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美女バレーボーラー益子直美の今 前編

 元バレーボール女子日本代表の益子直美がブレイクしたのは、1984年の春高バレーでのこと。東京代表・共栄学園の2年生エースとしてチームを準優勝に導き、美女アスリートとしても人気を集めた。

 高校3年生で日本代表に選出され、イトーヨーカドー女子バレーボール部でも主将を務めるなど活躍するも、25歳の若さで1992年に現役を引退。その後、テレビタレントや指導者など幅広く活躍を続けてきた益子だが、人気絶頂時に抱いていたのは「早く現役をやめたい」という思いだった。


タレントや指導者など幅広く活躍する益子直美 photo by Tanaka Wataru

――1984年の春高バレーでの準優勝を振り返っていかがですか?

「大会前に『目標はベスト4』と言ってはいましたが、それまで1セットも取ったことがなかった、同じ東京代表の(1年生の大林素子を擁する)八王子実践が同じブロックにいたんです。だからベスト4以上は無理だろうと思っていましたし、チームメイトたちも『ベスト8でも御の字だよね』とタカをくくっていました。それが、準決勝で八王子実践と当たって、まさか勝てるとは......。自分たちの実力以上のものが本番で出た大会でした」

――益子さんは「下町のマコちゃん」という愛称で注目を集めましたが、当時では珍しいジャンプサーブとバックアタックが印象的な選手でした。

「そのふたつが自分の武器だったんですが、完成度はそんな高くないし、最近の選手に比べるとお粗末なものでしたよ。なにしろ、見本とする選手がいませんでしたから。ジャンピングサーブも連続で入ったことがなかったのに、春高本戦では何本も連続で入ったんです。そういった点でもミラクルだったと思います」

――同年の秋には、高校3年生で日本代表に選ばれましたね。

「その夏にロサンゼルス五輪があって、江上由美さんや三屋裕子さんが引退されたこともあっての選出でした。当時の私にとって、周りのメンバーは"テレビの中の人たち"。そこに自分が選ばれた状況をよく理解していなくて、『サインほしいな』と思っていました(笑)。

 全日本で戦うために、アスリートとしてどんな覚悟をして臨んだらいいかもわからないまま、高校の恩師に『行ってこい』と言われてそこにいた感じです。完全に"お客様"でしたし、すごく失礼なことをしましたね」

――春高での活躍や、全日本に選ばれたことで爆発的な人気が出たことをどう感じていましたか?

「信じられませんでしたよ。中学時代は関東大会すら出たことがない選手でしたから。あの春高での"ミラクル準優勝"がきっかけで、本当に人生が変わりました。初めて全日本に入った頃は、通学路にある商店街を自転車で通る時に、薬局のおじさんが栄養ドリンクをくれたり、八百屋のおばさんが果物をくれたりしました。『見たよ!』と声をかけてくださるのも嬉しかったです。

 ファンレターもたくさんいただいたので、返事を書くために、父に返信用のはがきを用意してもらうこともありましたね。ファンレターに混じって、他の女子バレー選手の熱狂的なファンと思われる方から、カミソリが送られてきたこともありましたけど(笑)」


全日本当時の益子(『バレーボールマガジン』提供)

――注目を集めすぎてしまうのも大変ですね。

「学校の先生からは、『お前は有名になって学校の模範になっているんだから、変なことはするな!』と釘を刺されました。スカートの丈や、髪型にも厳しかったです。部活や全日本の活動もあって、修学旅行に行けず文化祭にも出られず......。その反動から、部活を引退してすぐにパーマをかけたんですけど、すごく怒られました。頭をゴンとされて、『なんだその寝グセは!』と(笑)」

――当時の益子さんはどんな選手でしたか?

「ミスをしないように、怒られないように、チャレンジをしない選手でした。高校までは怒られてばかりで、自分の意志を伝えることはほぼ皆無。当時の指導としては珍しくなかったと思いますが、とにかく先生に言われたことをそのままやっていました」

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――高校卒業後、イトーヨーカドーに入社してからは変わりましたか?

「イトーヨーカドーのバレー部に入ると、一転して『自主性』『楽しむ』ように言われたんですが、まったく意味がわかりませんでした。それまでは上から指示されたことをこなしていればよかったのに、『自分で考えないといけないの?』と。体は大きくても、心は成長していない"子ども"のまま社会人になってしまったんです。

 笑顔でプレーするなんて想像したこともなかったですから、楽しくやってみようと思うとふざけすぎてしまう。『スポーツを楽しむってどういうこと?』と悩むことが多く、逆につらかった。『早く引退したい』という思いが強くなり、結局はやめるまでバレーボールを楽しむことはできませんでした」


日立戦で大林素子のブロックを避けてスパイクを放つイトーヨーカドーの益子 (『バレーボールマガジン』提供)

――それで、25歳で引退という決断をするわけですね。

「本当は、もっと早く引退しようと思っていたんです。当時の私には、『名門の日立を破って日本一になる』という目標がありました。それを果たしたら区切りがつく。つまり『引退するために優勝しよう』と思って立てた目標でした。それを変えることは絶対にしませんでしたが、当時の私は試合が怖くてしょうがなかったんです」

――しかし引退の2年前、益子さんの入社5年目に、イトーヨーカドーは日立を破って優勝していますよね?

「その優勝から間もなく、監督に『引退したい』と伝えたんですが......。その時は全日本に選ばれていて、『会社としても行ってほしい』と説得されて現役を続けることになりました。翌年は連覇できなかったんですけど、やはり監督に『やめます』と言ったら、『若手が育っていないから』と引き止められて......。その次の年にようやく認めてもらえて、逃げるようにやめました。最後の2年はもがいていましたね」

――引退した後は、芸能界で活動すると決めていたのですか?

「いえ、やめた後のことは考えていませんでした。現役の時に、スキューバダイビングの資格は取っていたんですよ。オフのたびに沖縄に行って、真っ黒になっていました。『ひとりになれるから』という理由もあって取った資格だったんですが、『(引退後は)スキューバダイビングのインストラクターになるのもいいかな』と、ぼんやり考えていました。

現役最後の年に、監督にもそれを伝えたら『行ってこい!』と言われたんですが、いざ仕事としてやろうとしたら飽きてしまって(笑)。『これは自分にとって、リフレッシュするためのものだったんだな』と実感しました」

――そこから、結局はどういった道に進むのでしょうか。

「監督が『コーチとしてチームに1年残ってほしい』と言ってくださったので、アシスタントコーチをやらせてもらいました。この1年が、すごく貴重でしたね。相手チームのデータを集めたり、選手ひとりひとりの体調をチェックしたり、レギュラーではない選手をサポートしたり......。選手やスタッフが、どれだけ苦労をしているかを客観的に見ることができたんです。

 現役時代は、目の前の勝負のことしか考えられなかった。広い視野でチーム全体を見ることができていたら、もっとプレーに幅がある選手になれていたでしょうね。だけど、人間として成長するという点では遅くはない。その経験が、その後の人生に生かされたと思います」

(後編につづく)