伊達政宗騎馬像(写真: KENGO / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は秀吉が天下統一に向けて行った奥羽仕置(東北大名に対する処分や配置換えなど)における、家康の動向を解説する。

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天正18年(1590)7月、小田原攻めの直後に、豊臣秀吉は徳川家康に東海から関東への国替えを命じた。

家康は秀吉から関東・東北の惣無事(関東・東北の大名らの紛争解決や統制)を期待されたのである。

小田原攻めに参戦しなかった大名への処分

秀吉は7月17日には小田原を出発し、8月9日には陸奥国(奥州)会津に到着。同月13日には会津を出発し、京都に向かう(都には9月1日に到着した)。

秀吉が会津に赴いたのは、奥羽(奥州と出羽)の諸大名の転封(領地をほかに移す)・改易(所領や役職を取り上げること)などを行うためだった。これを「奥羽仕置」という。

これにより、小田原攻めに参戦しなかった陸奥国葛西氏、大崎氏は改易となった。遅参した伊達政宗は会津を没収され、会津は蒲生氏郷(がもう・うじさと)に与えられた。

ところが天下統一に向けて行われた、豊臣政権による強引な「奥羽仕置」は、反発を呼び起こすことになる。

その1つが、大崎氏や葛西氏に仕えていた旧臣や民衆が、新たな領主である木村吉清に対して起こした一揆だ。吉清による厳しい年貢の取り立てや、大崎氏や葛西氏の旧臣に対する冷遇などが原因だったとされる。これは「大崎・葛西一揆」と呼ばれている。

一揆勢が蜂起したのが、10月16日のこと。その1週間後には、米沢にいる政宗のもとに一揆蜂起の情報が届く。政宗は一揆鎮圧のために、同月26日に出陣した。

同日、会津の氏郷のもとにも一揆蜂起の情報が届いている(氏郷は11月上旬に出陣)。家康は、氏郷からの知らせにより、11月初めに蜂起の情報を掴んだ。

家康は一揆の鎮圧のために、家臣の榊原康政を出陣させたという(12月中旬には、康政は福島の二本松に着陣か)。

これまでの一連の経緯を見ると、鎮圧のために家臣を出陣させた家康の素早い対応は、秀吉の命令ではなく、家康自身の判断だったことがわかる。それは政宗や氏郷も同様であった。

家康は奥羽を関東の隣国とみなしており、その動乱を見逃すことはできなかったと思われる。

家康は11月14日に、浅野長吉(長政)と江戸城で面会。長政は秀吉の名代とも言える立場にあり、直後に奥州に向けて発った。

そんな中で、氏郷は、秀吉に驚くべき情報を知らせた。「政宗逆心」。つまり、政宗に秀吉への謀反の疑惑があるというのである。

政宗謀反疑惑を知らせる書状は、12月初めには京都に到着したと思われる。氏郷は、一揆の背後に政宗がいるのではないかと疑っていたのだ。政宗は自らの手で一揆を鎮圧しようとし、氏郷に「出陣してくれるな」との書状を送りつけていた。

このことは、氏郷が政宗に対して不信感を強めた要因の1つでもあったのだろう。氏郷は政宗と戦うため、秀吉の出馬を求めていた。しかし、秀吉は出馬せず、家康が奥州への出兵準備をすることになる。これが、12月4日のことである。

政宗の謀反はあるのか、ないのか

氏郷が秀吉に働きかける中、政宗は、11月24日に一揆勢に攻囲された佐沼城(宮城県登米市)から吉清を救出していた。


鹿ヶ城公園。別名鹿ヶ城と呼ばれた佐沼城があった(写真: chitchi1 / PIXTA)

これを受けて、さすがの氏郷も「政宗に謀反心はない」と秀吉に報告することになる。

家康も政宗に謀反心がないことを知り、安心したようだ。秀吉は「政宗謀反」との一報を受け、徳川諸将や石田三成、佐竹義宣、豊臣秀次らを出陣させようとしたが、「謀反心なし」との報告があったため、出兵命令を取り消した。

それでも氏郷は、政宗に対してまだ疑念を持っていたようで、秀吉に「政宗に謀反心あり」「やはり、なし」「あるかもしれない」などのように、二転三転する報告をしていたようだ。

