上野ー仙台間寝台急行「新星」は夜汽車のイメージぴったり(1982年、写真:谷川一巳)

今思い起こすと、国鉄でめぐった日本の鉄道の旅は実に興味深く面白かった。

日本は狭い国土ながら、急峻な山あり谷あり、南国もあれば雪国もある。それらの地域を鉄道は海に沿って、あるいは谷に沿って走り、町と町を結んだ。勾配路線、豪雪地帯、トンネル断面の大きさ、電化方式、線路規格の違いなどがあるため、車両もそれに対応したものが使われ、長距離列車はいくつかの機関車をリレーして運転した。

長距離列車や夜行列車が各地にあり、寝台車はあこがれの的だった。優等列車には食堂車やビュッフェ車が連結されていて、現代よりもずっと優雅な鉄道旅ができたのである。

圧倒的な長距離を走る在来線があった

最長距離列車として有名だったのが「富士」と「高千穂」で東京―西鹿児島間を日豊本線経由で結んだ。「富士」は所要時間24時間以上の寝台特急だ。さらに「高千穂」は所要時間31時間以上の座席急行だったので、始発から終着まで乗るにはそれ相応の覚悟が必要だった。普通車は冷房がなく、座席は背もたれが直角の4人ボックス席である。


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最長距離電車特急は大阪―青森間の「白鳥」で、青函連絡船へ乗り継いでさらに札幌あたりまで列車に揺られる人も多かった。「白鳥」には実際に大阪から青森まで向かう乗客も少なくなかったが、始発から終着まで乗る人はまずいないだろうと思われる長距離列車もあった。名古屋―天王寺間の特急「くろしお」、急行「紀州」、大阪―博多間山陰本線経由「まつかぜ」などである。

ルートが事前に知らされない「ミステリー列車」さながらに思いもよらぬルートで運転したのは急行「大社」である。大社とは出雲大社の大社。名古屋―大社間を走るが、名古屋から東海道本線、北陸本線、小浜線、舞鶴線、宮津線、山陰本線、大社線経由というルートだった。

駅を出るとぐるりと1週して同じ駅に戻る循環急行もあった。盛岡発釜石経由盛岡行きは時計回り「そとやま」と反時計回り「五葉」があった。札幌発胆振線経由札幌行きではどちら回りも「いぶり」だった。

普通列車にも上野発一ノ関行きの客車鈍行があり、途中機関車を2回交代して運転した。

長距離鈍行の宝庫といわれたのは山陰本線で、たとえば京都発で最も長い距離を走る列車は島根県の浜田行きであった。最長距離鈍行は門司を5時台に出発して福知山に23時台に到着する列車だった。いずれも手動ドアが開きっぱなしの客車を機関車が引いた。

これらの列車は、多様な需要を1本にまとめた列車ではあるが、さまざまな区間で特急券などが1枚ですむほか、鉄道ファンにとっては乗ること自体が大いなる旅だったのである。

稚内から西鹿児島まで走っていた夜行列車

新幹線が博多に達しても、夜行需要は残り、東京発九州行きの寝台列車は数多く運転された。食堂車も連結され、翌朝、食堂車営業開始のアナウンスで目覚める寝台車の旅は至福の時間であった。

その頃は空路がまだ一般的ではなく、出張客にも寝台特急は人気で、時間を節約したい人は新大阪、姫路、岡山あたりまで新幹線を利用し、そこから九州行きの寝台特急に乗り継ぐ需要も高かった。特急券が2枚必要だが、乗り継ぎ割引があった。

主要な路線には夜行列車があるのが当たり前で、当時の流行歌の歌詞にも夜行列車は数多く登場する。道内、四国内、九州内の夜行列車もあり、札幌から稚内、網走、釧路、函館行き、四国でも高松から宇和島、中村行き、九州では門司港から西鹿児島行きが熊本経由と大分経由の2本、さらに長崎・佐世保行きもあった。

現在は多くのルートが夜行高速バスにとって代わったが、四国内など夜行バスの運転がない区間にも夜行需要があったのだ。米子―広島間は木次線、芸備線経由の夜行急行「ちどり」があり、現在となっては廃止まで取り沙汰されているような閑散路線を、深夜に急行列車が走っていたのである。現在はこの間を高速バスが行きかうが、かといって夜行バスは運転されておらず、移動時間帯の趣向が変わったことを感じる。

庶民的な急行列車はローカル線にもきめ細かく乗り入れていた。上野発には水戸線、水郡線、日光線、両毛線、磐越西線、新宿発には小海線、飯田線、東海道本線にも御殿場線へ直通する急行列車があった。現在は線区ごとの運転で、線路がつながっているメリットが活かされていないのが残念である。

私鉄へ乗り入れる急行も多く、名古屋や大阪からは富山地方鉄道へ、博多からは島原鉄道へ、上野からは長野電鉄へ乗り入れる急行があり、上野発湯田中行き「志賀」には夜行もあった。現在は長野電鉄の屋代―須坂間は廃止になってしまったが、この区間を深夜に列車が往来していたのである。臨時列車ながら上野から鹿島臨海鉄道や茨城交通へ乗り入れる海水浴列車もあり、レジャーに鉄道がよく利用されていたと感じる。現在は乗り入れどころか、つながっていた線路を撤去している。

