1960年、経営者の生首を模したプラカードを燃やして気勢を上げる三井三池労組員(写真:共同通信)

「タクシーは乱暴運転が当たり前」「自分の血液が売り物になった」など、昭和の時代は今では信じられない常識が多くありました。労働環境についてもそうです。ブラック企業の労働環境さえも比較にならない「昭和の炭鉱労働」の実情について、コラムニストの服部淳氏が解説します。

今はなき昭和の風景の1つに炭鉱の町がある。リリー・フランキーの『東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜』(扶桑社、2005年)や、映画『フラガール』(2006年)などで廃れていく炭鉱の町を扱った作品も少なくない。

当時を知らない世代にとっては、近隣住人同士の絆(きずな)の深い、人の温かみを感じる生活といったノスタルジックなイメージを持っているかもしれない(実際にはそんな生活は望まないとしても、うらやましく感じるものだ)。そんな炭鉱も、1960年代後半から1980年代にかけて次々と閉山していった。

炭鉱の町としての役割を終えた後は、ある町は映画『フラガール』のように、新たな産業(『フラガール』では、大型レジャー施設である「常磐ハワイセンター」=現・スパリゾートハワイアンズ)を興して生き延びたり、片や住人たちが新しい職を得るため、みんな出ていってしまって廃墟化したりしたところも少なくない。

炭鉱労働者の扱いは「奴隷並み」

後者の中で有名なところでは、2015(平成27)年に「明治日本の産業革命遺産」としてユネスコの世界文化遺産の1つに登録された端島、通称「軍艦島」がある。


ユネスコの世界文化遺産の1つに登録された端島、通称「軍艦島」(写真:zak/PIXTA)

1974(昭和49)年に炭鉱の役割を終え、全島民が離島して放置されたままになっていたこの島には、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅(1916年=大正5年築)をはじめ、建物がぎっしりひしめき、一時は世界最高クラスの人口密度を誇っていたという。廃墟マニアならずとも興味を引きつけられる。

いったいそこには、どんな生活があり、炭鉱での仕事はどんなものだったのだろうか。炭鉱によりまちまちだっただろうが、ここでは軍艦島での実態を見ていきたい。

まず生活レベルだが、これは時代によって相当異なる。軍艦島が世界遺産への登録をギリギリまで阻まれた原因として、戦前、戦中に日本の植民地支配下にあった朝鮮からの強制連行者や、日本と交戦していた中国の戦争捕虜を働かせていた問題があった。

ただ、こうした外部からの連行者が来る前から、炭鉱島での労働環境はかなりブラックな状態にあったという。ブラックどころか、奴隷並みの扱いをされていた。

1930(昭和5)年ごろまで存続していた(全廃は1941年という)「納屋制度」という労使関係がそれだ。炭鉱労働者を連れてくるたびに手数料をもらえる炭鉱募集人が、炭鉱での生活が楽園かのようにだまして人を集めていた。

連れてこられた労働者は、炭鉱所有者の三菱による直轄雇用ではなく、三菱の下請けとなる納屋頭という身分の者が雇用する形になっていた。三菱から支払われる賃金は納屋頭に搾取されていた。そればかりではない。島に来ると酒を振る舞われたそうだが、実はこれは自腹。いきなり借金を背負うことになる。

さらに、島の売春宿や賭博をすすめられ、借金は雪だるま式に増えていってしまう仕組みになっていた。完全に詐欺の手口である。労働者たちは借金のためにひたすら働き続けることになり、温度が40度にもなるという坑内で1日12時間も採炭させられていた。逃亡を試みても、対岸には見張りがいて、連れ戻されてリンチを受けるという悲惨な結果が待っていたそうだ。

戦後に改善されていった労働環境

戦後の民主化で状況は一転する。労働者がストライキ権を持つようになると、賃金は上がり、労働時間も1日8時間程度までになる。

1952(昭和27)年の軍艦島での調査によると、普通に働いて日当は600円ほど。独身者の1カ月の食費込みの寮費は1500円だったそうなので、娯楽などにいっさい使わなければ、月に3日働けば生活していけたことになる。超絶ブラックからの、まさかの好待遇となっていた。