その様子を秀吉の祐筆(文章や記録の作成を担う)である和久宗是は「まるで酒に酔ったようだ」と、政宗宛ての書状(12月28日付)で表現している。

氏郷は11月16日に一揆の拠点の1つであった名生城(宮城県大崎市)を攻め取って籠城し、安心して会津に帰るために、政宗に人質まで要求してきた。
 
家康は12月24日に、政宗に書状を送り、政宗の一揆鎮圧の功績を称賛している。それと比べると、氏郷の政宗への警戒と不信感は非常に高まっていたと言えるだろう。

秀吉は、コロコロ変わる氏郷の注進に戸惑った。氏郷が無事に会津に帰陣するまで、家康と豊臣秀次に対して出陣するよう命じることになる。

天正19年(1591)正月初めには、家康に秀吉の命令が届いたのだろう。ついに家康自らも奥州に向けて発つことになる。家康としては、氏郷の態度は、いい迷惑だっただろう。岩付(さいたま市岩槻)において、氏郷が福島の二本松に無事戻ったとの情報が届いたため、家康は江戸に戻った。

家康が江戸に着いたのは、1月13日のことであった。「伊達政宗謀反」の疑惑は解消されたものの、政宗は秀吉から上洛を求められる。政宗上洛については、家康と浅野長吉(長政)が担った。家康は、政宗上洛にあたり、人馬の供給を命じられている。

家康は、閏正月3日に江戸を出発し、同月22日に入京。政宗は2月4日に京に入った。

またもや国替えが命じられる?

実はこの頃、徳川家中には、家康が秀吉からまたもや国替えを命じられるのではとの噂が流れていた。江戸から今度は陸奥国へ転封される可能性もあったのだ。陸奥国の混乱を、家康に鎮定させるという意味での転封である。

結局、家康は陸奥国へ転封されることはなかった。「一揆蜂起の原因をつくった木村吉清は改易」「大崎・葛西領は政宗に与える」「伊達領の会津近辺の五郡は(蒲生氏郷に)与える」などの処置を秀吉は取ることになる。

このとき、政宗は知行(領地)分けについて、詳細な絵図を秀吉に進上したようだが、秀吉は絵図だけでは心もとないと感じたらしい。家康を奥州に遣わし、検分させる意向を示したようだ(3月中旬)。

政宗は4月末に京都を発ち、5月下旬に米沢に帰着した後、大崎・葛西一揆の完全鎮圧に向けて動き出すことになる。6月14日に、政宗は出陣した。家康は3月21日には江戸に着いたが、すぐに奥州に出馬することはなかった。

ところが、その頃、奥州で新たな戦乱が起きようとしていた。1591年3月、南部家の当主・南部信直に対し、一族の九戸政実が反旗を翻したのである。これは「九戸一揆」と呼ばれている。

4月下旬には、新たな一揆を鎮圧するため、動員令がかけられた。5月下旬、家康は家臣へ出陣を命じた。自身は7月下旬に出馬する予定であった。

家康は7月19日に江戸を発つことになるのだが、筆者が所持している浅野長吉(長政)宛の家康書状からも、その間の家康の状況を垣間見ることができる。

その書状には「御状則中納言殿へ 為持進候 猶出陣之節 以面可申承候 恐々謹言 七月一日 家康(花押) 浅野弾正少弼殿」と記されている。

「(浅野長吉が出した)お手紙を中納言殿へ進呈(進上)しました。なお出陣したときに、お会いして話をうかがいたい」との意味である。

本書状には年号はないが、家康が秀吉に臣従したのは天正14年(1586)10月以降、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで。その間の7月に「出陣」と書く状況にあるのは、天正19年(1591)しかないので、年代が推定できるのである。

ちなみに、文中の中納言殿とは、豊臣秀次のことだ。この書状が書かれた7月1日現在、家康は江戸におり、秀次は奥州に進軍中だった。この書状から、家康と秀次、長吉(長政)が連絡を取り合っていたことがうかがえる。同年8月7日、秀次・家康・長吉(長政)・政宗が福島の二本松に集結。九戸攻めについての作戦会議をしたのであろう。

その後、家康は岩手県南部まで向かうが、九戸攻めには参加していない。その代わり、井伊直政が九戸攻め(8月23日)に参戦している。

豊臣方の軍勢は6万とも言われるのに対し、政実が城主であった九戸城に籠城していた兵はわずか5000。政実方は善戦するも、勝負は見えていた。

西へ東へ、家康は奔走

攻囲軍は、九戸氏の菩提寺の和尚を使者とし、政実の武勲を称え、婦子女や城兵の助命を条件に和議を勧告した。

9月4日に政実はこれを受け入れる。ところが、約束は反故にされ、政実は処刑、城兵や婦女子までが惨殺された。

こうして九戸一揆が平定されたこともあり、家康は江戸城に戻った(10月29日)。このように家康は奥州の動乱にも深く関与し、知行割という政治問題にも関与していたのだ。豊臣重臣・家康として、西へ東へ奔走していたのである。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)