愛知県知事が実行委員長を務める大規模な現代アート展の一部、「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた件で、批判派・擁護派の議論が過熱している。言論の自由・芸術の自由とその制限はどうあるべきか。大阪市長時代にヘイトスピーチ規制条例を制定した橋下徹氏が見解を述べる。プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(8月13日配信)から抜粋記事をお届けします。

■何が「ヘイト」か? 事前に判別するのは難しい

写真=時事通信フォト
中止となった「表現の不自由展・その後」で展示されていた「平和の少女像」=2019年8月3日午後、名古屋市東区の愛知芸術文化センター - 写真=時事通信フォト

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に関する今回の騒動は、芸術の自由、表現の自由とその限界を考えるには絶好の教材だ。

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これに類することとしてよく問題になるのが、役所が設置するホール等において政治集会を禁じることの是非である。特に、憲法9条改正反対などの集会が禁止されて、表現の自由の侵害だ! と問題になることが多い。

大阪市が設置する区民ホールは政治集会を禁じていなかった。基本的にはどんな政治集会でもOKである。後述するように、大阪市では全国初のヘイトスピーチ規制条例を制定したが、その過程における徹底した議論を基に、たとえヘイトスピーチの集会である疑いがあっても、事前に区民ホールの利用を禁止するわけにはいかないという結論に至った。

この点、朝日新聞的インテリたちからは、「ヘイトの集会なんだから、そんなの事前に利用禁止にしろ!」という声が上がった。

■ヘイトかどうかを誰がどのような基準で判断するのか?

しかし、彼ら彼女らは、表現「内容」による判断が難しいことを知らない。そして「内容」による判断を許してしまうと、今度は自分たちの表現行為も事前規制される恐れが高まることに頭が及ばない。

その表現行為がヘイトかどうかを誰がどのような基準で判断しろというのか。評論するだけの人は、「ヘイトは事前に禁じろ」と簡単に言うが、それを実際にやろうとすれば困難極まりないのである。

基準が不明確なまま事前に禁じることを認めれば、何も問題ない表現まで禁じられる危険性が出てくる。そして場合によっては「ヘイト」という概念を巧みに使って、時の政治権力が、自分たちに都合の悪い表現行為を「ヘイト」として禁じてしまう恐れも出てくる。

ゆえに大阪市のヘイトスピーチ規制条例は、「内容」による事前判断はできないとして、たとえヘイトの疑いがあろうとも、事前に区民ホール利用などを禁じることはしないという結論に至った。表現の自由を尊重したのである。その代わり、ヘイトの表現行為であれば審議会の審査によって事後的にヘイト認定し、公表することにしたのである。事前に規制するのではなく、事後の対応である。もちろん、場合によっては刑法犯として処罰される場合があるし、民事上の賠償責任を負わされる場合もあるが、これらも裁判所によって事後的にヘイト認定された場合であり、時の政治権力が事前に規制するのとは異なる。

表現行為の是非を「内容」によって判断することには、慎重でなければならないのである。常日頃、表現の自由を声高に叫ぶ者に限って、ヘイトは事前に規制しろ! と叫ぶが、表現内容による事前規制の恐ろしさを分かっていない。

したがって、政治的要素を含む表現行為については、判断権者の裁量でどうにでもなるという事態を防ぐために、「内容」によって個別にその是非を判断するのではなく、「認めるなら全て認める。禁じるなら全て禁じる」というように、「画一的・機械的に」アウト・セーフのラインを設定することがポイントとなる。

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■問われるのは展示物決定の「プロセス」が公平だったかどうか

他方、政治的要素の入った集会やイベントなどに、大阪府・大阪市が協賛や後援をすることは、厳格に一律に禁じた。

平和集会や教育的集会、人権集会などであっても、政治的要素が少しでも感じられるものには、大阪府・大阪市が協賛者、後援者として名前を貸すことを一切禁じたのである。これまで長年、府・市が協賛者や後援者として名前を貸していたものも、一斉に禁じたので、それらの主催者からは、猛反発を食らった。

特に、集会やイベントの「内容」が、朝日新聞的インテリたちが好みそうなものであれば、なおさらこれらインテリたちから猛批判を食らった。大阪府・大阪市は、平和や教育や人権から距離を置くのか! とね。

違う。

基準があいまいなまま、政治的要素の入った集会やイベントに大阪府や大阪市という公権力が協賛者・後援者として名前を連ねることを許すと、今度は公権力が、自分たちに都合のいい集会やイベントを後押しする危険も生じてくる。大阪府や大阪市に好かれれば、府・市の協賛・後援をとることができ、嫌われればとることができないという不平等も生じてくる。実際、大阪市は、市長選挙戦に伴ってそのようなことをやっていた。

では、大阪府や大阪市は、政治的要素の入ったあらゆる集会やイベントに名前を貸すことを一律に禁じるのではなく、全てに貸したらいいではないか、という意見もあるだろうが、大阪府や大阪市内での政治的要素を含む集会やイベントは無数にあり、府や市が申し出のあった全ての集会やイベントに協賛者・後援者として名前を貸すことは事実上不可能である。

このような考えから、大阪市設置の区民ホールにおいては、政治的要素が入ったとしても「全ての」集会(表現)活動に利用を許し、他方、政治的要素が入った集会・イベント(表現)活動には、大阪府・大阪市が協賛者や後援者として名前を貸すことを「一律」禁止としたのである。

政治的要素の入った表現行為については、一律に認めるか、一律に禁じるかの二者択一の判断。

これが、表現の「内容」によって個別判断するのではなく、プロセスや公平性によって判断する手続き的正義の考え方だ。

■展示物の内容でその是非の判断をしてはならない

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に話を戻すと、政治的要素の入った「表現の不自由展・その後」のイベントにおいては、政治的要素の入ったあらゆる展示物を「全て」認めるか、政治的要素の入った展示物は「全て」禁じるかの二者択一で判断するしかなかった。展示物の内容でその是非の判断をしてはならない。

橋下 徹『トランプに学ぶ 現状打破の鉄則』(プレジデント社)

全てを禁じるというなら、「表現の不自由展・その後」は中止。それはある意味、楽だし、役所が主催するイベントの本来のあり方だと思う。混乱を避けるというのが役所の本質的な役割なのだから。

しかし、もし、愛知県や名古屋市などの実行委員会や芸術監督である津田大介氏が、混乱を招いたとしてもこのイベントにあえてチャレンジする、というのであれば、政治的要素の入ったあらゆる展示物を「全て」認める方向でやるしかない。

ありとあらゆる政治的要素の入った作品を全て展示していく。「表現の不自由展」と銘打つ以上、至る所で猛バッシングを食らった、また食らうであろう作品、すなわち本来であれば日の目を見ない、表現の場が与えられないであろう作品を全て並べなければならない。

そしてこの際、重要なのは、あらゆる表現者にチャンスを平等・公平に与えたかというプロセスの部分であり、作品の取捨選択のプロセス、抽選方法等が厳格に行われたかどうかが一番のポイントとなる。表現の中身ではないのである。

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(ここまでリード文を除き約2700字、メールマガジン全文は約8800字です)

※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.163(8月13日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は《【表現の不自由展(2)】見えにくいアウト・セーフのライン。政治的表現を「内容」で規制していいのか?》特集です。

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橋下 徹(はしもと・とおる)
元大阪市長・元大阪府知事
1969年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、大阪弁護士会に弁護士登録。98年「橋下綜合法律事務所」を設立。TV番組などに出演して有名に。2008年大阪府知事に就任し、3年9カ月務める。11年12月、大阪市長。
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(元大阪市長・元大阪府知事 橋下 徹)