年商10億のIT社長、非行→14歳で夜の蝶→銀座No.1→DV離婚の壮絶半生
両親の離婚、荒れた中学生活、14歳でお水の道に。銀座と新宿でNo.1ホステスとなり、夜の女の頂点へ。引退して幸せな結婚のはずが、一転、DVで命からがらの離婚。知識ゼロで飛び込んだITの世界で起業した会社を業界で十指に入る超優良企業に育て上げた激動人生に迫るー。
◇ ◇ ◇
東京・四谷にある、スタイリッシュなオフィスビル。
会議室で待っていると、「お待たせしました!」
勢いよくドアが開き、ヴェス社長・久田真紀子(42)が入ってきた。決して大柄ではないのに、全身から圧倒されるほどのパワーがみなぎる。
その日は、取材内容の説明のために訪れていた。バックナンバーを何冊か差し出すと、『人間ドキュメント』のページにじっくり目を通す。
やがて顔を上げ、久田はざっくばらんに言った。
「興味本位の記事にならないことは、よくわかりました。でも、いいの? 私で。だって、ここに出てる人たち、波瀾万丈の人生だけど、まともなんだよね、生き方が。私は違うよ。それこそ、ここ(見出し)に、『中学時代に悪さをして警察沙汰!』とか書くことになっちゃう(笑)」
小学校時代に両親が離婚。中学時代は荒れに荒れた。
わずか14歳で銀座のホステスになり、夜の世界で泥水も飲んだ。
そんな久田が、水商売とは無縁のIT業界に参入し、ヴェスを立ち上げたのは28歳のとき。以来、14年、従業員150人、年商10億円の会社に育て上げた。
ソフトウエアの『第三者検証』。これが業務内容だ。
「第三者検証って、聞き慣れない言葉よね」、そう前置きすると、かみ砕いて説明する。
「パソコンやスマホで、アプリやソフトを使うでしょ。このとき、使い勝手はいいか、誤作動はしないかを、メーカーが世の中に出す前に、私たち第三者の目線で徹底的に検証するの。ときに、開発者が想像もしなかった誤作動が見つかることもある。世に出てからリコールなんてことになると、莫大な損失だからね。私たちの責任は重大なのよ」
同業他社は100を超えるが、久田の会社は、子ども向けの教材やカーナビの地図などを中心に検証し、ベスト10内に入る。
「人って、顔を見れば職業が想像つくじゃない。銀行員は銀行員、公務員は公務員の顔をしてる。でも私は、まったく見えないでしょ、IT業界の人間には。な?」
同席していた男性秘書に水を向け、秘書がうなずくと、「おいおい、ちょっとは否定しろ(笑)」と突っ込む。
姉御肌で、ユーモアもたっぷり。その姿は確かに、IT業界では異色だが、裏を返せば、職業ごときに染まらない、自分の色をしっかり持っている証拠だろう。
「さあ、どっからでも聞いて。私の話が誰かの役に立つなら、何でも答えるから」
波瀾万丈という言葉でも飽き足りない、壮絶な半生を語ってもらおう。
中学生。14歳で銀座の水商売の道へ
1975年、北海道北見市で生まれた。3つ上の姉と、双子の妹の3人姉妹で育った。
「子どものときから、大人だった」という久田は、両親のことも、「もともと、くっついちゃいけない2人が結婚したわけ」と冷静に振り返る。
父親は月に1〜2度しか帰宅せず、待つ身の母親は絶えずイライラ。怒りの矛先を子どもたちにぶつけた。
「私や姉もたたかれたけど、妹は特にひどかった。2度も複雑骨折してるもん。今だったら虐待よね」
小学校に入学したころ、両親の離婚が決まった。妹は父親に引き取られ、姉と久田は母親とともに、母親の実家がある、東京・足立区に移り住んだ。
「新居はボロボロの小さな長屋でね。関東大震災でも壊れなかったなんて自慢してたけど、障子は穴だらけ。台所にはネズミの死骸が転がってて、ひどいところに来たとガッカリしたものよ」
新しい小学校に通い始めても、慣れたころには再び引っ越し。転校を繰り返した。
「母は“取り壊しになるのよ”って言い訳してたけど、何年かたって見に行くと、前の家は相変わらず残ってた。きっと家賃が払えなくて追い出されたのね」
母親は働かず、生活保護を受けながら、パチンコ店に入り浸っていた。
