金融政策は、国民の”可能性”を広げる政策である―片岡剛士氏インタビュー前編 - BLOGOS編集部
※この記事は2013年02月08日にBLOGOSで公開されたものです
BLOGOSが「知」のプラットフォームSYNODOSとタッグを組んでお送りするインタビューシリーズ「SYNODOS×BLOGOS 若者のための『現代社会入門』」。自民党総裁である安倍氏が首相に就任して以来、その経済政策「アベノミクス」が注目を集めている。なかでも「次元の異なる金融政策」をめぐっては、賛否両論様々な意見が寄せられている。その政策の内容と、金融政策が好景気を導くメカニズムについて、三菱UFJリサーチ＆コンサルティング経済・社会政策部主任研究員の片岡剛士氏に話を聞いた。（取材・執筆：永田 正行【BLOGOS編集部】）
インフレが給料に好影響を与えるまでにはタイムラグがある
―金融政策によってインフレになると、通貨の価値が下がって、物の価格が上がるわけですから、実質賃金が下がることになります。また、ワイドショーなどでは、原油価格の上昇や輸入品の値上がりに悩む主婦の方の声が紹介されたりします。インフレと好景気の間には、どのようなメカニズムがあるのでしょうか。
片岡剛士氏（以下、片岡）：まず、インフレと景気回復や賃金上昇といった現象の間にタイムラグがあるのは事実です。ただ過去15年程、食料やエネルギーの国際価格が一時的に上昇したことでインフレ率が上昇した場合を除くとマイナス1％からゼロ％近傍のデフレが生じている状況から2％程度のマイルドなインフレ率が安定的に生じるという状況へと変わるのは、景気が回復し、失業率が改善し、さらに賃金が緩やかに上昇していくような形にならないと難しいでしょう。
金融緩和政策はどのような形で2％程度のマイルドなインフレ率と好景気をもたらしていくのでしょうか。今回のように、安倍首相が2％のインフレ目標政策を含む政策パッケージを打ち出すことで、これまでとは異なる大胆な金融緩和策が将来行われ、デフレから脱却できるのではないかと人々が期待すると、まず為替や株価といった資産価格が上昇します。これは昨年の11月14日に当時の野田首相が解散に言及し、安倍総裁が積極的な金融緩和策の実行を言及しはじめた以降の為替レートと株価の動きを見れば一目瞭然でしょう。
そして為替レートが円安になれば、一定期間を経て輸出が増えていきます。株価が上昇すれば企業の資金調達が容易になる上に、保有資産の額が増加するわけですから企業としては利益の見通しが立ち、懐具合が暖まってくることになります。企業業績が好転しつつあるという報道も最近目にするようになりました。こうした動きが、一定期間を経て賃金に回ってくるというのが典型的な一つの流れです。
ただ現在は、失業率がある程度高止まりをしていて、賃金も上がらないという状況です。企業が、「景気回復は一時的なものでまた元に戻ってしまう」と考えるのならば、人手が必要であっても容易に新たに人を雇おうとはしないでしょう。むしろ人手が足りないのであれば、現在雇っている人の労働時間を増やしたりするでしょう。また景気が悪化から好転していく初期のタイミングでは、それまで不景気で職を探すのを諦めていた人々が職を探そうとする動きも生じます。こうした動きがあって景気の回復に遅れる形で失業率の改善が生じていきます。
そして、景気回復に伴い失業率が改善していくといっても、大多数の人々の賃金上昇にまで結びつくには時間がかかります。失業率の回復は、今失業している方が職を得る、あるいは非正規雇用の方の待遇が良くなるという形で、徐々に徐々に一番困っている方から改善していくと考えられます。今までと同じ賃金水準で新たに人を雇うのが難しくなると、今度は既に働いている人の賃金を上げることで待遇を改善しないと企業はより働いてもらうのが難しくなります。ですから、いわゆるサラリーマンの方の賃金がすぐに上がるかというと、そこまでにはタイムラグがあるでしょう。
また、確かに円安になると円ベースでみた原油価格が上がるといった現象が生じますが、日本の場合は輸出企業が主体です。生産性が高い産業という意味でも、自動車などの輸出関連企業の影響力は未だ健在です。輸送機械産業、電気機械産業といった産業の特色は、製品を作るために必要な様々な部品や機械を他の企業・産業から多く調達しているという点です。ですから、円安が進むことで輸出企業が売り上げを伸ばし、利益を上げれば当然その影響は他の産業にも及びますし、大企業のみならず中小企業にも波及していきます。
