ライバルにまで守られた!?死してなお子孫を守り続けた真田幸村(信繁)の「良縁」

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真田幸村(信繁)の妻たち

大河ドラマで有名になった真田幸村こと真田信繁は、関ヶ原で西軍に与したことから不遇の人生を送っています。

しかし不思議なほど人間関係には恵まれていました。

真田幸村(信繁)(Wikipediaより)

関ヶ原の合戦で父昌幸と共に西軍に味方した信繁は、改易となり紀州九度山に配流となります。

妻たちも随行し、苦しい生活を強いられましたが夫を支え続けました。この頃、信繁は生活のために借金を重ねていたという記録が残っています。

信繁は4人の妻との間に12人の子をもうけていますが、その多くは紀州九度山に配流されてから生まれています。すごいですね。

最初の妻は、家臣・堀田作兵衛の妹(娘とも言われています)で、一般的には梅という名で知られていますが、実名や生没年は不明です。

信繁と梅が結婚したのはまだ信濃にいた頃で、彼は梅との間に生まれた長女をとても気にかけていました。嫁ぎ先に「娘が、心に叶わぬ者であっても、お見捨てなきようにお願い致す」という書状を九度山から送ったという逸話が残っています。

また、信繁は家臣・高梨内記の娘を側室としており、次女をもうけています。三女もこの妻との間の子ではないかといわれています。

一方で、彼の正室は大谷吉継の娘・竹林院です。彼が真田家の人質として豊臣秀吉のもとに遣わされていた時に、秀吉の上意により政略結婚したと言われており、そのあたりは大人の事情を感じますね。

夏の陣の密かな奮闘

この正室・竹林院も、信繁も九度山に配流となり生活は一変。そこでの生活は非常に苦しいものでした。しかし彼女は丈夫で美しい「真田紐」を考案し、それを家臣達に行商させて家計を助けています。大名の娘であるにも関わらず、内職までして夫を支え続けたのです。

真田紐(Wikipediaより)

1601年には嫡男の真田幸昌(大助)が誕生したのをはじめ、2人の間には1男5女が生まれています。生活は苦しいながらも夫婦仲は良かったのでしょう。

もし大阪の陣がなければ、家族全員、九度山で穏やかな一生を送っていたかもしれません。

しかし、時代の流れはそれを許しません。徳川家と豊臣家との間で雲行きが怪しくなっているのを知り、信繁は家族を連れて九度山を脱出し大阪城へ入城します。

冬の陣では信繁の活躍もあり、徳川方の攻撃に何とか持ちこたえて講和へと持ち込んだ豊臣方でしたが、夏の陣直前になり、圧倒的に不利な状況となります。

勝ち目がないとみた信繁は、長男・大助を手元に残し、敵方である伊達政宗の家臣・片倉重長に、次男・大八と娘たちの庇護を頼み込みました。

異例の行動です。重長と政宗は、事が発覚したら大問題になることを承知の上で信繁の頼みを快諾し、子供らを重長の居城である白石城に匿います。

伊達政宗(Wikipediaより)

その後、信繁が戦死すると竹林院は大阪を脱出しますが、紀州で浅野長晟の軍勢に捕らえられました。

しかし、家康によって赦免され、娘であるおかねの保護を受けながら京で暮らしています。彼女は慶安2年(1649年)まで生き、京都で死去しました。

子孫たちを守り続ける不思議な縁

片倉重長に庇護された子供たちは、その後も重長に匿われ続け、三女は重長の後室に迎えられました。

また、次男・大八は寛永17年(1640年)、28歳で伊達家(仙台藩)に召し抱えられます。この時、真田の名を聞いた幕府から「逆賊の子を匿っていたのではないか」と詰問状が届いていますが、伊達家は彼のことを幕臣・真田信尹(昌幸の弟)の次男政信の子だと弁明しました。

幕府もこれを深く追及はしなかったようです。

当時、庶民の間では大坂の陣で家康を最後まで追いつめた信繁の人気は高く、その子供を処罰したとなると騒ぎになると判断したのかもしれません。

その後、守信は姓を片倉に改め、片倉久米之介守信と改名します。

子孫が再び真田姓に戻ったのは、この守信から8代後、幕末期の真田幸歓の時です。この家系が仙台真田家として現在まで続いています。

真田神社

他にも、4人目の妻・隆清院は大阪夏の陣で難を逃れ、その娘は出羽亀田藩主・岩城宣隆に嫁ぎ継室に。また信繁の戦死後すぐに誕生した三男・佐次郎も宣隆のもとに引き取られ、元服すると三好左馬之介幸信と称して扶持380石を与えられ、岩城家の家臣となっています。

そして、関ヶ原で東軍についた外様大名たちでさえ多くが改易されお家断絶となる中で、敵対する者たちからもその子孫は守られ、現在まで家系が続いています。

信繁は九度山での長い不遇時代過ごしましたが、生前から死後までも人間関係に恵まれた、不思議な人生でした。