「クラスの連絡網に、うちだけ自宅の電話番号がなくてね。あれが致命的だったな」
貧しさが知れると、いじめっ子に、「貧乏、貧乏」と石を投げられた。久田は、負けるもんかとやり返した。身を守る術を、ほかに知らなかったからだ。
中学入学後は、別の小学校から来た、いかにも悪そうな少女と意気投合。同じ匂いのする仲間数人で『チーム』を作った。
「本当は、中学に入ったらいっぱい勉強して、将来は、母に楽をさせたいと考えてたの。だって、うちのお母さん、パチンコ店で人の玉を盗んで警察に捕まっちゃうような人でしょ。私がしっかりするしかないじゃない。でも、その子との出会いが運の尽き(笑)。そこから道がずれたのよ」
久田が通っていた足立区立第十六中学は、「足立区の学習院」と言われるほど、平和でのどかな校風だった。それが、久田たち不良グループが幅をきかせるようになってから、校内の雰囲気は一変した。
「学校の前の団地に集まって、タバコを吸ったり、気に食わない他校の生徒を殴りに行ったり。授業をさぼって、“原宿で悪さでもするか”って出かけては、何度も捕まってね。お巡りさんと顔なじみになるほどよ。おいおい、こんな話をして大丈夫?(笑)」
久田は悪さの限りを語ったが、中学時代の友人・佐伯進さん(仮名・42)の話からは、別の一面が垣間見える。
「確かに真紀はワルだったけど、一本筋が通ってた。自分なりのルールがあったんだろうね。弱い者いじめなんか絶対しなかった。でも権力には、とことん立ち向かう。気の合わない教師と取っ組み合いの大喧嘩をしたことも、1度や2度じゃない」
中学2年で、母親に家を出されてからは、友人宅を泊まり歩き、求人誌を見て、銀座のクラブホステスになった。
「化粧して19歳ってウソついても、中身は14歳じゃない。大人の話は理解不能よ。だから、黙ってにこにこしてたら、“おしとやか”なんて、けっこう人気になってね」
時代はバブルを迎え、羽振りのいい客に、高価なプレゼントももらった。たまに学校に行くと、同級生が幼く見えた。悪さをすれば、生活指導の先生に竹刀片手に追いかけられ、最後は「寝てろ」と、さじを投げられた。
中学の卒業式は出られなかった。PTAが久田たち不良の出席を拒否したからだ。
「別の日に校長室で卒業証書を受け取ったけど、感動なんてあるはずない。高校に行く気もなかったから、卒業後は、当然のように、銀座の仕事にのめりこんでいったの」
No.1から幸せな“寿引退”のはずが……
久田はインタビュー中、幼少時代の記憶を、驚くほど鮮明に語った。祖母や当時の大家の人柄まで鋭く見抜いて。
この並はずれた記憶力と人間観察力が、ホステス時代の最強の武器になった。
「銀座は女優みたいにきれいなホステスがごろごろいて、私なんかブスのほう。だから、そのぶん、努力した。お客さんの席に着いたら、30分以内に何を求めているかを見極めるの。聞き役に徹したほうがいいとか、女性らしさを求めてるとかね。経済や政治の話も出るから、新聞も読んだ。漢字が読めないから、電子辞書を買って勉強してね」
源氏名は『浅井花子』。憧れのお姉さんホステスの名字をもらった。
客あしらいは日増しに上達し、次々に指名がかかった。ひと晩に数百万も店に落とす上客を何人もつかみ、ほどなくNo.1にのぼりつめた。
「お客さんをたくさん持ってるから、ほかの店から何度も引き抜かれてね。和服姿で初出勤すると、お客さんから届いた胡蝶蘭が店頭にずらっと並ぶの。気分よかったなあ」
ぜいたくが身につき、豪華な宝石や、高額なチンチラの毛皮も右から左に買った。
しかし、夢のような日々は、突然、終わりを告げた。
「バブルがはじけたの」
黒服に確認すると、不動産業の常連客のツケが2000万〜3000万円もたまっているという。
「真っ青になって電話したけど、もうつながらなかった。踏み倒された! って気づいたときは、あとの祭りよ」
客の未払い金は、担当ホステスが肩代わりするのが銀座の掟。毛皮や宝石を質屋に売って、店に穴埋めをした。
これに懲りて、転職も考えた。しかし、学歴がない久田は、この世界で生きるしかなかった。その後、新宿歌舞伎町に拠点を移し、ちょっと本気を出したら、すぐにNo.1になれた。
