連載「礎の人 〜栄光の前にこの人物あり〜」第4回:山田久志(後編)

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――やはり星野仙一さんが、阪神に行ってしまったということが、プランとしても大きく狂ったと思うのですが。

「あそこで想定外だったのは、サッチー問題(当時阪神の監督だった野村克也の夫人・沙知代が脱税で逮捕され、野村が辞任)なんだよね。あれが私と星野さんをギクシャクしたほうに持って行くんです。『仙さん、私はあんたに呼ばれたんで、一緒にユニフォームを脱ごうと思って覚悟してるんだけど、あんたがそこまで言うなら(監督を)引き受けましょう。その代わり3年間やったらあんたも帰ってくる?』という話からスタートしたんです。『俺はもう1回ドラゴンズで勝負するつもりはあるよ』ということで引き受けているんです」


中日・山田、阪神・星野。公式戦初対決を前にあいさつを交わす両監督

――星野第三次政権があったと。

「あったんです。『じゃあ私が3年間やって、今のチームより必ずいいチームにして、もう1回あんたにバトンタッチすることを約束します』『わかった』と。そういう話でした」

――それが阪神の監督に。支えてくれるべき人が、むしろ同じリーグの監督になってしまった。しかも二軍監督の島野育夫さんまで連れて行った。

「新聞辞令で『阪神監督星野、有力候補』と出て、最初見た時にこれはありだなと思いました。ただ島野さんの件は、私はショックだったね。あの時は電話で、ふたりで結構しゃべりました。『それは仙さん、筋が違う。いくらなんでも』と」

 調べたら、島野の入閣は既成事実的に決まってはいたが、中日が島野と契約書をまだ交わしていなかった。その結果、片腕と考えていた島野は阪神に移籍し、山田は組閣の再編に迫られた。しかし、本来球団とのパイプ役になってくれるはずの星野はおらず、コーチ人事についての山田からの要望は通らなかった。

 現場を預かる山田へのサポートが、いかに希薄であったのか。象徴的な現象が、ドラフトと「ケビン・ミラー問題」から見てとれる。ドラフトは2001年と2002年の中日の指名選手を見れば、一目瞭然であろう。上位指名に山田の意向は反映されていない。

 2001年は、山田本人は大阪桐蔭の中村剛也(西武ライオンズ)を推していたが、谷繁元信がいるにも関わらず1巡目(前田章宏)、3巡目(田上秀則)ともに捕手。2002年の1巡目はアライバが全盛期を迎えようとしているのに内野手(森岡良介)であった。

 前後を挟む指揮官、星野や落合博満が強化や編成の実権を持たされていたことと比べればあまりにも対照的である。そして、フロリダ・マーリンズのケビン・ミラー獲得の失敗。

 メジャーで二年連続の3割を記録していた主砲とはすでに2年契約を交わし、支配下登録も済ましていた。ところが、ボストン・レッドソックスが横やりを入れる形で獲得を宣言、ミラーもこれに呼応して来日を拒否する。

 MLBはこの横紙破りを見て、実質的に理は中日にあるという立ち位置から、仲裁をせずにいた。だが、MLB選手会がミラーを支持し、この年に行なわれる予定であった日本での開幕戦のボイコットをチラつかせると、一気に腰がくだけて中日は契約解除に応じてしまう。

 実際、ガバナンスを破ったのはレッドソックスとミラーの方で、それはまるで日米外交の縮図を見ているような押し切られ方であったが、自由契約にするにしても山田には何の相談もなかった。

「最初に決まったと電話をいただいて、構想がもう自分の中であったんです。ミラーとゴメスを組ませて、そこに福留をはめてと考えて打線は形になったなと」

 しかし、それも画餅に帰してしまった。

 一方、2002年6月になると、すでに引退していたキューバのスラッガー、オマール・リナレスの獲得が親会社主導で発表された。

 中日新聞社にキューバとのパイプ確保の意図があったのであろうが、全盛期ならばともかく、すでにリナレスは野球ができる身体ではなかった。それでも「使え」という指令が来た。一塁しかできないということで、これで選手起用の枠がひとつ制限されることになった。

