94歳・内海桂子師匠が語る、79年の芸人人生と24歳年下の夫とのロマンス
5月21日、日本橋・三越劇場で『90なんてまだ若い! 内海桂子・桂米丸』の舞台が始まった。
昭和2年に百貨店の中の劇場として誕生し、以来、古典芸能や演劇、落語会、コンサートなど多彩な文化を発信し続けてきた三越劇場が、今年90周年を迎える。
これを記念して行われた実演イベントのひとつが、この舞台。
ちなみに桂米丸さんといえば、『笑点』の前司会者、桂歌丸さんの師匠にあたる。大正14年生まれの92歳。新作落語の名手として知られ、その飄々(ひょうひょう)とした芸風は、現在も寄席で健在である。
飴(あめ)色に光り輝く木製の天井、アールデコ風のデザイン、いかにも老舗らしい劇場は400人を超える中高年の女性客でいっぱいだった。
若い司会者と桂子さんが掛け合いの漫才を始めた。演目は『銘鳥銘木』。これは100年前から伝わる漫才のひとつで、桂子さんの十八番(おはこ)である。
「銘鳥銘木、木に鳥とめた」「なんの木にとめた?」「松の木にとめた」「なに鳥止めた?」「つるどりとんまらかして、それそっちへ渡した」「受け取りかしこまって、なかなかもってがってんだ!」
それからも「なんの木にとめた?」「箒(ほうき)にとめた」「ほうき?」「ちりとりとんまらかして、それそっちへ渡した………」「ウイスキ(木)にとめた」「サントリーとめた」とダジャレと機転の応戦は続く。
さらに、桂子さんにとっては孫、いや、ひ孫世代の若手の芸人たちが登場し、桂子さんと銘鳥銘木の掛け合いを始め、拙(つたな)い若手芸人の「滑り」に場内は爆笑の渦に包まれた。
長身の若手芸人たちに取り囲まれ、見下ろされる格好の桂子さんだが、臆することなど微塵もない。「あんたら、若いだけで何にもできないんだから」と容赦ない。ひときわ甲高くよく通る彼女の声はマイクを通さずとも、こちらの耳に響いてくる。
そして、桂子さんのひとり舞台──。
舞台の中央のイスに彼女が三味線を持って座り、慣れた手つきで調弦を始める。
彼女の横には、大きなスケッチブックが置かれていた。
そこには、自身の似顔絵を添えた都々逸(どどいつ)が書かれていた。
《生命(いのち)とは 粋なものだよ 色恋忘れ 意地はりなくなりゃ 石になる》
「これ、私が左手で書いたんですよ」というと会場から「ほぉー!」という声と大きな拍手がわき起こる。
「あたしゃ、16から漫才やって、94まで休んでないの」
しゃべりながらも、三味線を弾く手は休めない。ちんとんしゃんとてちんとん……。時折、明らかにトチる。客席に笑い声が起こるが、本人はいたって真顔でかまう様子はなし。そして、甲高い艶のある声で歌いだす。
ボードが裏返ると、そこに新たな都々逸が書いてある。
《石に成っても、俺らは違う。菜漬梅干し沢庵石に成って百歳までは生きてやる》
《九四ですよ 酒は一合、ご飯は二膳 夜中に五回もお手洗 100まで6年 わけはない 皆様、どうぞよろしく願います》
内海桂子──、1922年(大正11年)9月12日生まれ、御年94歳である。
レジェンドなどという言葉では物足りない、まさに国宝級の女芸人だ。
弟子の好江と組んだ漫才コンビ「内海桂子好江」は約半世紀にわたって人気を集め、好江の没後は、漫才協会会長、さらに現在は漫才協会名誉会長として長く東京演芸界を率いる傍ら、最古参の現役芸人として都々逸や漫談、軽口などさまざまな昭和の演芸を今なお広く演じ、人気を集めている。また、80歳を過ぎてからいくつかの大ケガや大病を乗り越え、現在、寄席でもその体験談を披露している。さらに’10年からTwitterのアカウントを取得、自らの言葉で1日数回、発信を続ける。
◇ ◇ ◇