当然、円安が進めば海外からの輸入製品と競合している国内産業にとっても恩恵は大きいですね。確かに円安によるマイナスの効果もあるので、それによって悪影響を被る産業もあります。ただし日本経済全体で言えば、このように円安によって悪影響を被る産業よりも恩恵を被る産業の比重が高いため、日本経済全体としては良くなっていくということだと思います。
―断定的な言い方は難しいと思うのですが、実際に給料が上がるというような効果が現れるまでにどの程度の時間が掛かるものなのでしょうか？
片岡：早くて大体1年～1年半程度といった所ではないでしょうか。まず生じるのは、”今現在”インフレになるのではなく、「将来インフレになるだろう」という予想です。
経済のプレーヤーは予想に基づいて行動します。近い将来、今よりもお金の価値が低くなっていくと予想すれば、お金をお金のまま持ち続ける、もしくは即座に現金化でき、金利の低い資産に投資するのではなく、高い利回りの資産への投資や、株式のように価格変動が激しい資産への投資を進めるようになります。さらに将来インフレになるという予想が強固になれば、今欲しい商品を買うことが得になります。こうして商品を買うという行動を起こし始めるのです。
行動を起こし始めると、一定のタイムラグを経て、実際に売り上げや利益の増加という目に見える結果が出てくる。その結果を見れば、「景気が良くなったな」という実感が生まれるわけですから、この調子でいけばもっともっと景気が良くなるのだ、という形で人々の期待が膨らんでいく。膨らんでいくとまた需要が出てきて、それによって売り上げがどんどん増える。
先程の質問の答えの繰り返しになりますが、需要が継続的に増加していくと、いつか生産が追いつかなくなり、人手が足りなくなって企業は新たに雇わなければいけなくなります。今までであればすぐ人を集めることができたけれども、もっと良い条件を提示しなければ雇えないという状況が色々な産業で生まれれば、賃金の上昇につながっていきます。賃金が上がれば当然所得が増えるわけですから、「これからインフレになっていくのであれば、もっと物を買った方がいいのだ」という話になり、それが更に需要を後押ししていく。予想ではなくて実際にインフレ率が上がる。こうして物価が上昇に転じつつ景気が上向いていくのです。
―金融政策に対する反論として、円安・株高になり企業の財務内容に余裕が出てきたとしても、国内に需要がないため生産は増えず、銀行もニーズがないので、貸し出しも増えない。よって好景気につながらないというものがあります。この点については、いかがでしょうか？
片岡：確かに即座に銀行の貸し出し額が増えるといった状況は起こりにくいと思います。
例えば80年前の昭和恐慌の日本や世界大恐慌の時のアメリカもそうだったのですが、インフレの予想が生じて、それが現実のインフレ率の上昇へと転換する過程では、当初銀行の貸し出しは増えないのです。その理由は、企業が多くの内部留保を抱えているからです。
つまり元々需要がない状態から需要が緩やかに増えていくので、当初企業は自分の財布にあるお金を使って投資をし、銀行からの貸り入れを増やそうとはしないのです。しかし、自分の手持ちのお金がなくなるぐらい需要が増えれば、銀行からお金を借りようという話になります。
また、銀行は貸し出しを行う際に担保を取りますが、多くの場合、担保というのは土地や株式といった資産です。今の日本は資産価格が低迷しているわけですから、銀行側からすれば、担保を取って貸し出しをしても担保価値自体がどんどん下がってしまう状況なのです。そういう状況下では、銀行はお金を貸したいと思いません。そうすると銀行は、担保価値が安定しているような超優良企業への貸し出しに限定したり、利息が確定している国債に投資をするといった行動に出てしまう。
しかし、「将来インフレになるだろう」という予想が生まれ、そのことで資産価格が上がり始めると、今お話ししたような現象とは逆の現象が生じるわけです。将来担保価値が上がっていくということになれば銀行側から見ても低リスクで貸し出しができるようになりますし、企業側から見ても増産しないと増加する需要に対応できず、内部資金で資金調達を行うのが困難という現象が生じます。つまり、金融緩和政策が目指しているのは、借りる側と貸す側の両面にとって良い循環が生まれてくることです。
現在は日本銀行がコントロールできる政策金利がほぼゼロで下げようがない状況ですから、金利が下がることで貸し出しが増える、もしくは銀行から企業がお金を借りるといった間接金融を通じた動きは即座には出てこない。しかし、為替や株式といった直接金融を通じて影響を与えるというルートもあるのです。間接金融を通じた動きが即座に出てこないからといって、金融緩和策が無効であるということにはなりません。ここにもタイムラグがあるわけです。
