現在も活動する「陰陽師」の知られざる正体
安倍晴明の末裔、安倍成道氏が明かす「日本の結界」とは(編集部撮影)
1000年もの間、時の権力者を影で支え活動してきたという陰陽師(おんみょうじ)とは一体何者か。書籍『日本の結界 陰陽師が明かす秘密の地図帳』を上梓した現代の陰陽師・安倍成道氏が解説する。
陰陽師、安倍晴明(あべのせいめい)をご存じでしょうか?
最近は小説や映画のみならず、フィギュアスケートの羽生結弦選手が陰陽師・安倍晴明をモチーフにした演技で金メダルを獲得したことで、ご記憶の読者も多いのではないかと思います。
晴明は、平安時代後期に活躍した、陰陽道の術の大家でした。今日の陰陽道の術は、晴明ひとりによって築かれたといっても過言ではありません。
その晴明には、吉平、吉昌というふたりの息子がいたと、歴史は語ります。彼らはいずれも晴明の跡を継ぎ、国の役所である陰陽寮に勤め、陰陽博士や天文博士になって陰陽道の発展に力を尽くしています。
でも、晴明の子供は彼らふたりだけではありませんでした。
というのも、晴明には5人の側室がいて、それぞれに子供をもうけていたのです。これは、公の歴史では語られていません。いわば、秘密の歴史です。
「陰陽師五家」誕生の真相
英雄色を好むといいますが、晴明もその例に漏れず、きわめて「女好き」な人物でした。また、それだけの魅力や力もあったので、とてもモテたのです。
結果、京の都の周辺に本宅とは別に5つの家と5人の側室、そしてそれぞれの子供たちを抱えていたのです。
ただし、晴明にとっては正室の子も側室の子もみな同じ、かわいい自分の子供でした。そして自らがもつ陰陽師としての超能力的な「力」も、分け隔てなく公平に与えたのです。
側室の5人の子供たちの子孫はやがて、私たち陰陽師五家――木の家系、火の家系、土の家系、金の家系、水の家系――の祖先となりました。これに晴明の正室の子孫である宗家(次男の吉昌の家系)を加えた六家が互いに協力しあい、今日まで影の陰陽師集団として晴明の呪術(じゅじゅつ)を継承してきたのです。
ちなみに陰陽師五家に冠せられた「木火土金水」というのは、世界を構成する5つの基本要素で「五行(ごぎょう)」といいます。陰陽師の術のベースとなる中国の五行思想からきているのですが、陰陽師五家はこの五行それぞれの特質に応じた術を分け与えられました。
私は陰陽師五家のなかの、「水の家系」の継承者とされている者です。第27代・水の陰陽師として安倍成道を名乗り、陰陽師として活動しています。ですから、「水」の術に通じた陰陽師の末裔、ということになります。
陰陽師は「国家公務員」だった
そもそも陰陽師の始まりは、奈良から平安時代にかけて。律令国家建設の一連の流れのなかで、陰陽寮といわれる陰陽道専門の役所が設けられました。
陰陽師とは、その陰陽寮に勤めた役人たちのことで、現在でいうなら「国家公務員」の扱いになります。
ひとことで陰陽寮といっても、内部にはふたつの柱がありました。
ひとつは、天文学や建設術、錬金術(これはいまでいう薬学になります)、さらには暦や占術、算術……まさに現在でいうところの総合大学のようなものです。国中から頭のいい人材を集めてエリートを育成しようという機関です。
そしてもうひとつが、それとは別に霊的な力で国を守れるような者、いわゆる超能力者を育てる機関です。呪いや結界、術など、おもに霊的な案件を扱っていました。
前者は歴史書にきちんと残ります。ですが後者は、なかなか残りにくい。それが安倍晴明が携わり、道を広げた分野なのです。
晴明は、陰陽寮のトップである陰陽頭(おんようのかみ)に就いていた賀茂家に弟子として入ります。入門した年齢は15〜16歳だったといわれています。
当時、大人になるための儀式である元服(げんぷく)は、だいたい12〜13歳くらいで済ますのが普通でしたが、このとき晴明はまだ元服をしていませんでした。非常に遅かったわけです。