今年1月8日、浅草・東洋館の仕事の帰り。タクシーを降りた桂子さんは、縁石に足をかけた途端、躓(つまず)き転倒してしまった。道路に四つん這いになり、しばらく動けなかった。痛い、痛いと訴える彼女のためにマネージャーで、ご主人の成田さんは、救急車を呼ぼうとするが、彼女はそれを制止。「だって、近所の人に悪いだろ」。そこで、成田さんは彼女を抱きかかえ自宅まで連れ帰った。これが初めての事故ではない。成田さんは床に寝かせて様子を見ることにした。
5日後、痛みが引かなかったため、成田さんは桂子さんをかかりつけの聖路加病院に連れて行った。そこで診断されたのは腰の骨折。入院し4時間に及ぶ手術が行われた。通常2か月の入院が必要だったが、1か月後に『徹子の部屋』の収録があったために、1か月で無理やり退院。
このとき、桂子さんは珍しく洋服姿で出演した。ケガのせいで着物が着れなかったためだが、番組の最後で、徹子さんがそのことに触れると、そこで「実は、あたし骨折して入院してたんです」と初めて告白したのだった。
桂子さんは、救急車が嫌い、車イスが嫌い、薬が嫌い、いつまでも元気でいるように見られたい。だから、つい頑張ってしまうのだ。
壮絶なる芸人人生
「本名は安藤良子といいます。父親は深川の籐(とう)職人、母は本所の理髪店の娘でした。2人が20歳のころに駆け落ちして大正11年に私が生まれたんです。世田谷の小学校に入学し、その後は父親がどこかに消えたので、台東区田中町(現・日本堤)の祖父の家で暮らしました」と桂子さん。
母はその後、新しい夫と一緒になるが、借家の敷金20円が払えず、桂子さんは小学校を3年で中退し、進んで老舗の蕎麦屋に子守奉公に出る。「子どもだってお金が稼げる」、「人間、動けばお金になる」という思いが幼い彼女の身体にはすでにしみ込んでいた。年季は5年の予定だったが、頭にケガをさせられて、2年足らずで家に戻ることになる。奉公から戻された彼女は母親に「ひとりで生きていくには何か芸事を身につけなさい」と言われ三味線と踊りを習い始める。とはいえ、近所の鼻緒屋で仕事を自分で探してきて、1か月に3円稼ぎ月謝に1円50銭、残りの半分は親に渡していたのだ。
さて、それなりに三味線も踊りもできるようになったころ、漫才師・高砂家とし松が千葉で演芸巡業の話を母に持ってきた。そこで桂子さんも人数合わせで駆り出された。仕事はビラ配りや楽屋の始末、人手が足りないときには助っ人で舞台に出たりもした。巡業は約1か月。そこで桂子さんはいろいろなことを学んだ。その後しばらくして、あの高砂家とし松が再びやってきて、今度は桂子さんに漫才の相方をやってくれと頼み込んできた。相方である女房が妊娠して舞台に出られなくなったためだった。
「私の傍(そば)で『夕暮れ』(江戸端唄の1曲)を三味線で弾いてくれるだけでいい。目いっぱい給金は弾むから」と、とし松。そして浅草・橘館の舞台に立つ。漫才師としてのデビュー。昭和13年、16歳の春だった。大学卒の初任給が月20円の当時、彼女の初任給は35円。もっともお金の管理は、親に任せていた。
「この当時は漫才ブームが起こり、とし松と私のコンビは、代役のつもりが3年以上も続き、トリを務めるほどでした」
そんな中、とし松との間に子どもができ、19歳で長男を出産。17年にはとし松とのコンビを解消。その後、戦時色が強くなる中、「三桝家好子」の芸名で、いろんな相方と組んで漫才の舞台をこなし、満州などの外地へも慰問に行ったのだった。
戦後は、漫才以外にもキャバレーの女給から団子売りまで、なんでもやって稼いだ。このキャバレー時代に「桂子」の名がついたらしい。
桂子さんは、もう1人、父親のいない子どもを産んでいる。それは、次の相方との間にできた娘。この相手とは5年ほどの夫婦生活の後、別れた。現在、桂子さんには孫が6人、ひ孫は7人いる。
内海桂子好江の漫才で一世を風靡
1983年の内海桂子好江が舞台に立つ映像が残っている。演目は『日本酒物語』。緑の着物の桂子さんに、淡いオレンジの着物の好江さん。2人とも背中に三味線を背負っている。