けれど、20代を迎えて数年が過ぎたころから、「しおどき」を感じ始めたという。
「上客をホステス同士で取り合うのにも疲れたし、モデルの卵みたいな若い子が次々に入ってきて、そのたびにヤバい! って不安になってた」
No.1を死守する重圧に耐えかね、精神安定剤に頼る回数が増えていった。
ふつうの幸せが欲しい。切に願った。
「だから、選び違えたのよ」
店の客と結婚したのは、25歳のとき。貯金をはたいて家具を買いそろえ、大阪に新居を構えた。
「得意の料理を作ったり、花に水をやるような、夢にまで見た生活ができるって、そりゃ大喜びで嫁いだわけ」
ところが、結婚生活は悲惨なものだった。
夫の言葉のDVに精神的に追い詰められ、眠れない、食べられない日々が始まった。体重は30キロ台に落ち、見る影もないほど、ガリガリにやせ細った。
「最後は警察に助けられ、着の身着のまま、東京行きの新幹線に飛び乗ったの」
異国で戦う姉の背中に心打たれた
わずか10か月で離婚し、母親のもとに身を寄せてからは、引きこもりがちになった。その生活から、久田を引っ張り出したのは、アメリカに暮らす姉からの電話だった。
「しばらく、こっちに来ない」
事前に母親が状況を伝えていたのだろう。10年ぶりに話す姉が誘った。折しも、2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きた年の冬だった。
「テロの影響で飛行機はガラガラだから、横になって来られるよ」、姉の言葉に背中を押され、渡米を決めた。
シアトルの空港には、米国人の姉の夫と、2人の子どもたちが迎えに来ていた。しばらく観光して、向かった先は、姉が勤務する病院。19歳で渡米した姉は、猛勉強の末、外科医になっていた。
「待たせてごめんね」
手術室から出てきた姉を、久田は直視できなかった。
「めっちゃ成功してるじゃん」、まぶしすぎたからだ。
「19歳で渡米するとき、姉は中学時代に買ってもらった古ぼけたリュックを背負って旅立ったの。その姿を、私は高価なチンチラの毛皮を着て見送った。なのに、どう? 姉は異国で成功し、立派な仕事と幸せな家庭を手に入れた。すべて失った私と大違いじゃないって」
姉の家には3か月滞在した。ある日、深夜に帰宅した姉を出迎えると、目が赤かった。泣いている、すぐに気づいた。
「このとき姉は何もなかったように台所に入ると、夜食を作りながら、呪文のように唱えてた。“こんなことで負けたら、命がいくつあっても足りない”って」
勤務先の病院までは、片道250キロ。早朝に車で出勤し、帰宅は深夜だ。過酷な勤務に、人の命を預かる重圧、日本人への見えない差別─。
それでも、負けるもんかと姉の背中が言っていた。
「その姿に、自分が恥ずかしくなった。日本語も通じない、親しい友達もいない異国で、姉がどれだけ苦労してきたかに気づいて。ちゃんと生きよう、せめて人に迷惑かけずに、って、このとき思ったのよ」
帰国後、金融関係の仕事をしていた久田が、いつもなら気にもとめない話に、アンテナを動かしたのも、姉に刺激を受けたからだろう。
「それが、第三者検証の話」
歌舞伎町時代の最初の客で、久田が『師匠』と呼ぶ、ソフトウエアのCSK(現・SCSK)のグループ会社役員に呼び出されたときのことだ。
「師匠とは年に数回、食事をするんだけど、会うたびに、第三者検証の話を聞かされてたの。私は興味ないから、検証って何? 現場検証? なんて聞き流してたんだけど、その日は違った。初めて本気で聞いてみて、直感したの。これは、イケるって」
師匠は熱く語った。デジタル化が進み、世の中のすべてがソフトで動く時代になる。ソフトやアプリの欠陥の有無を、第三者が検証するニーズが出てくる。消費者の目線、女性の目線がほしいと。
「うちの会社に来るか?」
久田は迷いなく答えた。
「はい! 行きます!」
こうして、2002年秋、IT業界に飛び込んだ。久田、27歳のときだ。
困っている人を助けなくてどうする?
