小型の船が海岸に直接乗り上げて船首を開き、兵士たちが飛び出してくる――映画でもよく見るシーンですが、この「上陸用舟艇」を世界で最初に生み出したのは旧日本陸軍でした。誕生の経緯と発展をひも解きます。

旧陸軍が欲した独自兵器「大発」

 軍用小型艇の一種、「上陸用舟艇」が持つほかに類を見ない特徴は、海岸に直接乗り上げて船首(バウ)の扉を開き、その開いた扉を歩板(ランプ)にすることで、兵士が容易に陸へと降り立つことができる点です。

 戦争映画などでよく見かけるこの船は、アメリカにおいてはLCPV(Landing Craft, Vehicle, Personnel)、通称「ヒギンズ・ボート」と呼ばれ、上陸用舟艇の代表のように扱われることが多いです。しかし、こうした種類の船、実は旧日本陸軍が昭和の初めに製造した「大発」というものが、原型だったのです。

 旧日本陸軍はなぜ大発を世界に先駆けて開発し、大量に生産できたのでしょうか。少し時代をさかのぼってその経緯を見ていきましょう。


ニューギニアのミルン湾で遺棄されたあとオーストラリア軍に使用される大発。特徴的なW字状の艇首や簡単な構造の操舵輪などがわかる(画像:Australian War Memorial)。

 第1次世界大戦(1914〜18)さなかの1915(大正4)年5月、イギリス・フランス連合国は、大戦中ドイツと同盟を結んでいたトルコを攻めるべく、地中海と黒海をつなぐ要衝、ダーダネルス海峡の西側にあるガリポリ(ゲリボル)半島へ上陸作戦を行いました。

 イギリス軍を中心に実施されたこの上陸作戦は、近代的な陸海統合上陸作戦の最初の戦例となるものでした。けれども、当時の上陸作戦では地上部隊を陸揚げするのに、通常のボートや小型の蒸気船に曳かれた艀(はしけ)を使うしかありませんでした。このため上陸に時間がかかってしまい、その間、トルコ軍に防備を固める時間的な猶予を与えてしまったのでした。結局、英仏連合軍は部隊を上陸させることはできたものの、その後、内陸への進出に失敗したことで12月には連合軍が撤退に追い込まれ、この作戦は失敗に終わっています。

 当時の日本陸軍は、ガリポリの戦いの戦例を深刻に受け止めました。とくに日本軍の基本戦略を定めた「帝国国防方針」が1925(大正14)年に改訂されると、陸軍にはこれまでのようにロシアとの戦いだけに備えるのではなく、海軍と協力してフィリピンを攻略することも求められるようになったからです。

 旧日本陸軍は、明治時代から幾度も上陸作戦を経験してきています。だからこそ、ガリポリ上陸作戦の教訓をうけて、近代的な上陸作戦の難しさを一層実感したともいえるでしょう。

参謀総長も呆れた広島の舟艇部隊

 旧日本陸軍で海上輸送を担当したセクションは、広島県の宇品にある陸軍運輸部でした。しかし、大正時代の後半は軍縮もあって、この組織はなかば休眠状態にありました。日露戦争で使用した、上陸用の木製の艀や、団平船(だんぺいぶね)と呼ばれる重量物の近距離輸送に使用する平底の和船をいまだ多数抱えている状態だったのです。

 こうした問題から、1920(大正9)年の演習で、当時の参謀総長である上原勇作大将(のちに元帥)に「鉄舟でなければダメだ」と指摘されたほどで、さらに翌年の演習では、荒天の影響で目的地に上陸できないという事態まで引き起こしました。


ガリポリに上陸する、イギリス・アンザック(オーストラリア・ニュージーランド)軍団。使用しているのが通常の木製のボートや艀であることがわかる(画像:Australian War Memorial)。

 陸軍運輸部ではとりあえず、これまでの木製船に船外機を付けることで対応しましたが、これらも1922(大正11)年の演習では、荒天のため多数が転覆。さらに1925(大正14)年の伊勢湾陸海軍協同演習では、試作中の舟艇が転覆して、多くの溺死者を出す”事件”まで起きました。