―金融政策が受け入れられづらい理由の１つに、「そんな単純な方法で現在の不景気が解決するはずがない」という素朴な思いがあるのではないかと思います。また、金融政策よりも規制緩和など、いわゆる「構造改革」を重視する意見の方もいますが。
片岡：問題が深刻であればある程、問題に対応したもっともらしい解決策がないと困るということですね。問題に対応したもっともらしい解決策を提示した方が皆さん安心する。そういう役割として、財政政策や成長戦略が必要となる局面もあるのかもしれません。
また金融緩和策は現在生じている円安や株高を助長するだけで、所得が上昇するまでには至らないという可能性がゼロであるとは言えません。公共事業に限らず、減税や給付金といった形での積極的な財政政策で冷え切った需要を温めるための呼び水を作り出すことや、政府の厳しい規制によって民間が十分に参入できないような場合に、政府の規制を緩和するといった政策も必要です。
ただ成長戦略については国民全員が納得のいくような素晴らしいビジョンを描くということが今の日本では非常に難しいことを指摘する必要があるでしょう。つまり価値観が多様化している中で、全員が「これだ！」と思うような成長戦略を描くことは非常に難しいのではないでしょうか。これまで何回か成長戦略が策定されてきましたが、日本経済はそのことで十分な成長を遂げたとは言えません。成長戦略が有力企業や産業からの要望をパッケージ化したものであったとすれば、有力企業や産業からの評価は高まるでしょうが、実際の経済成長に結びつくことはありません。デフレで成長の芽が乏しいと指摘しつつ、返す刀で政府が掲げる成長戦略が必要という主張は論理矛盾ではないかと感じます。
また、成長戦略もしくは財政政策を有効に生かすためにもやはり金融政策というのは重要なのです。なぜかと言うと、デフレの現状からマイルドなインフレを目指す金融政策の目的は、お金の量を増やすことによって人々が物を買いやすくする、もしくは経済活動を円滑にする、という可能性を高めることにあるからです。事業を始めたいけれど、お金もないし銀行から融資を断られてしまうといったことをなくして、可能性を高めるという政策なのです。やりたいことができるような環境作りというような意味合いで捉えるべき話だと思いますね。さらに言えば、金融政策よりも規制緩和を、金融政策よりも財政政策を、というのではなく、金融政策、財政政策、成長政策のベストミックスをどう考えるかということが重要でしょう。
金融政策には「個人の努力を無駄にしない」という側面がある
―規制緩和をして市場の力を存分に発揮させるべきという前提の上で、「それより手前に金融政策というもっとやりやすい事があるのであれば、それを先駆けてやるべき」というような理解で大丈夫でしょうか？
片岡：まず日本の大きな問題は15年以上も続いているデフレにあります。デフレという症状に最も効く政策を一つだけ挙げて欲しいと問われれば、それは金融政策です。長引くデフレから脱却することが必要だというのは、与党・野党を問わず多くの政治家が賛同するところでしょう。政治家がやる気になれば最もハードルの低い政策ですし、既に安倍首相が積極的な金融緩和策に強い姿勢で言及することで円安が進み、株高が生じているように具体的な成果が早期に明らかとなる政策でもあります。
一方で規制緩和や成長戦略といった政策は、利益を得る人と不利益を被る人というのが明確な形で現れやすい政策です。不利益を被る人は、いわゆる既得権益を持っているわけですから、既得権益を維持しようと執拗に抵抗するわけです。例えばTPPの議論であれば、農業に携わる方が反対するというのは、日本の農業を守るという理由以外にも、自分達が生活をしている場が犯されるのではないかという心配をしているためだと思います。
また、先ほど説明したように、金融政策という"可能性を高める政策"をしない状態で規制緩和をやってしまうと、既得権益を持つ人たちが、代わりの職もない状態で放り出されてしまう可能性が高くなります。金融政策をしながら規制緩和をやれば、何もない状態になったとしても、代わりの職を得る可能性は高まります。つまり、景気を温める、もしくは人々の懐を温めるというのは職を失った人が他の職に移りやすくなり、産業の流動化を進める、自分の本当にやりたいことをやれるような状態を後押しする政策なのです。だからより人材が流動化したり、自分が有利だと思うような所に行きやすくなったりするという効果もあるのです。「まず成長戦略！まず規制緩和！」みたいな話になると、それによって不利益を被る人達の居場所がなくなってしまいます。なので、規制緩和をやるのであれば、行き場所を作ってあげながらやったら良いのではないかと思います。