2人のちゃきちゃきの江戸弁が心地よい。桂子さんが道徳的・常識的な役割でそこに破天荒な好江さんがツッコむというスタイル。日本酒にまつわる話を繰り広げながら、時折、政治ネタも織り込んでくる。いつの間にか、好江さんがどんどん脱線しいっきに啖呵(たんか)を切るのが、このコンビの真骨頂。最後は三味線で都々逸を披露して締め。会場は大きな笑いであふれていた。
現在、東京の寄席でナンバーワンの人気を誇る弟子のナイツの笑いとも通じるものを感じる。桂子好江の代表作ともいえる『オペラは楽し』などの作者は、売れっ子作家の神津友好氏。いかに桂子好江が注目されていたかがわかる。
桂子さんと好江さんがコンビを組んだのは1950(昭和25)年。好江さんは、漫才師の両親のもと、9歳から舞台を踏み、女剣劇や父娘漫才を経て、桂子さんのもとにやってきた。このとき桂子さんは28歳、好江さんはまだ14歳だった。
「好江ちゃんは、三味線を持ったこともなく、着物もうまくひとりで着られないような娘さんでした」
だから初めは桂子さんが着付けを手伝っていたのだが、あるとき「これからは自分で着なさい」と宣言。もたもたしている好江さんを待たずにひとりで舞台に出たこともあった。しかし好江さんは必死に努力して、やがて桂子さんより着付けが早くなった。
その後、内海桂子好江は人気を集め、’82年には漫才師としては初めての芸術選奨文部大臣賞を受賞する。
その後、好江さんは辛口の批評が人気を集め、テレビのコメンテーターとして活躍するようになる。長年、舞台の演芸をやってきて、テレビのバラエティーとはなじまない桂子さんとは次第に距離が生まれ、コンビの芸を見る機会は激減していく。
そんな’97年、相方の好江さんが61歳という若さで亡くなってしまう。
好江さんが亡くなる少し前、「2人は仲違(なかたが)いした」という風評が立っていた。桂子さんに内緒で、自分だけの仕事を増やしていたのも事実だ。そのことについて桂子さんは、
「若いころからずっとまるで『鬼ばばぁ』のように好江ちゃんにはずいぶんきついことも言ってきました。彼女が自分を主張したくなったのも当然でしょう。だから、あたしも彼女の活躍の場が広がるよう後押しをしていたんですよ。これからというときだったのに、本当に残念だった」
ケガと病気のデパート
冒頭に、今年1月の事故のエピソードをお伝えしたように、桂子さんは80歳を境に次々とケガや病気に見舞われている。それまでは、医者とは無縁の人生。健康保険証を使ったことがないのが自慢だった。
「そりゃあ風邪だってひいたし、気分のよくないことだってあった。けど、子どものころはお医者さんにかかるような贅沢(ぜいたく)は許されなかったし、芸人になってからは舞台に穴をあけてはいけないというのが一番だったからね」
ところが83歳になって、初めて骨折という憂き目にあう。これが桂子さんの厄災の幕開けとなった。
’05年2月19日。この日、桂子さんは、神奈川県横須賀市の社会福祉法人からの依頼で仕事に出かけた。そして、東京駅でのこと。JR山手線から横須賀線に乗り換えで降りたホーム階段の途中で、足を踏みはずして33段転げ落ちてしまったのだ。
転落を阻止しようと踊り場で右手をついたその瞬間、全体重がかかった右手首の中で、「グシャッ」と何かがつぶれる感覚がして激痛が走った。
駆け寄ってきた成田さんに、桂子さんは「手がブラブラしている」と訴えた。真っ先に考えたのは「仕事」のこと。これまで、どんなことがあっても1度も仕事や高座を休むことはなかったが、このときばかりは仕事をキャンセル。救急車を呼び、以前足を捻(ひね)ったときに受診した東京駅から近い聖路加国際病院へ。この病院は、その数年前に道路の凹(へこ)みに草履を取られて足を捻ったときにお世話になっていた。このときの診察券を持っていたのが功を奏し診察を受けられたのだ。レントゲンを撮ると案の定の右手首骨折。整形外科の当直医からはギプスをすることを提案されたが、それでは何か月も三味線を弾くことができないので拒否。