 結局、リナレスは日本シリーズでの活躍はあったものの3年間在籍して通算86本の安打数を記録して日本を去った。

 礎を築きながら、1年目は巨人に優勝を許し、2年目は星野阪神にぶっちぎられたことで、球団は山田に対して冷淡であった。

 2003年9月9日、勝率はほぼ5割をキープしながら、遠征先の広島で解任を告げられた。

 ホテルを出る際、見送りは誰ひとりおらず、選手に挨拶をすると自分で荷物をまとめ新幹線に乗り込んだ。グリーン車で名古屋に帰る途中、社内のニュースで「中日ドラゴンズの山田久志監督解任」という文字が流れるのを見た。

 実際に名古屋は本当に難しいところだった。往年の阪急ファンからすれば、いたたまれないような仕打ちであるが、それでも山田は恨み言を一切言わず、今でもCBC(中部日本放送)のドラゴンズの応援番組に出演しては、ポジティブな発言を続けている。

「愚痴など言いませんよ。なんでCBCにお世話になるかと言ったら、前の社長をやった会長の夏目(和良)さんが、コーチ時代から私を気にかけてくれたんです。それはとても大切なことで、夏目さんは、私が解任される2日前ぐらいに、実は監督室に来られたんです。あの時、だいたい会長は(解任が)わかっていたんでしょうね。でもそれを言わないで顔を見て帰るんですよ。私が名古屋で一番うれしかったことです」

 中日は東海地方で唯一のプロ野球チームということもあり、しがらみも多く、いわゆる選手個々のタニマチの影響も大きい。

 とくに山田が就任したときは、主力のふたりの仲が険悪で、チームが瓦解しかねない空気もあった。これらを整理、払しょくして勝ちに向かうひとつの集団にするためには、憎まれ役を厭わない人物の荒療治が必要であった。

 ほとんどの人からはヒールと目されたが、それでも外様である山田が、何を成し遂げてくれたのか。理解している人物が名古屋にもいた。その恩を山田も忘れていない。

「私は、監督として成功したとは言わないんだけれども、中日の選手の能力というのは、見極めてこれだなと自分の中では思ったわけです。私が自分でツイてないということを考えれば、あの時、1年目はジャイアンツにぶっちぎられて、2年目は阪神にぶっちぎられて、それが星野さんだったでしょう。あそこが中日の会社全体が許せないということになったんじゃないかと思うね。でも、ようやく3年目は上位2チームと対等に戦えるという気持ちでずっと見ていたから残念だった」

 実際、山田が解任された後、佐々木恭介ヘッドコーチが率いたチームは連勝を続け、2位になっている。

 あの時にサッチー問題が起こらなかったらどうなっていたでしょう?と問うた。

「それだったら、星野、山田のタッグがもう1回あったかもわからんね。それでおそらく日本一を取っている可能性がありますね。私は自信があった」

 しかし、それを壊してしまったのは星野本人である。普通ならば梯子を外されたと思う。心中、複雑な感情の相克がなかったはずがない。それでも山田は笑みを湛えて言うのだ。

「最後に仙さんに会ったのは、すぐそこ(取材は芦屋のホテルで行なわれた)の歩道ですよ。仙さんは車に乗ってきて、歩いている私に声をかけた。『おお、山田』と言って。『あれっ、仙さん、どこ行くの?』『いや、ちょっと』『暇ならちょっとそこのホテルでお茶飲もう』『いや、今すぐ行かなあかんねん』と話して、それが最後です。亡くなる直前の11月ぐらいでしたね」

 中日は、谷繁の衰えと期を同じくして長いトンネルに入った。昨季は6年連続のBクラスという球団史上のワースト記録を更新してしまった。正捕手はまだ定まっていない。

 換言すれば、それだけバッシングを恐れずに打った17年前の山田の妙手は大きかったということである。