とはいえ、炭鉱での労働はつねに危険と背中合わせであった。オーストラリアや中国など石炭の大輸出国には「露天掘り」の炭鉱が豊富に存在するが、日本の炭鉱のほとんどが地下深く掘り進んで採掘する「坑内掘り」によるものだった。

戦前、戦中には死者、行方不明者合わせて100人以上の事故が頻繁に起きていて、1914(大正3)年に福岡県の方城炭鉱で起きた事故(方城大非常)では、687人の死者、行方不明者という、近代の炭鉱事故で最多の犠牲者を出している。

安全対策が進歩した戦後になっても事故はたびたび起きている。2ケタ以上の犠牲者が出た事故だけ抜き出してみても、

◎1958(昭和33)年、福岡県・池本鉱業大昇炭鉱、死者14人
◎1960(昭和35)年、福岡県・豊州炭鉱、死者、行方不明者67人
◎1960(昭和35)年、北海道・北炭夕張炭鉱、死者42人
◎1961(昭和36)年、福岡県・上清炭鉱、死者71人
◎1961(昭和36)年、福岡県・大辻炭鉱、死者26人
◎1963(昭和38)年、福岡県・三井三池炭鉱、死者、行方不明者458人
◎1965(昭和40)年、北海道・北炭夕張炭鉱、死者61人
◎1965(昭和40)年、福岡県・三井山野炭鉱、死者、行方不明者237人
◎1972(昭和47)年、北海道・石狩炭鉱、死者31人
◎1977(昭和52)年、北海道・三井芦別炭鉱、死者25人
◎1981(昭和56)年、北海道・北炭夕張新炭鉱、死者93人
◎1984(昭和59)年、福岡県・三井三池炭鉱、死者83人
◎1985(昭和60)年、北海道・三菱南大夕張炭鉱、死者62人

と、並べているだけでも陰うつな気分になる件数の事故と犠牲者を出している。

事故の多くはガス爆発によるもの、また、それを原因とした火災によるものだった。炭鉱内では可燃性のメタンガスが発生することが多く、このガスに静電気や火花が着火し、爆発を起こすというものだ。

1962年を境に炭鉱は次々と閉山

現在あるような高性能なガス検知器が登場する以前は、「炭鉱のカナリア」(坑道のカナリアとも)と言われているように、炭鉱にカナリアやメジロ、ジュウシマツといった小鳥を入れたかごを持ち歩き、人間よりガスに敏感な小鳥のさえずりが(中毒を起こして)聞こえなくなったら危険なので引き返すということで検知していた(1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教施設サティアンの一斉捜査でも、毒ガス検知のためカナリアが使われていた)。


また、戦後最多となる死者、行方不明者458人を出した1963(昭和38)年11月9日に起きた福岡県・三井三池炭鉱の事故では、石炭の粉塵が発端となる火災が原因だった。

事故当時は約1200人の鉱員が働いていたそうで、実に3分の1強の人が犠牲になっている。この事故の場合は、爆発や火災で亡くなったのは少数で、ほとんどが一酸化炭素中毒死によるものだった。さらに一命を取りとめた被害者のほとんどともいえる約800人が、その後、一酸化炭素中毒の後遺症が表れることになった。

このような事故がつきまとい、人件費の高騰で国産石炭の価格が上昇すると、海外の格安な石炭が用いられるようになっていく。しかも輸入石炭のほうが質が高い(熱量が高い)のだ。さらに1962(昭和37)年には政府が原油の輸入自由化を行い、これを機に日本のエネルギーの主役は石炭から石油へと一気に切り替わった。こうして日本の炭鉱は次々と閉山していったのである。

石炭を掘り尽くしたから閉山になったわけではなく、逆に日本にはまだ現在の年間使用量の100年分以上の石炭が埋蔵されているという。