さまざまな列車が連結

東北地方では、網の目のようなネットワークを駆使した急行列車が数多く運転された。その一例を紹介しよう。仙台発の秋田行き「たざわ」、宮古行き「陸中」、盛行き「むろね」は気動車急行で、連結して出発、一ノ関で「むろね」を切り離し、花巻で「陸中」を切り離し、「たざわ」は田沢湖線経由で秋田へ向かう。

この3本の列車を連結した列車が発車した5分後、仙台発の青森行き「千秋」と羽後本荘行き「もがみ」を連結した列車が続行で東北本線を出発。陸羽東線を経由し、新庄で「もがみ」を切り離した「千秋」は大曲で仙台を5分前に出発した「たざわ」に連結して青森を目指すのである。新庄では米沢始発の車両も連結している。

これだけでもすごいのに、前述の「たざわ」は一ノ関で盛始発の「さかり」を、花巻で釜石始発の「はやちね」を連結して運転する。

こうすることによって、さまざまな地域から乗り換えることなく青森方面へ達することができた。併結区間で車両移動すればいいのである。たとえば宮古から弘前、遠野から大館などである。さらに青森では青函連絡船への乗り継ぎのおまけ付きである。お見事というしかない神業運行だった。

現在は需要が伴わないが、新幹線を核とした主要都市間移動のみが便利になった一方で、新幹線の来ない地方の過疎化が進んだということも感じる。

当時の国鉄は末期の赤字体質で、新聞では頻繁に「○○線は100円稼ぐのに3000円以上かかる」と報道され、経営合理化が迫られていた。駅の無人化、貨物営業の廃止、貨物列車を急行貨物などに集約、当時貨物列車に連結していた車掌車も廃止した。

しかし、運行側の都合ではなく、国民の足として最後まで輸送に専念したと感じる。前述の東北の急行列車は、連結、切り離しを繰り返すので、1本の列車が遅延するとすべての列車に影響する。単線区間が多く、対向列車待ちなどで遅延はしばしばだったが、交換駅ではタブレットを受け取った駅員は走って急行の運転手にタブレットを届け、少しでも遅延を回復させようと懸命であった。そこには国鉄マンの誇りのようなものを感じ、見ていて気持ちがよかった。

列車は遅延を回復すべくエンジン全開で単線の小道を飛ばし、空気バネではないキハ58系はよく揺れたものである。検札の車掌も足を少し開き、踏ん張って車内で立つのが特徴だったくらいだ。

最大の戦犯は「並行在来線」

そんな時代から40年以上が経ち、現在、鉄道の旅をすると、新幹線の延伸で都市間移動が楽になったが、いっぽうで、かつての鉄道旅のおもしろさも消え失せてしまったと感じる。

つまらなくなった理由はさまざまである。在来線の長距離列車や機関車牽引の列車がなくなったが、世界的に見ても、日本ほどではないが長距離列車や機関車牽引の列車は減少傾向にある。夜行列車減少も世界的傾向で、致し方ないと感じることができる(ヨーロッパではエコな交通機関として見直されてもいるが)。食堂車も世界的に減少傾向で、少なくとも車内で調理した食事を出す列車は激減している。

しかし、世界一の長距離を走るシベリア鉄道は近年になって増発されているし、北米の大陸横断列車でも全区間乗り通す乗客は少なくない。新しいものが好きな中国では、国内航空路と高速列車の整備で長距離列車はかなり減ったが、それでも北京や上海から烏魯木斉(ウルムチ)まで運行する列車などは健在である。景色を見ながら陸伝いに移動したいという需要はなくなっていないし、航空に勝てない区間でも列車にはのんびり行く遊び心も必要に感じる。

国鉄時代にはなかった観光列車や豪華寝台列車が運転されるようになったが、こちらも汽車旅旅情とはちょっと違う。快適ではあるが、車窓の美しさだけで旅情を感じるものではない。定期列車には、旅へ行く人、旅から帰る人、東京の孫に会いに行く人など、さまざまな事情の乗客が同じ寝台のコンパートメントなどになることと、車窓などが相まって鉄道旅情を醸し出していたと感じるからだ。


そして、鉄道の旅をつまらなくした最大の要因に、並行在来線のJRからの切り離しが挙げられる。これは世界的に見ても日本だけの特殊な姿である。新幹線延伸で主要都市間の移動は楽になったが、新幹線の駅が造られなかった町は在来線の特急はなくなり、第三セクターの運営も行わなくてはならず、新幹線開通が逆効果になっているケースもある。

海外の多くでは高速列車と在来線の線路幅が同じため、高速路線ができたからといって在来線の運営会社が変わることはない。台湾は日本同様に高速鉄道と在来線が別物だが、在来線は国鉄のまま、高速鉄道が別会社なので、競争が生まれて在来線がむしろ充実するようになった。

航空機や高速バスはどうしても点と点の移動になる傾向が強い。鉄道はネットワークを活かすことで威力を発揮するはずなのだが、北陸本線などこの先どうなってしまうのだろうと危惧してしまう。

かつての国鉄を回顧すると、現代の鉄道に欠けている魅力がいろいろ思い出されるのである。