手術後は、早く三味線を弾けるようになりたいという一心で、つらいリハビリも頑張った。金属のプレートをいくつも埋め込んでいるため痛みが強かったが、鎮痛剤は一切飲まなかった。また、用意された車イスも断った。
「内海桂子が車イスに乗っていた」などと言われたら、芸人生活はオシマイだと思ったからだ。
手術から約1週間で退院へ。
余談だが、キャンセルした横須賀市の仕事には、まだ駆け出しだったナイツの2人を先に差し向けていた。「桂子師匠の一大事」に2人は急きょ舞台を務め無事、大きな同情の拍手をいただいたのだった。ナイツの土屋伸之さんがその当時の気持ちを話してくれた。
「何をやったのか、全く記憶にないんですよ。普通なら師匠のケガのことを心配するはずなのに、自分らのことで頭がいっぱいでした(笑)。もちろん、僕らにとってはいい経験になりましたけどね」
その後、’07年には乳がんが発覚し切除。同時期に、右足の大腿骨転子部骨折になるも、入院も手術もせずに自己流リハビリで回復。さらに、そもそも右目がほとんど見えなかったのだが’11年、左目に白内障が発覚。悩んだ末に手術し事なきを得た。
同じ年の8月、今度は肺炎。それも国立演芸場での連続5日間公演の真っ最中だった。このときの桂子さんのレントゲン写真は、両方の肺が炎症で真っ白。死に至っても不思議ではない値だったが、「薬を飲んでくれるまで動かない」という看護師に根負けし、しかたなく薬を全部飲んだ。すると、みるみるうちに症状がよくなり、1週間後には、真っ白だった肺が、正常に戻ったのだ。
ふた回り年下の夫とのラブロマンス
桂子さんのマネージャーであり、最愛の夫でもある成田常也さんは現在70歳。彼女より24歳年下である。新潟生まれで、小学校のころからラジオで聴く漫才や漫談、落語が好きな少年だった。中でも、内海桂子好江や林家三平が大好きだったと言う。
「僕は三味線の音が好きだったんですよ。実家が魚屋をやっていて、よく家で宴会が開かれ、小さなころからお酒のお燗(かん)の役を務めていました」
当初、成田さんは、てっきり芸人筋の方だと思われていた。見た目のとぼけた風貌も浅草の芸人らしい。ところが実はさにあらず。成田さんが、桂子さんと初めて出会ったのはアメリカの会社員時代。桂子さん64歳、成田さんは40歳で未婚だった。日本航空系の会社勤務のエリートである。そこでは「日航寄席」という演芸会が年に何度かアメリカ各地で開催され、成田さんは日本から芸人を呼ぶ仕事を任されていた。
憧れの内海桂子好江コンビは、いつか呼んで生で芸を見てみたい芸人ではあった。
「よし、接触してみよう」と成田さんは思い、内海桂子の連絡先に国際電話を入れてみた。電話口に出たのは、桂子さん本人だった。帰国し、桂子さんの家を訪ねたのだった。
そのとき、成田さんは、桂子さんが成田さんの思い描く芸人のイメージと違うことに気がついた。
「ちゃらんぽらんじゃないと思いました。そして、言葉に真実味を感じた。さらに、着物姿が美しかったことにも惹かれましたね」
結局、アメリカでの公演は実現しなかったのだが、それから成田さんの手紙攻勢が始まる。1年間で300通。毎日のように、桂子さんの家に成田さんの手紙が届いた。
当時、娘とその孫と同居していた桂子さんは、当時のことをこう思い出す。
「孫がね、毎日手紙を持ってくるんです。また、この変な人から手紙が来てるよ、とね」
300通を超える手紙の、最後の1通に成田さんはプロポーズの言葉をしたためた。そして、アメリカで一緒に暮らさないか、と打ち明けたのだった。しかし、師匠の返事はノー。「そりゃそうさ、あたしがアメリカなんかで暮らせるわけはない。浅草の家には娘も孫も母もいるわけだしね。みんな、あたしがいないと干上がっちまう」。
