Z世代の価値観を、歴史的な視点で解明してみます(写真:kou/PIXTA)

Z世代は覇気がない――。シニア世代の中にはそう嘆く人も少なくない。皆で仲良く、争うこともなく、空気を読み合うし、欲望や闘志があるようには見えない。しかし本当にそうだろうか。そんな彼らは実は「進化した人類」なのかもしれない。

なぜ「進化した人類」といえるのか。永井孝尚氏の最新刊『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた』より、哲学と歴史の視点でZ世代の価値観について解説する。

低欲望のZ世代は、覇気がない?

メディアでは「Z世代の価値観とは?」という企画が花盛りだ。シニア世代の目には、Z世代の価値観はなかなか理解できないようだ。

たとえばバブル世代が20代だった頃は、男性にとって車はデートするための必需品だったし、恋愛にも貪欲な人が多かった。バブル世代は欲望が強く、経済を支えていた、とも言われたりする。しかしいまのZ世代には、モノを所有することにあまりこだわらない人も多い。欲望がむしろ低いように見えてしまう。そんなZ世代を見て、中には「覇気がない。だから経済も活性しないのだ」と感じるシニア世代もいる。実際のところはどうなのだろうか?

そこで哲学者ニーチェとアメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマの思想をひもときながら、Z世代の価値観を歴史的な視点で解明してみよう。

世界で最も知られた哲学者の一人が、ニーチェだ。ニーチェは著書『ツァラトゥストラはこう言った』(氷上英廣訳、岩波文庫)で、主人公ツァラトゥストラに「おしまいの人間たちは、最低の軽蔑すべき者だ」と語らせている。この「おしまいの人間たち」は、一般に「末人(まつじん)」とも呼ばれている。では末人とは何か。

野生動物はエサを真剣に探さないと生きられない。しかし家畜はエサを与えられるので本気になる必要はない。一方で、家畜には自由はない。人間に搾取され続けるだけだ。

人間も同じだ。現代社会では、何も挑戦せずにマッタリやっていても、まず死ぬことはない。人間の社会システムは、本気で生きない人を大量に生み出した。

ニーチェは「本気で生きない人間は、本質的に家畜と同じだ」と言った。そして家畜のように本気で生きない人たちを「末人」と呼び、本書で「末人は蚤のように根絶しがたい」と嘆いたのである。

そしてニーチェは「超人を目指せ」と言った。超人は高揚感や創造性にあふれ、新しいモノを創造し続ける。心理学者チクセントミハイが著書『フロー体験入門』(世界思想社)で提唱したように、忘我の境地で夢中になって創造的活動を行う人のイメージに近い。

こうしてニーチェは、主人公ツァラトゥストラがニーチェ思想を高らかに説く物語『ツァラトゥストラはこう言った』を書き上げた。本書でツァラトゥストラが語るメッセージは、要は「自分らしく、本気で生きようぜ」なのである。

このニーチェ的な視点で見ると、欲望や闘志がなく、皆で仲良く空気を読み合い争わないZ世代は、まさに「末人」に見えてしまうかもしれない。しかし、本当にそうだろうか?

歴史の始点には、貴族道徳を持つ「最初の人間」がいた

まったく別の視点が、アメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマが1992年に刊行した『歴史の終わり』(渡部昇一訳、三笠書房)を読むと見えてくる。ちなみに本書のきっかけは、1989年のベルリンの壁崩壊だ。

第二次世界大戦で負けたドイツは東西ドイツに分割され、首都ベルリンの東西をコンクリートで固めた「ベルリンの壁」で遮断された。そして東欧諸国の民主化革命により、東ベルリン市民がベルリンの壁を破壊し、東西冷戦が終焉した。

このときフクヤマは本書で「マクロ的な視点で考えると、人間社会の政治形態で勝利を収めるのは、持続性がある自由民主主義みたいですよ」という仮説を提示して、世界で大きな反響を呼んだ。