ところが晴明は、19歳で陰陽寮に入ります。つまり、わずか4年ほどで陰陽道の膨大な知識や、それまでにあった術をすべてマスターしてしまったということになります。まさに、天才としかいいようがありません。
しかし、晴明の本当のすごさはそこではありません。彼はすべての術を理解したうえで、さらに術に次々と手を加え、つくり変えていきました。師弟の世界においてこれは、一歩間違えれば師匠を否定するということにもつながりかねません。
晴明の師匠である賀茂氏は、陰陽道をあくまでも学問としてとらえ、実践していました。ところが、霊的に突出した力を持っていた晴明は、そこに超能力的な要素を加えて大変革を起こしたのです。
陰陽道の基本、基礎をつくりなおし、術を工夫し、すべてを変えてしまいました。日本流の陰陽道をつくりなおした、といってもいいかもしれません。
しかも晴明は最終的に、天文博士という役職になっています。これは実質的に陰陽寮の学問分野のトップということです。陰陽寮のなかでそれより上のポジションは陰陽頭しかいません。つまり晴明は、霊的な力をもったうえで、学問的な分野でもトップになるというカリスマ的存在だったわけです。
「結界」は日常生活にも存在する
現在、私たち陰陽師には1080もの術が伝わっています。安倍晴明がつくりだした術もあれば、子孫たちがつくった術もあります。それらの術のなかでも、基本となるのが「結界」です。
そもそも結界とは何でしょう。結界の始まりをひとことでいうと、「区切るもの」でした。
簡単にいうとそれは、神の領域と人、彼岸と此岸、向こうとこちら、あるいは、そうでないものとそうであるもの――それらを区切るものが、結界のおおもとになったと考えていただければと思います。
じつは私たちが意識していないだけで、日常生活のなかにもごくふつうに結界は存在しています。
たとえば食事における箸置きがそうです。食卓ではほとんどの人が、膳の手前に横向きに箸を置くはずです。これもひとつの結界なのです。
食事は、生きていくために与えられた、神様からの賜り物です。手をつける前の食物はまだ神の領域にある、神のものなのです。箸置きは、神様と人間との間に張られた結界なのです。
ですから人間は食べる直前に、「頂戴します」とか「いただきます」といって箸をとる。つまり、神との間に張られた結界を外し、自分のものとするわけです。
ここからも、結界は「区切るもの」だったという意味がご理解いただけるのではないかと思います。
その「区切る」ということから発展し、「区切って守る」もしくは「区切って封印する」というかたちになったものが、今日の結界なのです。
陰陽寮は国家機関(明治2年まで存続していました)ですから、国家の中心である天皇と公家を守るのが大きな仕事でした。天皇が住まわれる御所を、京都を、ひいては日本という国を守る。そのために結界は、その場を悪しきもの、霊的なものの攻撃から守る、という意味合いがあります。
当時、だれかを呪ってほしいとか、死者の怨念から守ってほしいという依頼はほぼひっきりなしにあったといいます。そういう不可思議なものから時の権力者を守るためのもの――そう考えていただくとわかりやすいと思います。
こう書くと、なんとも非科学的な話だと感じる読者もいらっしゃるでしょう。けれど、そこには時代による感覚の違いがあります。
当時といまでもっとも違うものは、おそらく闇に対して抱く恐怖のイメージではないでしょうか。昔の人々は、闇というものに対してものすごく強い恐怖を感じていました。電灯がない時代、闇は本当の闇、漆黒なのです。そこはまさに、人間の力が及ばない物の怪たちの棲む世界だと考えられていました。
これは極論かもしれませんが、ある意味、そうした闇から人々を守るために私たち陰陽師は存在したのです。
大名に仕える「軍師」となった者も
