濱中治が振り返る阪神「暗黒時代」からの脱却。野村克也に「頭を使う大切さ」、星野仙一に「闘う姿勢」を教わった
濱中治インタビュー
ケガと闘い続けた野球人生 前編
1996年のドラフト3位で阪神タイガースに入団し、長距離打者として大きく期待された濱中治氏。2001年にブレイクを果たし、4番としても活躍したが、長くケガに苦しむことになる。時には野球を諦めることを考えるまで追い込まれながら、オリックス・バファローズ、東京ヤクルトスワローズとチームを変えながら、2011年まで闘い抜いた。
阪神で4番も担った濱中治(右)は野村克也(左)、星野仙一両監督のもとで成長した
***右肩の故障と闘い続けたプロ野球生活
――濱中さんの現役時代を振り返ってみると、常に右肩の故障との闘いだった印象があります。試合中の右肩脱臼がきっかけだったそうですね。
濱中 そうですね。2003年の広島戦(5月20日)で、一塁ランナーに出て頭から帰塁した際に脱臼しました。この時はすぐに元に戻ったんですが、病院に行くと「亜脱臼」と診断されて。何試合か休んだ後、巨人戦(6月13日)で復帰したんですけど、ライトから返球する時に完全に脱臼してしまいまして......。この時は瞬時にハマらず、病院に着くまでずっと外れっぱなしという状況で、手術をすることになりました。
――プロ入り前に脱臼癖はあったんですか?
濱中 まったくなかったんですが、小学生時代に肩を痛めたことはありました。手術の際に右肩を開いてみると、その時に無理して投げたことで関節唇がボロボロになっていて、それが脱臼の原因になったそうです。お医者さんには「幼少期の無理がたたったようだ」と言われました。
――スローイングにかかわることなので守備において大問題なのは理解できますが、打撃面ではどんな弊害が生まれたんでしょうか。
濱中 スイングの際の可動域の問題ですね。僕は「右手で押し込んでいくスイング」を心がけていたんですけど、可動域が狭くなってしまったことで、前で大きくさばくことができなくなった。それで打球が全然上がらなくなりました。
――具体的には、どのようなスイングになってしまったんですか?
濱中 バットが体の内側から出てくる、いわゆる「インサイドアウト」がまったくできなくなって、逆にバットが遠回りするようになりました。悪い見本の典型である「ドアスイング」です。そのため打球が上がらず、ゴロばかりが増えることになってしまった。フライが上がっても、ラインドライブ気味なので、せいぜいライナーでしたね。
――故障した2003年シーズン、濱中さんは開幕当初から絶好調でした。プロ7年目のこの頃に、バッティングのコツを会得したんですか?
濱中 野村克也監督の3年目、2001年頃から試合に出させてもらうようになって、翌年に星野仙一監督に代わり、田淵幸一打撃コーチと一緒にいろいろ取り組んだ成果が出始めたのが2003年でした。「あ、こうやったらボールは飛ぶんだ」「こうすればホームランになるんだ」と、ある程度わかってきた頃でのケガだったので、ショックは大きかったです。
――1997年に阪神に入団した濱中さんは、いわゆる"暗黒時代"から、野村監督、星野監督時代を体験し、2003年、05年のリーグ優勝を経験しています。やはり、この期間にチームのムードは大きく変わっていったのですか?
濱中 変わりました。特に星野さんが来てからですね。僕にとっては、野村さんに頭を使う大切さを教えてもらって、星野さんに闘う姿勢を教えてもらいました。
具体的に言えば、野村さんからは「配球の大切さ」を学びました。それまでは「変化球待ちでストレート対応」だったけど、野村さんに配球を教わって、「変化球待ちで変化球を打つ」ことができるようになった。僕のプロ初ホームランも「変化球待ちで変化球」を打ったものでした。
――2001年5月13日、広島東洋カープの河野昌人投手から放ったサヨナラ3ランホームランですね。
濱中 この時に初めて、スライダーを待ってスライダーを打ちました。3ボール1ストライクだったのかな? 河野はスライダーが得意だったので、「ここでストレートは投げないだろうな。カウント狙いならスライダーだろう」と思ってスライダーを打ったんです。この時に「あ、野村さんが言いたかったのはこういうことなのかな?」と思って、そこからは必死にチャートを見たりして、配球を学ぶようになりました。
――具体的に、どのように配球を学んでいったのですか?
濱中 野村さんはいつもベンチで「次はスライダーや」「次はフォークだ」とボソボソ言っていました。僕はいつも野村さんの近くに座ってそれを聞いていたんですけど、ほとんどその通りになったんです。野村さんが言っていたのは、「カウントが悪くなった時に、このピッチャーはこのボールを投げてくる」ということ。ピッチャーは困った時に、自信があるボールを投げてくる。この言葉があったから、僕の初ホームランが生まれたのかもしれないですね。
――星野監督から学んだ「闘う姿勢」とはどういうことですか?
濱中 星野さんから学んだことで、とても印象に残っているのが「迷ったら、前に出ろ」ということでした。本当にいつもこの言葉を口にしていたけど、「悩んで後ろに下がるより、プラス思考で前を向いて野球をやるぞ」と教わって、気持ちの面で強くなれたのかなと思います。
――濱中さんが故障した2003年、星野監督の就任2年目に阪神はリーグ優勝します。チームのムードはすでに一変していたのですか?
濱中 2001年まではずっと最下位だったんですけど、星野さんが就任した2002年には開幕7連勝したんです。最終的には4位でしたが、チームの中では「来年はいけるんじゃないか?」というムードになっていましたね。そして、この年のオフに金本(知憲)さん、伊良部(秀輝)さん、下柳(剛)さんらが入ってきて、さらにいいムードになりました。
――充実した補強によって、「今年は優勝だ」という思いがさらに強くなった?
濱中 特に金本さんの加入が大きかったと思います。僕も含めて、それまではちょっとした筋肉痛でも休むような選手が多かったんです。でも、金本さんは絶対に休まなかった。試合に出ることの大切さを教わりましたね。この頃から、選手間の競争意識も強くなったと思います。自分が休むと、代わりの選手にチャンスが与えられてしまう。チーム内で競争が始まるから、個々のレベルも上がっていく。この頃は、そんな感じでした。
――濱中さんにも競争意識が芽生えましたか?
濱中 僕は赤星(憲広)さんと競うことになりました。最終的に、2人とも試合に出ることになるんですけど、2003年のキャンプでは死に物狂いで練習をして、「レギュラー獲り」を目指しました。その結果が、この年の優勝だったという気がします。
――でも、幸先のいいスタートダッシュを飾ったにもかかわらず、肩の脱臼、手術によって出場機会は激減することになってしまったんですね。
濱中 2003年は開幕当初からホームランも出ていたし、打点もトップを突っ走っていたんです。何とか日本シリーズには間に合ったけど、結局、その翌年も右肩を故障して、2度目の手術をすることになったんです......。
(後編:ケガと度重なる手術で「酒に逃げた」。ファンからの寄せ書きで改心し、15年を闘い抜いた>>)
■濱中治(はまなか・おさむ)
1978年生まれ。和歌山県出身。和歌山県立南部高校から、1996年のドラフト3位で阪神に入団。2001年にブレイクを果たして4番も務めた。2003年に右肩を痛め、3度の手術を行なうも復活し、2006年にキャリアハイをマーク。2008年にオリックス・バファローズ、2011年にヤクルトに移籍。2011年オフに引退後は指導者や解説者などで活躍している。