フクヤマはこの仮説を、哲学者ヘーゲルが提唱した「人類の歴史は『自由の実現』を目指した闘争の歴史である」という考え方に基づいて、考察している。

ヘーゲルは「歴史は承認を求める闘争である」としたうえで、歴史の始まりにいた「最初の人間」という概念を提唱した。この歴史の始まりは、具体的に「いつ」とは特定できない。「人間の最初の戦いが始まったとき」という意味だ。最初の人間とは、その歴史の始まりで戦いをした人間のことである。

最初の人間は他の人間と出会うと、相手に自分を認めさせるために激しく戦った。勝ったほうが貴族となり、負けたほうは奴隷になった。これが「誇りのために命を賭ける」という西洋の貴族社会の文化を生み出した。歴史の始点には、こうした貴族道徳を持つ最初の人間がいた。人は歴史を通じて承認(自分の尊厳や威信)を得るため、戦いに命を賭けたのだ。

フクヤマが提唱する「最後の人間」

フクヤマは、「あらゆる戦争は承認を求める貴族道徳が起こしてきた」と述べている。そしてこの歴史的な発展の終点には、最後の人間(英語でthe Last Man)がいる。本書でフクヤマは「ニーチェのいう『最後の人間』の本質は、勝利を収めた奴隷である」と述べている。

この『最後の人間』とは、まさに末人(ドイツ語でLetzter Mensch)のことだ。フクヤマはニーチェが末人と蔑んだ「最後の人間」を、ヘーゲルの「最初の人間」の対極に置いたうえで、なんと「進化した人間」と位置づけているのだ。

“歴史の終わり”では「主君=支配する人間」は消滅し、無用な戦いは消える。フクヤマは「最後の人間は、(中略)大義に生命を賭けるような愚かな振る舞いはしない」と述べている。貴族のように「誇りのために戦う」なんて、考えもしない。むしろ日々楽しく平和に過ごすことが大事である。貴族道徳に生きる「最初の人間」から見たら、歴史の終わりにいる「最後の人間」は、まさに「覇気のない人間」に見えるだろう。フクヤマは、こうして歴史上の大きな戦いはなくなり、「自由の実現」を目指したヘーゲル的な闘争の歴史が終わる、としている。

ここまでがわかれば、「覇気がない」と思われているZ世代の本質が見えてくる気がしないだろうか。

欲望や闘志があるようには見えないZ世代は、皆で仲良く、空気を読み合い、争わない。フクヤマ流に言えば、彼らはまさに「最後の人間」とも言える。そんな彼らは、これまでシニア世代の多くがあまり重視していなかった社会貢献をとても重視する。

自由民主主義が進化し続けた末に生まれた「最後の人間」であるZ世代は、実は進化した人類である、とも言えないか。

「歴史の終わり」を経験した日本

フクヤマは本書で、江戸時代の日本についても述べている。


「コジェーブによれば、日本は『16世紀における太閤秀吉の出現のあと数百年にわたって』国の内外ともに平和な状態を経験したが、それはへーゲルが仮定した歴史の終末と酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことなく、過酷な労働の必要もなかった。だが日本人は、若い動物のごとく本能的に性愛や遊戯を追い求める代わりに――換言すれば『最後の人間』の社会に移行する代わりに――能楽や茶道、華道など永遠に満たされることのない形式的な芸術を考案し、それによって、人が人間のままでとどまっていられることを証明した、というわけだ」

実際に江戸時代の260年間を通して、日本国内では大きな戦争はなかった。同じ時期、欧米では激しい戦争が繰り返されていた。この「日本はすでに数百年間も歴史の終わりを経験してきた」というフクヤマの視点を踏まえれば、明治維新当時の西洋諸国から見た日本の価値観は、まさにシニア世代から見たZ世代の価値観に近いものがあったのかもしれない。

哲学や歴史を踏まえて考えると、Z世代の台頭のように一見まったく新しい現象であっても、そういった現象の裏に脈々と流れているモノゴトの本質が見える。そしてこれまた一見するとまったく異なって見える別の現象とのつながりも見えてくるのである。

(永井 孝尚 : マーケティング戦略コンサルタント)