ところが戦国時代になると、各地に「大名」と呼ばれる有力者が次々と現れてきました。そうなると国を守るためには、そういった大名たちも守る必要が出てきたわけです。陰陽寮としてもそれを認めようということで、陰陽師が各地に散っていったという歴史があります。
そうなると、大名たちは都からやってきた陰陽師を家臣扱いにします。そうやって大名に仕える軍師になってしまうことが多かったのです。
正式な家臣になれば、主人である大名を出世させることに熱心になります。成功すれば、陰陽寮に戻ったときに鼻が高くなることでしょう。ましてや主君が天下を取ったり関白になったりすれば、まさに大手柄になるわけです。
と同時に、戦国時代は経済の仕組みも大きく変わりました。
国中の富が天皇のところに集まるというシステムが崩れ、各地の大名がそれぞれの地域で経済を支配するようになったのです。当然、天皇の経済は縮小し、ついにはひっ迫していきます。
そんななかでも私たち陰陽師は国の機関に属する公務員なので、天皇をお守りしなければなりません。ですが、報酬は次第に先細りになっていきます。ほかのスポンサーを見つけないかぎり、一族全員が食べていくことはできなくなったのです。
結局、各家の中心である本家だけが京都に残り、それ以外は地方へと散っていくことになりました。こうして陰陽師は全国に広まり、それが日本中に結界を張り巡らしていく一因となったのです。
陰陽師が関わった巨大な結界をふたつご紹介しましょう。
結界は遠い昔の話だけではありません。現代の東京都心にもしっかりと息づいているのです。
たとえば「首都直撃か!?」と進路予想された大型台風が、ぎりぎりのところで東京を避けて不思議に思った、という記憶はありませんか。
あるいは大型台風が急速に勢いを失って、熱帯性低気圧になってしまったり、いきなり速度を上げて、大きな被害が出る前に東京を通り過ぎてしまうといったことがなんとなく多いような気はしませんか。
つまり、東京は何か目に見えない力で守られている――そんなふうに思ったことはないでしょうか。
そうです。こうしたことが起こるのは、東京が結界によって守られているためでもあるのです。
緻密かつ完璧に張られた結界
東京の結界は、江戸初期と明治維新の二度にわたって、まったく違うかたちで張られてきました。
一回目は東京の前身である江戸がつくられたとき。徳川家の依頼により、天海という僧侶が中心となって、江戸を守るための大きな結界が張られました。このときに私たち陰陽師も関わることになったのです。
当時の日本の最高権力者、つまり江戸幕府の将軍からの依頼でしたから、断れるはずもありません。ただ、天皇に仕えることを旨とする先祖たちにとって、それは決して本意ではなかったようです。そのせいでしょうか。天海とともに張った江戸の結界は、幕末のころにはすでにボロボロになっていました。
皇居を中心とした都心の結界(図版:ユニオンマップ)
とはいえ最大の理由は、江戸の町が人口増加や埋め立てなどにより、次第にふくれあがっていったためです。結界もそのつど、継ぎ足し継ぎ足しで補われていきました。その結果、とてもいびつでもろいものになってしまったというわけです。
やがて明治になると、江戸の主が替わりました。そのため、再び江戸の結界が張りなおされることになったのです。
京都から天皇がやってくるわけですから、われわれ陰陽師もいよいよ本腰を入れて、全精力を使い切る覚悟を持って結界を張らなければならない、という空気になったそうです。なにしろこのときは、結界を仕上げるまでに1年かかったと記録されています。
したがってこの結界については、計算に計算を重ねて、緻密かつ完璧に張られた結界ということができます。見る人が見れば、結界の芸術作品といえるのではないかと思うほどの仕上がりなのです。
もうひとつ、東京の巨大な結界をご紹介します。
西東京の結界跡(図版:ユニオンマップ)
東京の西部、八王子市にある高尾山、日野市にある金剛寺、檜原村の浅間嶺、さらに昭島市におよぶ大きな結界です。
