プロ野球選手としてもっともマスクを被った男・谷繁元信が「このボールは打てない」と断言する魔球5選
日本人選手最多の3021試合に出場し、捕手としてメジャー最多出場を誇るイバン・ロドリゲスの2427試合を上回る2963試合でマスクを被った谷繁元信氏。プロ野球選手として、世界中の誰よりも多くの球を受けてきた名捕手が選んだ「魔球」とは?
通算3021試合に出場し、2963試合でマスクを被った谷繁元信氏
2002年に中日に移籍した際、川上憲伸の球を受けた時の第一印象は「迫力ある投手だな」ということだ。そんな長身ではないが(180センチ)、角度もあるし、リリースの位置がかなり捕手寄りだった。
なにより憲伸の代名詞は"カットボール"。メジャーを代表するクローザーのマリアノ・リベラ(元ヤンキース)のカットボールを参考に開発したそうだ。大きく曲がるスライダー、それよりも球速があって鋭く曲がるカットボールを使い分けていた。今でこそしっかり区別されているが、当時は"カットボール"という呼び名は浸透していなかった。
これまで継投での完全試合を含め、捕手としてノーヒット・ノーランを4度経験しているが、その最初が憲伸だった(2002年8月1日/巨人戦/東京ドーム)。
その日の憲伸はストレートが走っていて、だからこそ変化球を有効に使えた。ノーヒット・ノーランを意識したのは、7回裏に松井秀喜を3打席連続空振り三振に打ちとった時だ。
翌日の新聞を見ると、「143キロのカットボールで松井から3つ目の三振を奪った」という一文もあったが、ほかのものには「高速スライダー」と書かれているものもあった。実際、僕がサインを出していたのはスライダーで、それを憲伸はスライダーとカットボールを投げ分けていたと思う。
バッターからすれば、カットボールは攻略しづらい球種であるのは間違いない。ストレートと思ってスイングした途端に微妙に変化してくるわけだ。日本球界にカットボールという球種を広めたのは憲伸だと思うし、強烈なインパクトとして残っている。
92年にリリーフながら最優秀防御率のタイトルを獲得した盛田幸妃
1987年のドラフトで、長嶋一茂さん(立教大→ヤクルト)の外れ1位で大洋(現・横浜DeNA)に入団したのが盛田幸妃さんだ。盛田さんは函館大有斗高校時代に3度甲子園に出場しているが、1987年の夏は1回戦で敗退。同じ大会でPL学園のエースとして春夏連覇を達成した野村弘樹さんがその年の大洋3位指名だから、いかに盛田さんの能力を高く評価していたかがわかるだろう。
僕は盛田さんの1年後輩で、強く印象に残っているのが1991年のシーズンだ。この年、盛田さんは中継ぎとして頭角を現し、26試合に登板した。この頃からシュートが強力になった印象で、とにかくキレが凄まじかった。とくに右打者にとっては、わかっていても打てない"魔球"だった。
シュートを意識するあまり、外角のストレート、カーブ、スライダーで簡単にカウントを稼げたし、凡打に打ちとれた。
当時、中日の主砲だった落合博満さんが打席に入る時に、「わかってるな」と必ずひと言口にした。要するに「シュートを投げさせるなよ」ということだ。あの落合さんをしても、盛田さんのシュートは恐怖心があったのだろう。盛田さんがマウンドの時は、捕手の僕に念を押して打席に入っていた(笑)。
しかし僕らも若かったし、ふたりとも結果を出さないと次がない時代。困ったらシュートを多投していた。落合さんと盛田さんの通算対戦成績は50打数9安打で打率.180。あの落合さんが2割に届いていないのだから、よほど苦手意識を持っていたのだろう。
翌92年は52試合に登板して14勝6敗2セーブ。中継ぎなのに131イニングを投げ、規定投球回に到達し、防御率2.05で最優秀防御率のタイトルを獲得した。
落差50センチのフォーク私のキャッチャー人生を語るうえで絶対に外せないひとりが佐々木主浩さんで、代名詞だった"フォーク"は今も強烈な印象として残っている。
佐々木さんのフォークボールは4種類ある。ストライクゾーンの中で落ちるフォーク。ストライクゾーンからボールゾーンに落ちるフォーク。右打者の少し外に逃げながら落ちるフォーク。左打者の外に逃げていくフォークだ。