入社後は、営業部に配属され、意気揚々と出社した。ところが、待っていたのはいばらの道だった。
「漢字だってろくに読めないのに、ITの専門用語なんて、ちんぷんかんぷん。本人が理解してないんだから、営業に走り回っても、収穫なんてあるわけない」
師匠からは、3か月以内に注文を取らなければクビにすると言い渡されていた。
途方に暮れる久田に、同僚たちは「ITの専門知識がないのに、営業なんて無理だよ」と同情した。ストレスで顔中、吹き出物だらけになった。情けなくて、眠れない夜が続いた。
風向きが変わったのは、入社から2か月が過ぎたころ。
「営業先の超大手メーカーの担当者に、“10億円かけて作ったシステムが動かない”と相談されたの」
すぐに会社に戻り、担当部署に相談したが、あまりに困難な案件のため、「絶対、直せない」と断られた。
しかし、久田はあきらめなかった。
「簡単に直せるもんだけ引き受けるなんて、私の性に合わない。困ってる人がいるんだ。全力で助けなくてどうするってね」
片っ端からつてをたどり、頼みに行った。複雑すぎて、故障の内容すら、うまく説明できなかったが、それでも、必死で訴えた。
熱意は人を動かした。
やがて、カリスマと評判のエンジニアにたどり着き、1か月後に問題が解決した。
「どうやって直したのか聞いたら、彼がこう説明したの。“ある機械は日本語を、ある機械はフランス語を話していた。それを全部、フランス語にしただけさ”って。そっか! すごく納得できた。それからは、難しいIT用語は食べ物にたとえてもらったりして、自分なりのやり方で、知識を増やしていったの」
難題のシステムを見事に解決した久田に、メーカーの担当者は大喜びで言った。
「あんた面白いねえ。仕事持っていきなよ」
これが弾みとなり、別の大手メーカーから、550万円もの大口注文を取りつけた。
「この業界でやっていける」、久田が確信した瞬間だった。
「業界は違っても、水商売と同じ。お客さんの気持ちになって、喜んでもらうために身を粉にする。そうすれば結果は必ずついてくるって」
誠意を尽くせば、必ず報われる場所
入社から1年が過ぎた。
その間、久田の奮闘ぶりを見てきた師匠は、驚く提案をした。「独立して、自分の会社を作りなさい」と。
「女性の第三者検証会社を作るのが、師匠の長年の夢で、私なら実現できると、見込んでくれたんでしょうね」
水商売で培った豊富な人脈と、持ち前の行動力には自信がある。断る理由はなかった。
2003年、ヴェスを立ち上げた久田は、経理や総務の経験者を雇い、組織を固める一方で、検証を行う検査員の採用にも力を注いだ。
「徹底した検証力が信用につながる。だから、検定試験や育成プログラムを導入して、一からプロと呼べる検査員を育てていったの」
検査員のひとり、川綱正美さん(53)が話す。
「12年前に夫を亡くし、2人の子どもを育てるために、仕事を探していました。ヴェスの求人情報に、“無料でパソコンを教える”とあり、これだ! と。採用面接の席、専業主婦で仕事のブランクがある不安を伝えると、久田社長は、“資格や職歴だけがスキルじゃない。主婦業、子育ても立派なスキルだよ”と言ってくれて。やる気さえあれば、本気で育ててくれると確信しました」
従業員150人のうち、3割を女性検査員が占める。女性ならではの丁寧でこまやかな検証技術も、ヴェスの強みのひとつだ。
むろん、経営は順調なときばかりではなかった。
「当初は、師匠の会社からも仕事を回してもらったけど、リーマンショック以降は、それもアテにできなくなった。でも、これで逆に腹をくくれたの。それこそ、社員一丸となって営業にかけずり回り、仕事を開拓したから。不景気のとき、攻めに徹したからこそ、自社で100%の仕事を受注できる会社に切り替えられたんだと思う」
4年前には岩手県滝沢市に拠点を作った。社内には「中国に作るべき」という声が上がったが、「日本人を雇用してこそ、日本の経営者だ!」と譲らなかった。
「社員は家族と同じ。だから不景気のときも、ひとりもリストラしなかった。その思いが伝わって、一致団結して不況を乗り切れた。ホステス時代は、騙すか騙されるかだった。でも、この業界は、誠意を尽くせば、必ず報われる。ほんと、いい場所にたどり着いたと思ってる」
