濱中治インタビュー
ケガと闘い続けた野球人生 後編

(前編:阪神「暗黒時代」からの脱却。野村克也に「頭を使う大切さ」、星野仙一に「闘う姿勢」を教わった>>)

 野村克也、星野仙一両監督のもとで成長し、阪神の主力として活躍していた濱中治氏だったが、2003年の右肩のケガと度重なる手術で自暴自棄になってしまう。そんなどん底の状態から立ち上がることができた理由、キャリアハイをマークした2006年シーズン、大きなケガを経験したからこそ得たものなどについて聞いた。


右肩のケガから復活し、2006年にキャリアハイをマークした阪神時代の濱中氏

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自暴自棄だった自分を救ってくれたファンの存在

――2003年に右肩を負傷して最初の手術。そして、翌年にも再び故障して2度目の手術となりました。

濱中 最初の手術は2003年7月でした。この時は、なんとかシーズン終盤に間に合って日本シリーズに出ることもできたんです。それで「来年こそ万全の状態で臨むぞ」と思っていた04年なんですけど、シーズンが始まってすぐに右肩がパンパンに膨れ上がってきたんです。5月ぐらいでしたかね。それで、2度目の手術を行なうことを決めました。

――原因は何だったんですか?

濱中 肩を開いてみると、前年に行なった1度目の手術の時のボルトが外れてしまって、中でグシャグシャになっている状態でした。本来なら2時間の予定だったのに、ボルトを取り除く作業で6時間くらいかかって、さらに2カ月後にもう1度、手術をすることになったんです。

――合わせて、3度の手術に臨むことになったんですね。

濱中 はい。2度目の手術が終わって、「これで野球ができるぞ」と思っていたのに、翌日に病院の先生から「2カ月後に3度目の手術をするから」と言われました。「もう、このまま野球ができなくなるんじゃないか」と考えると、本当にショックで、しばらくの間は自暴自棄になりました。

――まったく練習に身が入らないとか、リハビリのモチベーションが上がらないとか?

濱中 こんなことは絶対にあってはいけないんですけど、練習をサボったり、お酒に逃げたりという生活でしたね。でも、久しぶりに鳴尾浜のファームに顔を出してみたら、ファンの方から寄せ書きを集めたアルバムを3冊いただいたんです。

――その寄せ書きにはどんなメッセージが書かれていたんですか?

濱中 「甲子園のライトで待っています」とか、「絶対に戻ってきてください」ということがたくさん書かれていました。それを見た時に、「これだけたくさんの人が応援してくれているのに、自分は何をしているんだろう」と涙が出てきて。お酒に逃げている自分自身に嫌気がさしました。

2006年のキャリアハイで燃え尽きた

――ファンの方々からの熱いメッセージを受けて、そこから「改心」したんですか?

濱中 しましたね。「もう一度、ここからやり直そう」という思いで、必死にリハビリしました。翌2005年の開幕には間に合わなかったけれど、交流戦で復帰して、06年には守備にも就けるようになった。過去最高の打率.302、ホームラン20本も記録しました。支えてくれたファンの方、トレーナーのみなさんには感謝しかないです。

――2006年にキャリアハイを記録したものの、翌07年を最後にオリックス・バファローズへ移籍します。その後、肩の痛みはどうなったのですか?

濱中 そこから先はもう肩の痛みはまったくなくなりました。2006年くらいまでは、まだ疲れが溜まると痛みは出てきたけど、脱臼の不安は完全になくなりました。でも、その2006年に僕は完全燃焼してしまったのかもしれないですね。故障して、手術、リハビリを経てなんとか復活した。最初は打つだけだったけど、きちんと守れるようになってキャリアハイを記録した。その満足感が強かったのかな......。今となってみればそんな気がします。

――2008〜10年はオリックス、そして11年からは東京ヤクルトスワローズに在籍したものの、この年限りで現役を引退します。15年間のプロ生活、744試合に出場して通算580安打、85本塁打という成績でした。ご自分では、この数字をどう評価しますか?

濱中 ホームランを100本打っているわけでもないですし、決して褒められた数字ではないですけど、あれだけのケガを乗り越えて、2006年にキャリアハイを残せたので、自分では「よくやったな」という思いはありますね。その後、オリックス、ヤクルトでもやらせてもらいましたが、2003年の時点で引退していてもおかしくなかったですから。

――「故障を乗り越えて、よく頑張ったな」と。

濱中 そうですね、「よく15年もやれたな」と思いますね。とにかくファンの方々への感謝しかない。そんな15年間でした。

15年間で経験した苦しみや悲しみから得たもの

――「たられば」になってしまいますが、「あのケガさえなければ......」という思いはありませんか?

濱中 2003年は開幕から絶好調だったので、「せめて2003年だけでも万全の状態でシーズンを過ごせていたら......」という思いはありますね。本当に調子がいい時期でのケガだったので、「もしも故障していなければ、タイトルも獲れたんじゃないかな?」と。でも、もしケガをしないで順調だったら、天狗になっていたかもしれない。もしかしたらすでに天狗になっていたところを、「もう一度、頑張れよ」という意味で、ポキンとへし折られたのかもしれないし......。

――故障をしたから気づいたこと、得られたものもあると思いますか?

濱中 ケガをしてから、いろいろな人に支えられました。これは何物にも代えがたい経験だし、財産だと思います。現役引退後、阪神のコーチになったけど、ケガをしている選手の気持ちも理解することができたし、自分の経験を話すこともできました。現役時代にそれほどいい成績を残したわけではないですが、いろいろな経験をしたからこそ話せること、伝えられることが増えたと思います。

――人生には、決して無駄なことはないということですね。

濱中 僕には、プロ野球生活15年間で得た苦しみや悲しみがあります。この経験によって、いろいろ話せることもできました。やっぱり、僕にとってはいい経験をさせてもらった15年間だったと思います。今、地元・和歌山県田辺市を本拠地として、関西独立リーグの和歌山ファイティングバーズのGM(ゼネラルマネジャー)をやらせてもらっているのも、こうした経験があったからだと思います。

――このGM職では、「故郷への恩返しを」という思いが強いそうですね。

濱中 これまでずっと、「社会貢献」という形で故郷の田辺市に恩返しをしたいと思っていました。僕はユニホームを着ないですけど、できる限り選手を指導するつもりです。ちびっ子からお年寄りにまで愛される、地域に密着するチームにしていきたい。それが、現在の夢であり、やりがいですね。

■濱中治(はまなか・おさむ)
1978年生まれ。和歌山県出身。和歌山県立南部高校から、1996年のドラフト3位で阪神に入団。2001年にブレイクを果たして4番も務めた。2003年に右肩を痛め、3度の手術を行なうも復活し、2006年にキャリアハイをマーク。2008年にオリックス・バファローズ、2011年にヤクルトに移籍。2011年オフに引退後は指導者や解説者などで活躍している。