときはこの人に聞けばいい、という自分なりのリスクヘッジができるんですけども、そこを経験してないデスクは、そもそも取材をしようとする発想がない。

結局、1年生を捕まえて取材しろ、ということになりました。僕もいろいろ手伝いましたね。

――やはりそういう意味での経験、若手育成が次世代のメディアを担う人材を育てることになるわけで。それは絶対に大切なことだと思います。

その通りですね、そうやって育てていかないと、メディアが当局や企業の発表ばかりを報じるようになってしまって、人権侵害だったり、不条理に苦しんでいる人の声を聞く力がなくなってしまう。あるいは取材しようという発想すらできなくなってしまう記者が増えてしまうんじゃないかと思います。

言うべきことが言える信頼関係を築く

――取材対象者から情報を得るために距離が近くなることは必要なことですが、一方で仲良くなりすぎると、報道しなくてはいけないことを報道できなくなるのではないかという懸念もあります。そのバランスはどう考えていますか?

僕は仲良くするのはいいと思うんです。例えば警察官や政治家と一緒にご飯を食べに行くのもいいと思うんです。

ただしその関係によって、言うべきことが言えなくなるのはよくない。ある先輩の記者から言われたのは「仲がいい人を批判するような報道をしたとしても、『お前にそう言われるなら俺はしょうがないと思う』と言われるぐらいになりなさい」と。なかなかハードルが高いですが、逆に言うと本当の信頼関係だと思うんですよね。

――利益だけのつながりなんてもろいですからね。

僕もまったく違う事件のとき、警察の不祥事を批判的に報道したことがありましたが、同じ刑事部の幹部が、『お前の言ってることは正しいよ』と言ってくれる人もいて、その人とは信頼関係はできてるかなと思いましたね。

関係が築けなければ、飼い犬に手をかまれたとの思いはあるでしょうね。とある警察署担当の記者が毎日通って情報をもらっていたんですけど、批判的な報道をした途端に「お前は帰れ」と言われたと聞きました。たぶんマスコミのことをそういう目で見ていたんだろうなと思いますね。

――そのときはどうされるんですか?

そのときはどうとでも言ってくれって感じですよね。こちらも、ほかの事件や事故のときには取材をしなきゃいけないので、それはそれ、これはこれという感じで、厚顔無恥的に。何もなかったかのように取材に行きますから。

それってメディアに大事なことだと思うんですよね。自分が苦手な相手だったり、過去にトラブルがあった相手であっても、向き合うぐらいのずうずうしさがないと取材なんてできないですし、後ろに視聴者を背負っているという意識があるので、そこで上下関係が出来上がるとおかしいですからね。

何でも言っていいというわけではない

――答えたくない相手に対峙するというのも難しいですね。

だけど大事なのは、相手が取材に答えないからといって、何でも言っていいわけじゃないということですよね。答えないなら答えない理由なり、相手の事情なりをちゃんと知らないといけないし。相手が答えなくても、いろいろと取材することで相手の真意をちゃんと伝える報道ができたら一番いいんですよね。

ただ今回のヤジ排除に関してはなかなかそれができなくて。出せないあやふやな情報はたくさんあるんですけれども、報道できるまでの確証を持てなかった。何も答えない人間をどう取材するか、というのは本当に難しいですね。僕もしょっちゅうそこの壁にぶつかっています。

――その中でメディアが果たす役割は、どうあるべきだとお思いですか?

今はいろんな困っている人や、社会の不条理に直面している人たちがいると思うんです。そういう人たちの声を伝えていくのがメディアの役割のひとつだと思うんですね。困っている人たちの声を伝えることで、彼らの暮らしがよくなるのなら、ほかの困っている人たちの暮らしもよくなる。

いちばん大変な人の基準に合わせると、結果的に多くの人が生きやすい社会になるんですよね。

これは障害者運動のカーブカット効果と言われていますが、つまり障害がある人が過ごしやすい社会というのは、健常者にとっても過ごしやすい社会になるんですよね。段差がなくなるとか、みんなが助けてくれるとか。メディアはそういう社会にするための、小さな声の拡声器であるべきだと思いますね。

映画を観て共感する女性が多い

――あらためて今回、「ヤジと民主主義 劇場拡大版」が映画になった思いをお聞かせください。

表現の自由をテーマにした映画ですが、事前の試写では、観る人にとって面白いと感じるシーンや共感ポイントが違うだけでなく、怒りが湧いたという人もいれば、涙が出たと語る人もいます。札幌では笑いもたくさん起きました。

みんな映画を観た後、饒舌になるのが不思議です。そして「排除されたのは私たちだ」と共感する女性が多いです。セクハラの被害にあったり、会社や家庭で「女は黙っていろ」と言いたいことを封じられた悔しさや差別を味わった自分に重ね合わせているのだと思います。テレビのように「わかりやすさ」ではなく、複雑で多様な人の生き方や思いを映画に盛り込めた結果であれば嬉しいです。

(壬生 智裕 : 映画ライター)