実娘レイプ犯に無罪を下す裁判官の「一般常識」
※本稿は、高橋隆一『裁判官失格 法と正義の間で揺れ動く苦悩と葛藤』(SB新書)の一部を再編集しています。
■実娘への性的行為、無罪で炎上のワケ
2019年3月、名古屋地裁で父親の19歳の実の娘に対する性的行為が無罪とされる判決がありました。これに対して「納得できない!」「どうしてこれが無罪なんだ!」という批判の声がインターネット上で広がり、いわゆる「炎上」状態になったことを記憶している方も多いことでしょう。
このように一般の人には到底納得できないような判決になることが、裁判ではしばしばあります。というのも裁判の基本は「疑わしきは罰せず」だからです。
元裁判官という立場で考えたとき、担当した裁判官はその事件での実際の証言や関係者の供述など事件の全体とそれまでの経緯からして「同意がなかったとは言えない」という判断をしたのではないかと思われます。
なにぶん、この事件に関する記録を読んでいないのでうかつなことは言えませんが、裁判官が刑法を厳密に解釈するとこのように到底世間の人の一般常識では受け入れられない判決になることもあるのです。
おそらくこの裁判官も、世間からのバッシングは覚悟の上で「疑わしきは罰せず」の原則を貫いたものと思われます。
■推定無罪の原則、責任能力の有無…
他にも一般の人の感覚で受け入れ難いのが、殺人事件など重大事件の犯人が精神鑑定を受けた結果、犯行時に心神喪失の状態にあったと認められて無罪となることでしょう。責任能力がないことによる無罪です。
もっとも、検察官の方で起訴する前に精神鑑定をして精神疾患として不起訴にしてしまうことの方が多いので、本当の意味で責任能力のない人が起訴されることは少ないのです。
そのような人は措置入院として精神科病院に入院させますが、どちらかというと短期間で退院となります。犯行の原因が精神疾患に基づく場合は責任がなく、たとえ殺人を犯していたとしても無罪とせざるを得ないというのが刑事事件の原則なのです。
私自身はたとえ責任能力がなく罪に問うことはできなくても、精神科病院に入院させて一生出さないなどの措置が必要なのではないかと思っています。医療観察法という法律に基づいて強制入院させることになりますが、現状ではそのような人でも一生出さないというシステムはありません。
一般の人が安心して暮らせるように、何らかの法的手だてを考えるべきではないでしょうか。
■「毒婦」に罪を問えない裁判の仕組み
親による子供への虐待が起こるようになったのは、つい最近のことのように錯覚しがちです。昔に比べて若い人たちの精神年齢が低くなったからだとか、今の親は人の親としての自覚が足りないからだなどと言われます。
しかし自分の子供に対してひどい仕打ちをする親は、昔から一定数いました。むしろ今よりも人権意識が低く問題として可視化されにくいため、数は多かったかもしれません。私も横浜地裁にいた時に歴代の夫に自分が産んだ3人の連れ子を次々と殺すように仕向けた(と思われる)、「毒婦」のような女性が関係した事件の裁判をしたことがあります。仮にこの女性をB子と呼びましょう。
数年のうちにB子と結婚した夫たち全員が、B子と前の夫との間に生まれた子供を殺すという事件が続発したのは、1970年代のことでした。
子連れシングルマザーのB子は前夫の「子供1」を連れてCと再婚し、やがてCとの間に「子供2」が生まれます。その後、Cは連れ子である「子供1」を疎ましく思い殺害(傷害致死)し、刑務所に入ることになります。
■起訴されない以上、踏み込めない
それがきっかけで二人は離婚。B子は「子供2」を連れてDと再々婚し、「子供3」を出産しますが、またもDが「子供2」を邪魔にして死に至らしめます。Dと別れたB子は次にEと4度目の結婚をしますが、EはB子の連れ子である「子供3」を疎んじて殺害してしまったのです。こうして数年のうちにB子は自分が産んだ3人の子供全てを、「次の男」に殺害されてしまいました。
私が思うに、責任があるのは実際に子供に手をかけた男たちだけではないでしょう。おそらく男たちの誰よりも、母親であるB子自身が子供の存在を邪魔に思い、「消えてほしい」と願っていた、あるいは子供を守る意志がなかったのだと思います。最近では、母親も保護責任者遺棄で刑事責任を問われることがあります。
私だけではなく、この裁判に関わった誰もが「一番悪いのは犯人ではなく、犯人を陰で作り出したB子だ」と思っていたはずです。ところが私たち裁判官には、検察官がB子を起訴していない以上、そこから先に踏み込むことができないのです。
悪いのは明らかにB子なのに、何もできないことがつくづく悔やまれる事件でした。
■事件ニュースは「氷山の一角」
インターネット・新聞・テレビのいずれにも次から次へと「事件」のニュースが上がってきます。事件のない日は一日たりとてありません。「いつから日本はこんなに犯罪が多くなったんだ?」と思っている人もいることでしょう。
しかし実は表面に出てくる事件はほんの一部。「氷山の一角」が「事件」として人目についているだけで、その下には無数の闇に埋もれていく事件が存在しているのです。
あるとき、住所不定で車の中で寝起きをしながら生活している男性(仮にFさんとします)が「自分の戸籍を作ってほしい」と裁判所にやって来ました。必要があって戸籍があるはずの役所で何かの書類を取ろうとしたところ、「あなたの戸籍はありません。フィリピンで亡くなったことになっています」と言われたというのです。
「戸籍を作るにはまず家庭裁判所に行って裁判官に就籍許可決定をもらってください。それを持ってもう一度、ここ(市役所)に来てください」と、言われたということでした。そこでこちらで調べたところ、亡くなったことになっているFさんにはJという養子がいることになっていました。
戸籍を見る限りJは当時20代。しかし、Fさんは全く心当たりがなくJという人物の名前も聞いたことがないといいます。
■多くの事件が闇に埋もれている
私は直感的に「これは保険金狙いでやったことだな」と思いました。Fさんに多額の生命保険をかけて知らないうちに養子縁組しフィリピンで亡くなったことにして保険金をせしめたのでしょう。
家庭裁判所の裁判官としての私の務めは、「戸籍を作ってほしい」というFさんの申し立てについて許可をすることだけなので、Fさんに許可をしたところでおしまいになってしまい、その後、Fさんがどうなったか、本当に事件に巻き込まれていたのかということは分かりません。
公務員は公務員法によって犯罪を見つけたとき通知しなくてはならないという義務が課されていますが、Fさんに関する犯罪があったかどうかは推測の域を出ないので通知することまではできませんでした。
マスコミが動きだせば事件化されて警察も動きだしたかもしれませんが、「怪しい」と思うくらいでは動かないのが実情なのです。おそらく今日も多くの事件が闇に埋もれていっていることでしょう。
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高橋 隆一(たかはし・りゅういち)
元裁判官
東京都生まれ浅草育ち。早稲田大学法学部卒業。1975年に裁判官任官後、民事・刑事・家事・少年の各種事件を担当。2006年3月、千葉家裁少年部部長裁判官を最後に退官。その後、2006年4月、遺言や離婚契約の公正証書の作成などに携わる公証人になる。2016年8月退職。現在は弁護士(東京弁護士会所属)。
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(元裁判官 高橋 隆一)