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【ケガから復帰後、高速スライダーは曲がらなくなった】

――前回に続いて今回も、現東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチ、伊藤智仁さんについて伺います。ルーキーイヤーの、1993(平成5)年の開幕直後から大活躍したものの、7月には戦線離脱。そこから長いリハビリ生活が始まりました。

八重樫 ボールを投げることもできないから、チームメイトと離れてランニングをしたり、地味なリハビリに取り組んだりしていました。当時、僕は二軍のバッテリーコーチだったけど、あの頃のトモは、黙々と走っているイメージがとても強いですね。


2003年10月に引退会見を行なった伊藤智仁

――そして、長いリハビリ生活の末に1996年に復活。1997年にはカムバック賞も受賞します。この頃の伊藤さんの印象を教えてください。

八重樫 ファームで一生懸命、復帰に向けて励んでいることはチーム全員が知っていました。どうしても影は薄くなっていったけど、すごくいい男なので、みんなが「トモにはもう一度復帰してほしい」という思いは持っていたと思います。懸命なリハビリを続けて、本当によく頑張りました。ただ、やっぱり故障前と復帰後とでは、ピッチング内容が全然違っていましたよ。

――どのように違っていましたか?

八重樫 スライダーが前よりも曲がらなくなっていましたね。相手バッターもスライダーを見極められるようになってきましたから。特に右バッターが振らなくなったので、ボール球になるケースが増えた。ただ、フォークを覚えて活路を開いたと思いますよ。故障前とは違う組み立てで勝ち星を挙げていきましたね。

――長いリハビリの末に復活して1997年にカムバック賞を獲得したものの、1999年に二度目の手術。そして、2001年に三度目の手術を経験しました。華々しい活躍の裏側では、ケガと共にあったプロ生活でしたね。

八重樫 先発で長いイニングを投げられないから、「リリーフに回そうか?」という話も出たけど、連投もできないから中継ぎ転向もできない。だから僕たち首脳陣は、とにかく彼の故障が治ることを祈っていました。復帰に向けて、本人も努力を続けていたことはよく知っていましたから。でも、それは最後まで叶わなかった。本当に残念だったよ。

【2003年オフ、寂しすぎる引退劇】

――2002年オフに一度は戦力外通告を受けたものの、現役続行にこだわった伊藤さんの希望が通り、球団は通告を撤回。しかし、懸命のリハビリも実らず、2003年オフに正式に引退を決意しました。八重樫さんはこの一連の経緯をどう振り返りますか?

八重樫 トモの引退については、全然記憶がないんです。彼の場合、引退試合もなかったし、セレモニーもなかったよね。あれだけの高速スライダーを投げて、大活躍したピッチャーにしては寂しい終わり方でした。テレビで見たけど、秋の教育リーグでラストチャンスで登板して、全然投げられなかったんでしたよね。

――そうです。2003年10月25日、当時のコスモスリーグで現役続行をかけた最終テストに臨んだものの、最速は109キロ。これが最後の登板となりました。

八重樫 ヤクルトでは(荒木)大輔も、長くリハビリ生活を送っていたこともあったけど、「本当に頑張ったんだな」と感慨深かったです。前回も言ったように、本人は京都出身だけどお父さんが僕と同じ仙台出身だったから、当時も、そして今でも、僕としてはトモのことを「同郷だ」という思いがあるんです。その寂しさは大きかったですね。

――現役引退後に伊藤さんは、二軍、一軍で投手コーチを務めます。八重樫さんの指導者時代とも重なっていますね。

八重樫 短い期間だったけど、コーチとして一軍で一緒にやったこともあったね。一度、オープン戦の時だったかな? トモと大輔が投手コーチだった時に、一緒に大阪で食事をしたことがあったんですよ。前回話した、トモのお父さんの知り合いで、僕の先輩でもある人と食事をする際にトモも誘ったんです。

――伊藤さんのお父さんの知り合いで、八重樫さんの高校の先輩である人との会食が大阪で行なわれたんですね。

八重樫 そう。その先輩はすごく喜んでましたよ。伊藤智仁だけじゃなく、荒木大輔まで一緒に来たんだから。そういえば、沖縄のキャンプでもトモと食事をしたんだけど、そこでも大輔が一緒だったな。でも、トモは先輩の大輔が一緒だから、物静かにしていたね(笑)。

【二度と現れない不世出の好投手】

――伊藤さんは、先輩の前では物静かなタイプなんですね。八重樫さんから見た、彼の性格はどんなタイプなんですか?

八重樫 悔しさを表に出す、ピッチャーらしい性格の持ち主です。以前、この連載でも紹介した(高津)臣吾もそうだったけど、切り替え力にも長けていました。その悔しさをずっと引きずらない。すぐに割り切って、「次は頑張ろう」と思えるタイプでしたね。それもまたピッチャーらしい性格だったと思いますよ。

――生前の野村克也さんも、伊藤さんを評して「ピッチャーらしい性格の持ち主だ」と発言していました。

八重樫 そう思いますよ。マウンド度胸は最高でしょ。「打てるもんなら、打ってみろ」という闘志を前面に出して相手打者に向かっていく。まったく逃げない姿勢は、はたから見ていてもよくわかりましたよ。それで、あれだけの高速スライダーを投げて、バッターをキリキリ舞いさせる。ファンは喜んだと思うし、味方ベンチからしても頼りになる男でしたね。

――確かにヤクルト関係者にインタビューすると、古田敦也さんをはじめとして、伊藤さんを高く評価する人が多いですね。

八重樫 中日の中村武志っていうキャッチャーがいたでしょう。彼は花園高校出身で、トモの先輩なんです。彼は僕に会うたびに、「トモをよろしくお願いします」って言っていました。だから、武志には「お前の後輩じゃないよ、オレの後輩だぞ」って言ったこともありました(笑)。

――前回のお話にありましたけど、命の危険を感じるほどの高速スライダーを投げる好投手だったのは間違いないですね。

八重樫 もう、二度と出ないタイプのピッチャーですよね。投手としては短命だったかもしれないけど、ファンに与えたインパクトも大きかったし、球史に残るピッチャーだったのは間違いない。本当にいいピッチャーでした。

(第70回につづく)