我が国の場合、15年以上デフレが続いています。こういった状況の中で若い人達の雇用が非常に苦しい状況にあり、「ロストジェネレーション」といった問題も発生しています。こういう若者の雇用問題に関して、現状のニーズに見合うようなスキルを磨いて、優秀な人材になるために頑張って努力をするということも大事かもしれません。しかしそもそも需要が増えなければ、せっかく身につけたスキルも生かすことができません。ですから、教育訓練や就業訓練といった政策も大事なのですが、同時に需要を増やす、金融緩和をするという政策をセットでやらなければ、企業としても新たに人を雇えないので意味がなくなってしまう。個人の努力を無駄にしないという意味が、金融政策にはあると思います。
―いわゆる”アベノミクス”は、金融政策と財政政策と成長戦略の三本の矢で構成されています。財政政策に関しては、バラマキ批判がありますが、金融政策以外のアベノミクスについて、片岡さんは、どのように見ているのでしょうか？
片岡：公共事業＝バラマキと安易に唱えるのはむしろ私は間違いだと思っています。“バラマキ”というと、無制限にばらまくというイメージがありますが、公共事業というのは、政府ないし官僚、省庁による選択が含まれています。もちろん、政府の選択が無駄かどうかという論点はありますが、選択した上で投資をしているわけですから、それは先程お話した意味合いでの“バラマキ”とは言わないのではないでしょうか。
例えば国民一人当たり1～2万円という形で皆に等しく配分するというのであれば、まさに”バラマキ”ですが、特定階層の特定産業への投資という意味での公共投資に、バラマキという言葉を当てるのは適当ではないと思います。
現状で言えば、デフレからインフレへと転換する起爆剤として行うというのならばともかく、景気対策としての財政政策という考えはむしろ捨てた方がいいと思います。我が国の場合、少子高齢化が進行していますから、昔のようにあまねくインフラ整備をして、そのすべてを維持補修していくようなことを行う財政的余裕は現状ほとんどないでしょう。ほとんど利用されない高速道路をずっと維持補修していくというのは非効率です。発想としては、これからの日本の姿を考えた場合にインフラ整備をどう行っていくのかという観点で公共投資を捉えた方がよいと思うのです。
これまでは、景気対策、つまり景気が悪くなったらとにかく一時的に財政出動をしなければならないといったことが繰り返され、財政出動には下支えの効果はあったにせよ結果的に景気回復は十分でなく、デフレが続いて財政赤字が詰みあがってしまいました。そうでなくて金融政策により2％のマイルドなインフレ率を維持することで景気安定化を達成し、財政政策は中長期的視野にたった計画的インフラ整備や、経済成長によって得たパイを再分配するための税や社会保障といった景気循環とは切り離した観点から行っていく必要があるのではないでしょうか。
―「財政政策」というと、どうしても公共事業で建設業界にお金が流れるようなイメージがあるのですが。
片岡：公共事業をしようとしても、人繰りの問題など物理的な制約があって、なかなか思うように進めにくいという状況もあります。例えば建設業の就業者数は1997年の8月がピークで約700万人でしたが、2012年12月の就業者数は479万人と32％程度減少しています。現在であれば、被災地の復興事業があるわけですが、今回安倍政権においては、2012年度補正予算として新たに5兆円程度を公共事業費として確保し景気対策を行うことになっています。補正予算前の段階（当初予算ベース）の2012年度公共事業費が5兆円程度ですから、補正予算の実行により公共事業費は倍増となります。被災地域の事業が頓挫してしまうリスクもあるわけです。
また公共事業を行うためには必要な重機を操作するスキルが必要ですが、失業している人が直ぐに重機を扱えるようになるわけではありません。高度な技能が必要なわけです。ですから、いわゆる土建型の建設事業みたいなものをたくさんやれば、経済に効果があるのではないかといっても、今、沢山の事業を一気に本当にできるのかというと、限界がある。補正予算というのは年度内で基本的に事業を終える必要があります。2012年度補正予算は今年2月に国会で成立する見込みですが、2012年度が終了する3月末まで1ヶ月強、少し執行を遅らせたとしても今年の5月くらいまででしょう。短期間に従来想定していた倍の事業をこなすことが今可能なのでしょうか。事業の実行可能性についても疑問が残ります。
