旧海軍の艦艇のなかで軽巡洋艦「夕張」ほど、後の軍艦設計に影響を与えた艦はありません。しかも「夕張」は、軍艦のバイブル「ジェーン軍艦年鑑」で8年間も「特別説明」されるほど偉大な軍艦でした。それは何故なのでしょう。

のちの旧海軍艦船の作り方を一変させた革命艦

 1923(大正12)年に就役した軽巡洋艦「夕張」は、常備排水量3100トンの小型軽巡洋艦ですが、性能的には一回り以上大きな5500トンクラスの球磨型や長良型といった軽巡洋艦に比肩するほどの、画期的な艦でした。なぜ、そのような革新的な「夕張」が生まれたのか、そして後世の軍艦設計にあたえた影響について見ていきます。


旧日本海軍の軽巡洋艦「夕張」(画像:アメリカ海軍)。

 そもそも「夕張」の基本計画番号は「F42」です。この番号は駆逐艦である睦月型「F41」と、特型「F43」のあいだにあたることを指しています。実際、「夕張」の船体、艤装、機関は駆逐艦式でした。なぜ駆逐艦式にしたかというと、巡洋艦構造は船殻重量比が大きいため、軽量化を図るべく採用されたものだったのです。

 そして、この「夕張」で採用された、小型艦への連装砲塔の搭載や、主砲の背負式配置は「特型駆逐艦」こと吹雪型駆逐艦で踏襲されています。

 一方で、初めて採用された塔型艦橋や誘導煙突、重油専燃機関、NVNC鋼(ニッケルクロム鋼の一種)、装甲材を船体強度部材としても使用する軽量化構造は、古鷹型重巡洋艦に踏襲されました。

 日本重巡の船体構造は、後の大和型戦艦でもかなり踏襲されています。排水量に対して重武装で、航洋性にも優れるのが日本の水上戦闘艦群ですが、「夕張」はそれら全ての始祖と言える存在なのです。

では、なぜこのような画期的な軽巡が建造されたのでしょうか。

金欠事情が画期的な艦を生み出した源

「夕張」が計画されたのは、1917(大正6)年度。当時、旧日本海軍は戦艦8隻、巡洋戦艦4隻の整備を目指した、いわゆる「八四艦隊計画」を推進していた時期で、その予算で建造が計画されたのです。同期の軍艦は加賀型戦艦や天城型巡洋戦艦、球磨型や長良型の両軽巡洋艦でした。


旧日本海軍の軽巡洋艦「夕張」(画像:アメリカ海軍)。

 この時点で、日本の国家予算に占める軍事費の割合は、40.4%にも達していました。しかし、日本はアメリカへの対抗上、さらに強大な戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心とする八八艦隊を目指していたため、さらなる軍事費の増額は避けられない情勢でした。

 こうした情勢下、藤本喜久雄造船大佐が画期的な巡洋艦を着想し、それに賛同した平賀譲造船少将が関係方面を説得して、建造にこぎつけたのが「夕張」でした。平賀造船少将は5500トン型のいわゆる球磨型や長良型13隻を、3100トン型すなわち夕張型13隻にすれば、戦艦1隻分の建造費用を捻出できると説き、5500トン型の1隻を「夕張」に変更させたのです。

 当時の「大正六年度計画」を参考にすると、軽巡が691万円、小型軽巡が455万円ですから、13隻で3068万円の差となります。同年度予算の加賀型戦艦「加賀」が2692万円ですから、実現すれば戦艦1隻分は安くなる計算でした。

ド級戦艦以上に世界から注目された超スゲェヤツ

「夕張」は、常備排水量3100トンの船体に、50口径14cm砲6門、61cm魚雷発射管4門を搭載し、19+38mmの舷側装甲を備え、最大速力は35.5ノット(約65.7km/h)を発揮する計画でした。

 参考までに、同時期の建造となった長良型軽巡洋艦は、常備排水量5502トン、50口径14cm砲7門(内片舷に指向できるのは6門)、61cm魚雷発射管8門(片舷4門)、舷側装甲63.5mmで、36ノット(66.6km/h)でした。

「夕張」は今までにない軍艦だけに、設計通りに施工できない部分もあり、実際は常備排水量3509トン、最大速力は34.7ノット(時速64.2km/h)とやや目標に届きませんでした。それでも長良型の64%しかない排水量の船体に、ほぼ同等の武装を搭載した設計は画期的だったと言えます。さらに長良型よりも、船体の動揺や振動で優れていました。


旧日本海軍の軽巡洋艦「多摩」(画像:アメリカ海軍)。

 こうして生まれた「夕張」の画期的な設計は、世界中を驚かせました。世界の軍艦を解説するジェーン軍艦年鑑の1926〜1933年版で「夕張」は、「特別説明」として「わずか3100トンで、球磨型と大差ない速力と攻撃力を備えた、特異な巡洋艦」と解説されました。「夕張」の誕生17年前に生まれた、イギリス戦艦「ドレッドノート」も世界中の軍関係者を驚愕させた画期的な軍艦でしたが、こちらは「特別説明」などされていません。それだけでも「夕張」が、世界をいかに震撼させたのかがわかります。

 イギリスの「ザ・エンジニーア」誌や、アメリカの「バルチモア・サン」誌は「日本の新鋭軽巡恐るべし」という内容で取り上げており、イギリス議会では同国海軍省が「我が国の巡洋艦は、夕張や古鷹型と比べて、劣るものではない」とあえて釈明したほどでした。

完成され過ぎていたがゆえに1人っ子へ

 イギリスのエメラルド級軽巡洋艦は、常備排水量7550トン、45口径15.2cm砲7門、53.3cm魚雷発射管12門、舷側装甲38〜76mm、最大速力33ノット(61.1km/h)でした。日本の「夕張」と比べると、同級の方が船体は大きく、搭載武装も強力であるものの、片舷に向けられる砲と魚雷は6門ずつであり、「夕張」の方が高速で大きな魚雷を装備していたため、実質的な戦力は大差ありませんでした。

 アメリカのオマハ級軽巡は、常備排水量7050トン、53口径15.2cm砲12門(片舷8門)、53.3cm魚雷発射管10門(片舷5門)、舷側装甲76mm、最大速力は35ノット(64.2km/h)なので、「夕張」を同級と比べるとやや劣りますが、性能的には対抗可能な範囲だと言えるでしょう。


アメリカ海軍の軽巡洋艦「オマハ」(画像:アメリカ海軍)。

 前述したように、後年の旧日本海軍のさまざまな水上戦闘艦は「夕張」の影響を受けて登場していますが、イギリス海軍協会誌やアメリカ海軍学会誌でも「夕張のデザインに基づいた新型軽巡」の提案が掲載されるなど、その影響は日本にとどまらず世界中に波及していたほどだったのです。

 このように画期的な高性能艦である「夕張」でしたが、問題もありました。航続距離が計画の66%に止まったことや、小型船体の宿命で、航空機搭載といった、時代に合わせた改装が難しかったのです。ゆえに実験的な性格を脱することができず、姉妹艦が建造されることはありませんでした。

結局、「夕張」1隻のみの建造で終わったのはそういう理由からだったと言えるでしょう。

※写真を修正しました(1月10日14時50分)。