この結界は何のために張られたのでしょう。
東京もしくは関東近辺にお住まいの方以外は、東京西部についてあまりよくご存じないのではないかと思います。多摩地区で最大のターミナル駅となった立川の西側一帯あたりですが、江戸時代末期のここは、本当に野山しかないような場所でした。
でも、私たち陰陽師にとっては、そのなにもない土地に意味があったのです。じつはこの土地、かつて天皇が住まう都を建設するという計画があったのです。
「都」を西東京に建設する動きがあった
これから書くことは、日本史の通説からすれば荒唐無稽なお話なので、信じられないという読者もいらっしゃるのではないかと思いますが、聞いて下さい。
京都もそうですが、都が置かれるための絶対条件として、地脈と龍脈の存在があります。このふたつがしっかりと大地を通っていなければ、当時、都は建設できないとされていました。
ここに結界が張られたのは江戸の末期、そろそろ幕府が傾きはじめた頃のことです。天皇を江戸に移し、都を現在の西東京に建設しようという動きがあったのです。
京都と比較すると、江戸城の風水というのはあまりよろしいものではありません。
土地の半分は高台にありますが、海も近いし、海に面した部分はかつての湿地帯を埋め立てたものです。天皇が住む場所としては決して勧められるような土地ではないのです。埋め立て地ということは、そこに地脈と龍脈は流れていないからです。
それよりもむしろ、こちら――つまり檜原村から昭島市にかけて――のほうが、風水的にははるかにすぐれています。また、多少東西南北の位置関係こそ外れますが、周囲を多摩の山地や狭山丘陵、多摩川に囲まれていることも、比較的京都に似た風水的地形だといえます。それに加えて西の背後には、日本を代表する霊山・富士山がそびえているのも好条件のひとつでした。
最近は立川断層の存在も知られていますが、それでも土地そのものがきわめて安定しているということも大きかったはずです。大地震などの災害に強いのです。
このように昭島市周辺は、ある意味で京都と環境が酷似していたわけです。ならばここが、東の都として最適なのではないか、というのが当時の結論でした。
その後、幕末が近づくにつれ、国が転覆するほどの出来事が次々と起こりはじめます。そのころにはすでに、この場所の結界はほぼ構築されていました。準備は万端だったわけです。
とにかく一時期は、この計画は絶対的なものでした。一部では準備として実際に建物の建設が始まっていた場所もあったと聞いています。
計画が頓挫した理由は…
でも、計画は頓挫しました。
計画が頓挫したいちばんの理由は、状況が予想以上に大きく変わることを私たちが察知したからです。私たちは陰陽師ですから、人の未来を読む、先読みをすることが仕事です。
私たちの家系の陰陽師のなかに、幕末の薩長についていた人がいました。
未来を読むと、やがて江戸幕府は転覆する、と。
そうであれば、わざわざ新たな都を江戸の西につくる必要はない、となったのです。
ただ、天皇が江戸城に入ってしまうというのは、少し計算違いだったかもしれません。もともとあったものを再利用すればいいという話になったわけですが、でも、本来ならば人が使っていた場所に天皇が入るということはありえないのです。
もしも天皇が住むのであれば、それは新しい場所であるべきです。それが本来の姿なのですが、江戸城に入るということになってしまいました。
ということで、もしもほんのちょっとだけ歴史が変わっていたら、いまの東京の中心、都心は昭島市近辺になっていた可能性があったのです。
ちなみにこの結界は、大正時代に入ってから、次々と破壊されることになります。たとえば檜原村の浅間嶺、そして高尾山……。高尾山は修験者の修行の地、聖地であるわけです。修験者たちからの反発が強かったのも当然のことだったでしょう。
結界のポイントが破壊されたうえに遷都の計画も消え、現在はそのままになっています。