50センチほどの落差があって、僕が受けた投手のなかでは当然ながらトップのフォーク。投げてみないとどう落ちるかわからないフォークでは意味がない。だが佐々木さんのフォークは、ボールの縫い目が見えてきれいに回転しながら落ちる。野茂英雄さんの球は受けたことないが、ふたりのフォークは似ていると聞いたことがある。
打たれた記憶があるのは落合博満さん。「フォークと思うから落ちるとか、落差があるように感じる。速いカーブだと思って打てばいい」と攻略した。
ほかに対応できたのは矢野燿大さん。東北福祉大で佐々木さんの1年後輩という関係もあって、ブルペンや試合で投球をたくさん受けてきたからタイミングが合ったのかもしれない。
とはいえ、ほとんどの打者が、佐々木さんがマウンドに上がるだけであきらめムードが漂っていた。それほど佐々木さんのフォークというのは強烈なインパクトがあった。
歴代最多の1002試合に登板し、407セーブを挙げた岩瀬仁紀
横浜時代は佐々木さんというすごいクローザーがいたが、中日でも岩瀬仁紀という球史に残る守護神がいた。そのふたりのボールを受けられたことは、捕手冥利に尽きる。
岩瀬はスライダー、シュートが一級品だった。おそらくこの球種は、左投手ではナンバーワンだと思う。しかもコントロールがいいから、イメージどおりに打者を打ちとることができた。
とくにスライダーは、岩瀬独特の軌道だった。スライダーというボールは、いくら曲がりが大きくても、投手の指を離れた瞬間に曲がれば打者は対応できる。だが岩瀬のそれは、打者のかなり近いところまで真っすぐの軌道できて、そこから大きく曲がり始める。打者の膝もとまで食い込んでくるほどの変化とキレを持っていた。背番号13にちなんで、マスコミからつけられたスライダーの異名が「死神の鎌」だ。
中日に移籍してきて岩瀬の投球を受け始めた頃、右打者の内角にスライダーを投げておけば、空振りか、ファウルか、フェアゾーンに入ったとしてもボテボテの内野ゴロ。あとは内角のストレート、外角のシュートの組み立てで大丈夫だった。
2007年の日本ハムとの日本シリーズ第5戦。8回までパーフェクトに抑えていた山井大介からクローザーの岩瀬に代えた。森繁和コーチが続投か否かを、僕のところに相談に来た。僕は迷わず「もしこの試合を勝ちにいくのであれば、代えたほうがいいと思います」と言った。
中日ナインもファンも53年ぶりの日本一を渇望していた。守護神不在ならまだしも、中日には岩瀬という絶対的なクローザーがいたのだ。賛否両論はあったが、勝つための最善の策だった。
プロ入りして15年連続50試合登板以上、9年連続30セーブ以上(通算407セーブ)、通算登板数1002試合。どれも驚異的な数字だ。普段はおっとりしているが、マウンドに上がれば無敵の守護神へと変身する。まさに偉大な投手だった。
狙い球は不可能...11種類の変化球最後のひとりは受けたことはないが、2006年と2007年の日本シリーズで対戦している日本ハム時代のダルビッシュ有(現・パドレス)を挙げたい。
ダルビッシュは「変化球は自分のなかではひとつのアート」だと語っているだけに、じつに多彩だ。その数は11種類とも言われていて、代表的なものはストレート、スライダー、カットボール、シンカー、カーブ、フォーク、チェンジアップ、ツーシーム......。
11種類もあれば、なにか劣る球種があるものだが、ダルビッシュは全部のボールを勝負球で使えるほどのキレと精度を誇っていた。これだけのボールを自在に操ること自体、人間離れしていると言わざるを得ない。
とにかく対戦した投手のなかでは、ダントツでナンバーワンだった。現役時代、日本シリーズに6回出場して合計27安打を放ったが、ダルビッシュから打ったヒットは、3本の指に入るぐらいうれしかった。自分のなかで打てそうな雰囲気がまったくなく、どの球種を狙ったというより、来た球にただ反応したという感じだった。内角高めのストレートを詰まりながらセンター前に運んだ1本だったが、今でもその感触ははっきり覚えている。