豊臣秀長が居城にした姫路城(写真: Rei / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第39回は、豊臣秀吉が天下を託そうとした、弟・秀長の活躍について解説する。

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家康に泣きつく秀吉の胸中

「心から本当に自分に従っている者はいない。秀吉に天下を取らせるのも失わせるのも、家康殿の御心一つにかかっている」

上洛する前夜、徳川家康は宿所を訪ねて来た豊臣秀吉から、そんなふうに懇願されたのだと『徳川実紀』には記されている(前回記事「誰も従わない」家康に弱音を見せた秀吉の強かさ参照)。

どこまでが事実かはわからないが、「秀吉に本心から従っている家臣はいないのでは?」と考えるムードがあったのだろう。なにしろ秀吉は織田信長に取り立てられて、低い身分から異例の出世を果たしている。そして信長が「本能寺の変」で討たれると、すぐさま明智光秀を討って、主君の敵討ちをすることで、実質的な後継者候補へと躍り出た。

急速に勢力を拡大したのは「長い物には巻かれろ」とばかりに「秀吉」という勝ち馬にみなが乗りたがったからにほかならない。そのことは本人がいちばんよくわかっているだけに、なかなか自分に従わないガンコな家康のほうが、かえって信用できたのではないか。

「弱音をこぼす」というアプローチで、家康を味方にしようとしたのは、いかにも「人たらし」とされた秀吉らしい。

目まぐるしく状況が変わった秀吉にとって、これまでのように変わらずに信用できるのは、やはり身内だ。秀吉は弟の秀長を重用している。

諸説があるが、秀吉は1536(天文5)年に尾張中村の農家に生まれたとされている。父の木下弥右衛門は、織田信長の父、織田信秀に仕える足軽だったが、戦で傷を負ったことで、農民として暮らすこととなったという。

そんな弥右衛門のところに嫁いだのが、大政所(おおまんどころ)で、秀吉とその姉を生んでいる。秀吉が8歳のときに、弥右衛門が病死。大政所は幼い秀吉を連れて、筑阿弥(竹阿弥)と再婚し、秀長と朝日姫が誕生することとなった。

秀吉にとって、秀長は異父弟ということになる。しかし、近年は秀長の生年と秀吉の実父の没年から、父も同じだったのではないかとも言われており、定かではない。

兄の出世で人生が変わった豊臣秀長

秀吉が思わぬ大出世を遂げたことで、妹の朝日姫はその運命が大きく変わったことはすでに書いたが(過去記事「離婚させられ家康の妻に」秀吉の妹の悲惨な末路参照)、弟の秀長もまた人生が激変する。兄の秀吉が信長に任官すると、自身も信長に仕えて武士としての道を歩みだした。

天正元(1573)年、浅井氏の滅亡によって、信長からその労を認められて、秀吉は長浜城を築城。初めて一国一城の主となると、秀吉は弟の秀長を城代として内政を任せている。その手腕に期待していたのだろう。


秀長が城代を任された長浜城(写真: Yama / PIXTA)

翌年の天正2(1574)年に長島一向一揆が起きると、秀長は秀吉の代理として参戦。丹羽長秀や前田利家らとともに先陣を切って、初めて武功を挙げた。

天正9(1581)年、毛利家に仕えた吉川経家が籠もる鳥取城に、秀吉が兵糧攻めを行ったときにも、秀長は活躍している。鳥取城を包囲する陣城の一つに入って指揮をとり、勝利に貢献した。

また、この鳥取城攻めのときには、秀吉の妻おね(後の北政所)の叔父にあたる杉原家次が出口を封鎖。さらに、妻の妹の夫にあたる浅野長吉が、水路からの物販搬入を阻む役割を担っている。秀吉が「戦わずに勝つ」兵糧攻めに自身の活路を見出していくにあたって、信頼できる身内の人材を積極的に登用していたことがわかる。

信長の死後、秀吉がライバルの柴田勝家と対決した天正11(1583)年の「賤ヶ岳の戦い」にも、秀長は参陣。その軍功によって美濃守に任官すると、播磨と但馬の2カ国が与えられて、姫路城を居城にした。

さらに、家康と対峙した天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」では、戦場以外でも存在感を発揮した。甥の秀次が局地戦で敗れたことから、秀吉が激怒すると、秀長が間に入って秀吉をなだめている。おかげで秀次は大きな咎めを受けずに済んだという。「チーム秀吉」において、秀長は緩衝材のような役割も果たしていたようだ。

天正13(1585)年の四国征伐にあたっては、病で出陣できなくなった秀吉の代わりに、10万以上の軍勢を率いる総大将となった秀長。心配した秀吉からの援軍を断りながら、長宗我部元親をしっかり降伏させたことで、その信頼度はさらに高まったようだ。

日本の統治を秀長に譲ろうとしていた

『イエズス会日本年報』によると、天正14(1586)年3月16日、大阪城を訪ねた宣教師のガスパール・コエリョらに、秀吉はこんな夢を語ったという。

「日本を統治することが実現したら、日本を弟の秀長に譲り、私は朝鮮と支那を征服することに専念したい」

ところが、大久保忠教が著した『三河物語』によると、秀吉がそれほど重用した秀長が、家康の上洛をきっかけに、命を落としたという。一体、何があったのか。秀吉側は家康の上洛を喜びながらも、いきなり気が変わったらしい。

「家康を危険だとお思いになったか、その後、毒を飲まそうと、ごちそうのなかに毒を入れた」(『三河物語』)

ずいぶんと大胆かつ、杜撰な計画だが、これが失敗して、とんでもない事態を招くことになったという。

「大和大納言とならんでおいでになったが、上座においでになったのを、ご運が強かったので、ご膳のでるとき、遠慮をなさり大和大納言の下座にまわった。家康の飲むはずだった毒を、大和大納言が飲んで、死にはてなさった」(『三河物語』)

「大和大納言」とは、豊臣秀長のことである。ごちそうに毒を仕込んでおいたものの、家康が遠慮して秀長の下座に回ったことで、秀長のほうが毒を飲んで死亡したのだという。

あまりに間が抜けているが、秀長が死去した年と家康が上洛した年には、5年も開きがある。家康に仕えていた大久保忠教が主君の強運を強調したかったのかもしれないが、『三河物語』のこの記述については、事実とは言えなさそうだ。

家康の天下取りを早める一因に

実際には、天正19(1591)年、秀長は郡山城内にて54歳で病死(諸説あり)。死後、部屋に積みあがるほどの財を残したとも言われている。

財政感覚にも長けた秀長がもっと長生きしていれば、豊臣家もまた違ったかたちになったのではないだろうか。秀吉の死後、秀長と対決せずに済んだのも、家康の「天下取り」を早める一因となった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)