 ここにいたって、陸軍は上陸船艇の抜本的な開発と上陸作戦のシステム化を決意します。

 まず上陸を担当する専門部隊として広島県の第五師団を指定、隷下の工兵隊のなかに「丁工兵」と呼ばれる舟艇を担当する専用の隊を編成しました。なぜこうしたかというと、それまで陸軍は操船や荷役のために民間作業員を軍属として雇っていたからです。そうではなく、舟艇運用専門の兵士を育てることにしたというのです。ちなみに、これが後年拡充され「船舶工兵」、ついで「船舶兵」となりました。

 一方、それと並行して陸軍運輸部では、上陸作戦に使いやすい新たな舟艇の開発に着手します。

A→B→Cと発展、戦車も搭載可能に

 旧日本陸軍は当初、ひとつのフネを原型とし、そこからバリエーション展開することで上陸作戦に必要な諸々の用件に対処できると考えていたようです。しかし市原健蔵技師を中心とする陸軍運輸部の技術開発セクションは、これに反対。おおむね4つからなる上陸作戦用の船艇を提案し設計しました。

 内訳は、小型で兵員30名ほどが載せられる「小型発動艇(小発)」、上陸作戦時に偵察や連絡に用いる「高速艇(甲と乙)」、味方の上陸を至近から支援するため小型の砲と機関銃を備えた「装甲艇」、そして小発よりも積載力に優れた「大発動艇(大発)」です。大発は、兵員60名または馬、もしくは野砲や山砲など、さらに物資12tを搭載することが可能とされていました。


大発の側面・前面図(樋口隆晴作画)。

 大発は1925年の試作型(A型)を経て、1927(昭和2) 年にB型が製造されるようになりましたが、このB型こそ、艇(船)首を開き、それを歩板(道板)にした、現代に続く上陸用舟艇の原型となったものです。また海岸近くの浅い海面で行動したさいに、スクリューが損傷するのをふせぐため、通常のプロペラ型ではなく、螺旋状のいわゆるスパイラル型に形状を改めていたのも特徴でした(一部の艇は通常型)。

 このあと、同年製造のC型では、艇首底面の肋材を2本として、上陸時、とくに重量物や火砲をおろす際の安定性を高めています。このアイデアも市原技師によるもので、C型は正面から見るとW字型に見えるのが特徴となっています。

 さらに1932(昭和7)年には、戦車(八九式中戦車)を積載・揚陸できるように各部が強化されたC型が誕生、こうして大発は兵器として完成の域に達しました。

海軍も使って5000隻以上生産

 大発のデビューは、1932(昭和7)年の第一次上海事変にともなう、七了口上陸作戦からでした。この上陸作戦は、もっとも成功した最初の近代的上陸作戦と評価されています。その後、八九式中戦車よりも重い九七式中戦車が登場したことから、同戦車を搭載できるように大型化した「特大発」も製造されました。

 大発に代表される各種の上陸用舟艇は、太平洋戦争では各地の上陸作戦で使用され、それなりの貨物を積めることや取り回しの良さなどから、荷揚げ施設の貧弱な港湾や局地における短距離輸送、さらには不得手とはいえ小型火砲を搭載しての対魚雷艇戦闘(武装大発と呼ばれた)など、上陸作戦以外にもさまざまなシーンで使用されています。なお、旧日本海軍もその使い勝手の良さから、「十四米特型運貨船」という名称で使用しました。


貨物を積んで航送する大発。喫水が深くなっているので満載状態だと思われる。大発は近距離の輸送にも使用された(画像:アメリカ海軍)。

 大発は、太平洋の半分まで戦場が広がった状況で、あらゆる戦域で使用されたことで、日本軍の将兵には馴染みの深い船となりました。こうして幅広く使われた大発は、5500隻余りも生産されています。

 一般にオリジナリティーがないと言われている日本の兵器ですが、大発は真の意味でオリジナルな兵器だったと言えるでしょう。