人には神様に与えられた役割がある
2015年3月。久田は中学時代の恩師と、卒業以来25年ぶりに再会した。中学入学時、最初に意気投合し、ともに悪さをした友人の葬儀の席でのことだ。
「殺されたの」
久田は、それ以上を語らなかったが、卒業を境に疎遠になっていた友の死を知り、葬儀の取りまとめ役を買って出たという。
恩師たちにも連絡を入れ、何人もが参列した。葬儀の席では、ゆっくり話せなかったので、翌月の月命日に再び集まった。
「先生方に囲まれた私は、すっかり中学生に戻ってた。でも、いまだに説明できないの。なぜ、あんなに暴れたのか。大人になった今、常識的に考えると、ずいぶん迷惑かけちゃったよね。先生たちに」
足立区立第十六中学時代の恩師・関根健一さん(69)もそのひとり。中学2年、3年と連続で担任を務めたのは、久田が「一目置く」数少ない教師だったからだ。
関根さんが話す。
「当時、久田がなぜ、私には反抗しなかったのか、理由はわかりません。ただ、私は久田に不良というレッテルを貼る気にはなれなかった。制服ひとつとっても、汚れていて、親が手をかけていないことが一目瞭然でしたから。素行の悪さを責めるより、久田の思いを受け止める相手でありたいと考えていました」
中学1年のとき、久田は担任教師の給食にトイレの水を入れたり、暴れて授業を妨害したりと問題行動を連発した。
まだ新米だった担任の女性教師は、職務をまっとうし、その年の3月に退職した。
関根さんが続ける。
「このとき久田は、私に相談に来たんです。ひどいことをした。どうしても、先生にあやまりたいと。離任式には出せないので、個別に時間を作りました。その先生は、しばらく会社勤めをして、教師に戻りました。最後に見せた久田の変化が、教師という仕事に希望を残したのかもしれません」
関根さんは、久田の成功を喜ぶ一方で、取材の電話口で、こう伝言を託した。
「昔から無鉄砲だから、食事もとらずに仕事をしてるんじゃないかな。記者さん、久田に伝えてください。無理をするんじゃないぞ。身体だけは気をつけるんだぞって」
それを聞いて、久田はかみしめるように言った
「こんなオバちゃんになっても心配してくれるんだから、ほんと、ありがたいな」
久田の半生は、『朝日新聞』で『仰げば尊し』と題し、今年5月3日から4回シリーズで紹介された。これを機に、自治体などから講演依頼が舞い込んでいるという。
「やりたかったことだから、喜んで引き受けてる。子どもたちに伝えたいからね。中学、高校で、友達とたくさん遊んで、部活も勉強も、その世代でやるべきことを思い切りやるんだよって。大学に行くのは、安定した職業に就くためではなく、人間力をつけるためだよって。私にはできなかった。だから、わかるの。それが、いかに貴重なことか」
そこまで一気に話すと、経営者の顔に戻り、付け加える。
「だって、人間力のある子がたくさん育たないと、うちの会社にいい人材が集まらないじゃない」
恩師が心配するとおり、久田の日常は仕事漬けだ。深夜2時、3時に就寝し、朝は誰よりも早く出社する。
「前はね、遊ぶと罰が当たって13歳に戻っちゃうような気がしてた。でも、今は1日の10分の1を自分の時間にするようにしてる」
結婚は? 尋ねると「ないない!」と即座に否定する。
「人には神様に与えられた役割があると思う。14歳でホステスになった私は、苦い経験をたくさんしたけど、その分、強くなれた。それこそ今じゃ、ガンダム級よ(笑)。これからは、その力を、会社の従業員や、未来を支える子どもたちのために使っていこうと思ってる。それだけよ」
痛みを知っている久田は、強いだけでなく、心優しい。
そのたくましい背中が、教えてくれる。
人はいくつになっても人生をやり直せるんだよ、と。
取材・文/中山み登り
<筆者プロフィール>
なかやまみどり ルポライター。東京生まれ。晩婚化、働く母親の現状など、現代人が抱える問題を精力的に取材している。主な著書に『自立した子に育てる』『仕事も家庭もうまくいくシンプルな習慣』(ともにPHP研究所)など。中学生の娘を育てるシングルマザー。