だからそうした認識を前提とした上で、財政政策の中でも公共事業だけではなく減税などの税制改革という話も当然やるべきです。現在は特に不景気なわけですから、減税はやるべきだと思います。当面、円安によって原材料価格が上昇するのであれば、燃料への課税を取りやめる、例えばガソリンの暫定税率を廃止するといった方法もあるでしょう。
―税制の部分で言うと、減税という話は余り聞こえてきません
片岡：そうですね。財政政策の中でも、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるというような状況にあるのは確かです。アベノミクスでは「機動的な」財政政策がスローガンですので、政府の支出を拡大させるのではなく、タイミングを捉えて財政出動をしますと言っているわけです。中身においても濃淡があるのは事実です。
税制自体は当面の景気にどう対処するかという目的に加えて、将来の再分配政策、つまり景気回復によって拡大させた富をどうやって再分配していくかという目的があります。そして拡大しないパイを再分配するというのが如何に難しいかというのは民主党政権で散々経験したわけです。まず優先順位を決めて、一旦アクセルを踏むのであれば少なくとも増税はしない、歳出カットは控えるというような努力をすべきだと思いますね。
典型的なのは生活保護費を下げるといった動きです。2％のインフレ率が成立して、さらに生活扶助費が6.5％下がるということになれば、生活保護費を受給している方々の実質的な所得は、そうでない人と比較してさらに下がってしまう事になります。デフレから2％のマイルドなインフレ率を伴う景気回復が生じるタイミングでは、雇用や賃金の回復は最も困っている人々から生じていくと考えられますが、現在生活保護を受給しており、将来景気が回復しても生活保護の受給を続ける必要がある高齢者世帯、障害者・傷病者世帯の実質的な所得はこうした恩恵からは外れてしまう。つまり他の人々と比較してさらに困窮化することを容認するということにつながってしまいます。ですから、こうした政策の実施は経済の状況を見ながら慎重に決めるべき話だと思います。現在安倍政権の中で様々な政策の動きが立て続けに起こっています。しかし生活保護の削減のような話が比較的早いタイミングで提示され、それが合意につながってしまうというのは非常に危険なことだと思います。
―ちなみに生活保護の削減というのは、財政にどれほどのインパクトがあるのでしょうか？
片岡：ほぼ意味はないです。今回の場合ですと、2013年度から3年間で670億円削減するとのことですが、国及び地方の長期債務残高は2012年末に940兆円に達する見込みです。毎年の財政赤字は44兆円を超えています。これらの金額と比較すれば微々たるものだといえるでしょう。少しうがった見方をすれば、要は大多数の人達とは関係ない所で「歳出を削減する！」という話をすれば、歳費削減に熱心だと思わせることができます。そういう意味合いがあるのではないでしょうか？
歳出をカットしなければならないということは、誰でも多少なりとも認識していると思いますが、歳出カットを行う場合、本来であれば「社会の大多数の人に影響が及ぶような分野に対して広く薄く負担する」のでなければ意味がありません。しかし、やはり自分の懐が寂しくなるのは嫌なので、反対の声を上げにくいところをターゲットにして歳出カットを行うことになる。これは公務員の人件費削減という話においても非常に似た構図だと思います。
ただ注意しなければいけないのは、今歳出カットをやるべきではないと思うんですよ。何故かというと不景気だからです。皆さんの懐が全体的に寂しい状態の中で歳出カットにあえて踏み切ると、更に景気悪化を助長することになるので、そうならないような形を模索すべきです。
増えないパイを切り分けるのは苦しい
―今おっしゃったように、なかなか増えないパイを切り分けて行くというのは、パイの奪い合いになるので双方にとってかなり苦しい。なので、景気をよくするために金融政策を実施しましょうという話になるのですが、日銀は出来ないという。何故金融政策は、実施されないのでしょうか？
片岡：それは様々な利害が関係しているのだと思います。一つに、インフレになるということが、資産家でなおかつ現在沢山のお金を持っている人にとっては損な政策であるという点があると思います。
