6月22日、幼い2人の子どもを残して他界した小林麻央さん

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 6月22日、フリーアナウンサーの小林麻央さんが幼い2人の子どもを残して他界した。同じように小さいころに親を亡くし深い悲しみに暮れる子どもは少なくない──。

 今年4月、都内の歯科衛生士専門学校に入学した加藤恵子さん(仮名、18)は、小学校3年生のときに父親を肺がんで亡くした。

 9歳の子どもは、父の死を受け入れることができなかった。周りの大人の説明ものみ込めず、納得できない気持ちを抱えたまま、父のいない日々を送ったという。

「死んでしまったということはわかっていましたけど、なんで死んじゃったの? なんで? という気持ちばかりでした。お父さんが本当に死んじゃった事実を、ずっと現実として受け止められていなかったのだと思います」

 と恵子さんは振り返る。

がん発覚、そして余命数か月

 父の記憶は鮮明で、母親の綾子さん(仮名、41)と一緒に病院に見舞いに行っていたこともよく覚えているという。

 若い父だった。享年30。

 知り合いに紹介された同い年の母親に、猛烈にアタック。まだ早すぎると二の足を踏んでいた母親を押し切り、20歳で結婚。その翌年には、恵子さんが誕生した。

 仕事から帰って来ると、恵子さんが1日何をしたのか、新しくどんなことを覚えたのか、矢継ぎ早に母に質問していたと聞かされた。

「背が高くて、がっしりしていて強面(こわもて)なんだけど、包容力があって、お母さんのことが大好きって、いつも言っていました」

 と恵子さんは父との会話を思い出す。仲睦まじい2人の姿も脳裏に刻まれている。

「私の前でケンカをしたことは一切なかったです。お母さんが“ご飯作るのが面倒くさいから”と言っても、お父さんは“お母さんが作ったご飯が食べたいよ、何か作って”ってお願いするんです」

 肺がんが発覚したのは2006年。副腎にも転移が見られ、余命数か月。すぐ入院し抗がん剤治療を開始したが、みるみるやせ細ったという。

 薬の副作用でまともに立つこともできず1日中、吐き気と闘うなど、体調は悪化をたどったが、恵子さんが見舞うと、“恵子”と叫びながら立ち上がり抱っこをしたという。

「私がお見舞いに行くと、お父さんはつらいのに、いつも元気に振る舞って。やさしかったし、明るかった。いつも私のそばにいてくれた温かい人でした」

 ただ、病気のことはよくわからなかったという。

なんで死んじゃったのか理解できない

「なんで入院したのか。そこはあまり話してくれなかったですね。私が小さかったから、というのもあるんでしょうけど」

 と恵子さん。当時は、母親やベッドに寝ている父を“なんで入院するの?”“いつ帰って来るの?”と質問攻めにしていたという。

 恵子さんは、最後の家族旅行のことを覚えている。

「お父さんは温泉が好きだったみたいで、よく温泉に一緒に行った思い出があります。病院から一時退院して行った旅行の帰りには、“また来ような”って。どんな気持ちで言っていたのかな……」

 病魔は、若い身体を激しいスピードでむしばみ続け'07年8月3日、親族一同が見守る中、静かに息を引き取った。

 父の枕元で恵子さんは、何度も“ねぇ、パパ死んじゃったの?”“パパなんで起きないの?”と聞き続けたという。

 母親の綾子さんは、

「お父さんは、肺がんって病気で死んじゃったんだよ、と説明をしました。でも、まだ病気のこととかは、よくわかっていないようでした……」

 と当時を振り返る。

 恵子さんはその後も、うまく受け止めることができず、

「お母さんからちゃんと説明を受けてましたけど、なんで死んでしまったのかがよくわかっていませんでした。なんで死んじゃったの? そんな気持ちはずっとありました」

 綾子さんは家計を支えるため夜遅くまで働き、涙を流す余裕さえ全然なかったという。

 そんな姿も恵子さんには、

「お母さんは一切涙を見せなかったですし、悲しくないのかなとも思ってしまいました」

 と映っていた。

「お母さんはいっぱい仕事をしなきゃいけなかったし、一緒にいる時間は少なかったです。いつも母の実家に預けられていて寂しかったですね」

母と取っ組み合い

 小学生の恵子さんは、父を亡くした寂しさに加え、新たな寂しさにまで耐えなければならなかった。

 会話の時間は少なくなり、相談もできず、母娘の間にはミゾができた。

 中学になると、恵子さんの素行は悪くなり、中2の夏になるころには、夜遊びを繰り返し、家に帰らず、学校にも行かない。母親の突然の再婚にも、恵子さんは衝撃を受けた。

「家にいるのが嫌いだったんです。新しいお父さんがすごく嫌いでしたし、お母さんにも、大好きだった人が死んだのに、よくほかの人と再婚できるなと思ってました。

 なにより結婚することを聞かされたのが、結婚する1か月前だったんです。お母さんとずっと2人で過ごしてきたのに隠し事をされて、お母さんをとられてしまうみたいですごく嫌でした」

 母娘の間で決定的な衝突が起きた。素行不良の恵子さんを家に連れ戻し、取っ組み合いに。中2の冬……言いたいことをぶちまけた恵子さんに、綾子さんも本心を明かした。

「すっごい大ゲンカだったですが、その中でいままであなたを育ててきて、お父さんが死んじゃっていろいろな思いをし、涙を流す時間もなかったんだよって話してくれました。このとき初めてお母さんが私の前で涙を流したんです」

 恵子さんが続ける。

「お父さんの病気についても詳しく話してくれ、初めてちゃんと理解することができました。ずっとモヤモヤしていた気持ちがすっきりして、お父さんの死を初めて悲しむことができました。母子家庭で、お母さんもずっと我慢してきてくれていたんだと気がつき反省しました」

 あの冬の出来事以降、母娘は距離を縮めた。綾子さんは再婚相手と離婚した。

「お母さんとは仲よくなって、いろいろなことをいっぱい話すようになりました。学校のこと、彼氏のこと、ちゃんと話を聞いてくれて友達みたいな関係です。お父さんのことも。“私は一番大好きな人と結婚したから、あなたも一番好きな人と結婚しなさい”ってうれしそうに話すんです」

 そう笑顔で話す恵子さんも、とってもうれしそうだ。

 今は専門学校へ通う日々。恵子さんが医療の現場を志したのには、こんな理由が。

「私もお父さんみたいな人と結婚して幸せな家庭を築きたいです。ただ大切な人が亡くなったとき私を育ててくれたお母さんのようになりたい。子どもを私ひとりでも育てられるように、収入が安定した医療系の仕事を選びました」

 その一方で、父の短命に納得できない気持ちが消えない。

「なんにも悪いことをしていないのに、なんでお父さんは死ななければいけなかったんでしょう。どうして私のお父さんだったのかな、って今もそう思うんです」

 今年で父を亡くし10年を迎える。理不尽な死を胸に抱えながらも、愛情を注いでくれた母の力で、いま、娘はまっすぐに育った。