普通ならば、ここで断念するのだろう。だが、成田さんの情熱は少しも衰えることなく、「ならば私が東京に行きましょう」と切り出したのだった。長年勤めたアメリカの優良企業のポストを捨てる覚悟を決めたのだ。
そして成田さんが帰国。同居生活が始まった。当初は、桂子さんの「仕事のない人とは暮らしたくない」という理由から、成田さんは家具会社の社長室長の仕事をしていたが、2年後には桂子さんの仕事をサポートすることに。同居当初は「遺産狙いじゃないか」などと言われた成田さんだったが、次第にその誠実ぶりが家族に認められていった。成田さんより5歳年上で結婚には反対だった桂子さんの長男も、病床での最後の言葉が「母をよろしく」だった。そして同居から15年が過ぎた’99年、2人は島根県の出雲大社で結婚式を挙げ、その模様はテレビで放映されたのだった。
とにかく仕事をしているのが一番楽しい
「師匠は舞台の時間を守らないんですよ」と言うのはナイツの塙宣之さんだ。
「しゃべってるうちに話が終わらなくなっちゃうんですね。“師匠、時間です”と言っても耳が遠いから聞こえないし、そんなときは3段階でやめさせる。最初は舞台袖から懐中電灯で光を当てる。まだダメなら緞帳(どんちょう)を下ろしちゃう。それでもダメなら僕が舞台に出て行って着物の袖を引っ張って連れ戻すんです(笑)」
売れっ子漫才師・ナイツは、2001年から桂子さんに弟子入りしている。初対面はどんな印象だったのだろうか。土屋伸之さんが言う。
「大御所なので、怖い人だと思ってました。でも、自分の祖母とおんなじで優しいおばあちゃん。おそらく昔の弟子には厳しかったんでしょうね」
桂子師匠は基本的なことを教えてくれると塙さんは言う。
「手取り足取りという指導ではなく、とにかくお客さんの前に出るときはちゃんとした格好で出なさい、とか。だから僕らいつもスーツなんです。あと、これは僕らにまさに足りないんですけど、“芸を身につけなさい”ということ。唄だったり、楽器だったり、踊りだったり……。だから僕らは必要なとき(踊りをやらなければならないとき)に稽古をつけてもらいに行ったり、習ったりしてますよ」
東京都台東区竜泉──。浅草にもほど近い下町情緒の残る一角に、桂子さんと成田さんが住む家がある。
食事は、朝昼兼用の1食と夕食の2回。用意はすべて成田さんの仕事だ。
「といっても、お惣菜を買ってきて、お味噌汁はインスタント。今は美味しいものがありますからね」と成田さん。
毎晩、1合の晩酌が何より楽しみ。桂子さんがぼやく。
「ホントは、もう少しお酒が飲みたいのに、この人が1合しか持ってこないの。知ってるんだから、上の部屋に1升瓶がいっぱいあんの。あたしは、絵や字を描くのも好きだけど趣味じゃない。だって売れるんですもの。とにかく仕事してるのが一番楽しいね」
仕事は、月に6回ほど浅草の東洋館に出演。ほかにテレビや地方での仕事もある。あとはリハビリに励む毎日だ
塙さんがあきれながら言う。
「最近“東京五輪では、100歳になっておかないといけない”なんて言い出してる。だから今年で96、97とか平気で嘘を言うんですよ。すごい芸人根性なんだけど、まあ立派な詐欺ですからね(笑)」
取材・文/小泉カツミ●こいずみかつみ ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母〜代理毋出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋)がある。
*記事のタイトルで、内海桂子さんの年齢を本来「94歳」であるところを「92歳」と表記してしまいました。訂正してお詫び申し上げます(2017年7月3日15時45分)