日本の場合、金融資産総額の3割を全世帯の1割弱の世帯が保有しているという状況です。そういった人達にとってみれば、インフレが進んでいけば、今持っている「円」という自分の資産がどんどん目減りしていくことにもつながる。しかし、一方で株価が上昇するわけですから、円から株に投資すれば別に問題はないのです。
デフレというのは、お金を貸す側にとっては非常に有利でしたが、一方でお金を借りる側というのは非常に不利だったわけです。何故ならデフレが続くと、金利が額面以上に上がってしまうからです。例えば100万円を借りた場合、先々もデフレであれば100万円の実質的な価値というのは上がってしまう。だから、お金を返すためには、デフレ状態の中でより稼がないとお金を返せないという状況になってしまいます。インフレになればお金の貸し手と借り手の関係が逆転していくわけですよ。そういう状況がデフレからインフレになるということです。
同様のことが先ほど指摘した雇用の話についても言えます。つまり、平均的な賃金というのはさっき申し上げたように、一番待遇の悪い人から徐々にしか上がらないのです。これは言うなれば、今失業している人達が職を得ることによって失業している人の所得が増えるけれど、今働いていてそこそこの生活ができている人達にとっては「ちょっと我慢してね」ということなんですよ。
―待遇が悪いところから徐々に恩恵が広がっていくというイメージがなかなか定着していないように思うのですが。
片岡： 2006～2007年の時に観察されたのは、アルバイトの時給が上がるなど、いわゆる非正規雇用者の待遇が改善していくという状況でした。問題は、そこで止まってしまったので、そこから先に恩恵が広がるイメージがなかなかできないということです。
もちろん、マイルドなインフレ率を達成する過程で生じる円安によって原材料の価格が上がると、その影響を一番大きく受けるのはもちろん所得の低い人達なわけですが、デフレの状態のままで原材料の価格が上がるというような状況が生じると、所得も上がらない上に、自分の使えるお金の総量である購買力を灯油やガソリンに割かなければいけなくなってしまう。そうすると100万円というお金を持っていたとしても、その100万円を使う、様々な商品を購入できるという可能性が削がれてしまう。ですので、円安によるマイナス効果もありますが、所得が上がらなければ結局マイナス効果は打ち消せません。「景気回復」と言った場合、それを受け止める人の立場によってイメージが異なると思うのですが、基本的に「景気回復」というのは、貧しい人から順々に良くなっていくという意味で所得再分配的な意味合いを持っているという点は重要だと思います。
所得の高い人達というのは、日本の場合でも少数ですから、その少数の人達が高い車や家を買ったりしても、それは毎年毎年継続して生じるわけではないですし、それによって国民全員が恩恵を受けるということにはなりづらい。しかし、今まで商品を買いたいけど買えなかった人が商品を買えるような環境になる。例えば30代の方で結婚したいのだけれども、お金がなくて結婚できない。そういった人達が、「奥さんと子どもがいても生活できるだけのボーナスを貰ったし、結婚できるじゃないか」と考えるようになって、そういった人達が増えていけば、そうした人達が色んな形で消費をしてくれる訳ですよね。そうした人たちのほうが、高所得者層よりも数が多いわけですから。こうして消費が増え、企業が儲かってより賃金が上がるというような形で安定的に需要が増え続けるという状況にならなければ、安定的な2％のインフレは達成できません。
―金融政策には格差を拡大させないという効果もあるわけですね。
片岡：そうですね。アメリカでも1％と99％というような議論があり、「格差」というものが何らかの形で経済成長に関係するんだという話はジョセフ・E・スティグリッツ コロンビア大学教授などが言っています。
やはり格差を拡大させないためにも、多くの人が景気拡大を実感できて、そこそこの給料とそこそこの生活を等しく行えるような社会にしなければならない。そのためには、やはりデフレを脱却して景気拡大を伴ったインフレを達成するということが今は必要ではないかと思います。
以下、後編に続く。
プロフィール
片岡剛士（かたおか・ごうし）1972年愛知県生まれ。1996年三和総合研究所（現三菱UFJリサーチ＆コンサルティング）入社。2001年慶應義塾大学大学院商学研究科修士課程（計量経済学専攻）修了。現在三菱UFJリサーチ＆コンサルティング経済・社会政策部主任研究員。早稲田大学経済学研究科非常勤講師（2012年度～）。専門は応用計量経済学、マクロ経済学、経済政策論。著作に、円のゆくえを問いなおす: 実証的・歴史的にみた日本経済 (ちくま新書)などがある。
