嘉門達夫 伝説のラジオ番組「ヤングタウン」渡邊プロデューサーへ感謝の手紙
人生を変えた、大切なあの人との「出会いと絆」、そして今だからこそ書きたい「手紙」。TOKYO FMの「ゆうちょ LETTER for LINKS」で3月20日に放送された、シンガーソングライターの嘉門達夫さんが語る、プロデューサー・渡邊一雄さんへの想いを紹介します。
伝説のプロデューサー渡邊さんへの手紙。
憧れの「ヤングタウン」!
人は誰でもこの人に誉めてもらいたい、そんな恩人がいるものだと思う。
僕、嘉門達夫にとって、それは渡邊一雄さんだ。
渡邊さんは、大阪毎日放送の伝説のラジオ番組「ヤングタウン」を創った人。
この番組からさまざまなシンガー、お笑い芸人が有名になっていった。
谷村新司、イルカ、岩崎宏美、河合奈保子、桂文枝、笑福亭仁鶴、と枚挙にいとまがない。
僕は中学生の頃からこの番組が大好きだった。
葉書で投稿する。
けっこうな確率で採用されてノベルティグッズをもらったりした。
16歳で、笑福亭鶴光師匠に弟子入りを志願したのも、落語家になりたかったというより、鶴光師匠が「ヤングタウン」に出演していたからだ。
「師匠にくっついていれば、いつかヤンタンに出られるかもしれない」
思惑どおり、僕は憧れの場所に足を踏み入れることができた。
千里の丘の上に堂々と鎮座する放送局。
MBS。伝説の番組「ヤングタウン」。
「ああ、オレは、ここに来たかったんや」。
喜びと緊張で体がふるえる。
ひとりのツキノワグマのような顔をしたおじさんが近づいてきた。
全身にみなぎるオーラ。
「だ、誰や……この人」
その人こそ、番組を立ち上げたカリスマプロデューサー、渡邊一雄さんだった。
「がんばってると思うで」
僕、嘉門達夫は19歳で、伝説のラジオ番組「ヤングタウン」のレギュラーに抜擢された。
プロデューサーの渡邊さんが、ひっぱりあげてくれた。
当時、鶴光師匠の弟子だったけれど、もともと落語家になる気概に欠けていたのだろう。
あえなく破門され、番組も降板になった。
人は絶望したら、北に旅立つもの。
どこかでそんな思い込みがあり、上野発の夜行列車に乗った。
青函連絡船で北海道に渡り、さらに北へ。
列車とヒッチハイクで江差という町に着く。
さらに北をめざし、線路を歩いているときだった。
ある看板が目に飛び込んできた。
「なべさん食堂」。
ヤンタンのプロデューサー渡邊さんは、みんなに「なべさん」と呼ばれていた。
渡邊さんの顔がよぎる。
僕はバッグからカメラを取り出し、シャッターを切った。
渡邊さんに手紙を書き、その写真を同封した。
「いろいろな経験をして、ひとまわり大きな人間になって大阪に戻りたいと思います」
放浪の旅をしながら、どこかで僕は自由だった。
スキー場でバイトをしながら、お客さんに新作の歌を披露する。
たとえば、「かわいこぶりっこは、今日もいく」。
ウケた。手応えを感じた。
そんなある日、渡邊さんから連絡が来た。
「ヤンタンに戻っておいで」
渡邊さんのおかげで、嘉門達夫としてデビューすることができた。
僕、嘉門達夫は、いつも思っていた。
「渡邊さんにほめられるにはどうしたらいいだろう」
実際には、怒られてばかりだった。
「替え歌メドレー」で、オリコン9位になって喜んでいると、自宅にファックスがくる。
「キミは、なにを9位になって喜んでいるんだ。1位になってから喜びたまえ!」
いつも叱りながらも、可愛がってくれた。
渡邊さんが、がんを患い、余命宣告を受けたあと、同じく渡邊さんにデビューのきっかけをもらったシンガーソングライターの金森幸介と2人でライブをやった。
渡邊さんは車椅子で来てくれた。
そのときはもう、しゃべることも大変だったけれど、笑顔でうなづいてくれた。
病床の渡邊さんを見舞ったとき、僕はカメラを回した。
どうしても彼の姿を残しておきたかった。
僕がインタビューする。
「谷村さんは、どうでしたか? 三枝さんはどんな人でしたか?」
最後に思い切って聞いてみた。
「僕、嘉門達夫は、どうですか?」
渡邊さんは、ふわっと笑顔になって、ささやくようにこう言った。
「がんばってると思うで」
ほめられた。
最後の最後に、初めて、ほめられた。
〜渡邊一雄さんへ〜
渡邊さん、あなたがこの世を去って、もう、6年になりますね。
僕は「嘉門達夫」でデビューして、33年経ちました。
渡邊さんが作ったラジオ番組「ヤングタウン」に憧れ、そのメンバーになることを夢見て、鶴光師匠に弟子入りしたのは、16の時でした。
破門になって、今度は歌で笑いを取る道を見つけました。
デビューにあたってもチャンスをいただき、いつも背中を押してもらって、現在があります。
でもまだまだ旅の途中です。
渡邊さんに「そこまでやるかー!」と思ってもらえるような表現を、もっともっと見出だして、年を重ねるに連れて、さらに時代を反映する歌を歌い続けていきたいと思っています。
ずっと上から見守っていてくださいね。
[嘉門達夫]
1959年3月25日生まれ。大阪府出身。
高校在学中に笑福亭鶴光師匠に入門。
内弟子をしながら19歳で深夜の人気ラジオ番組「ヤングタウン」のレギュラーになるが、破門と同時に降板。
全国を放浪した後、桑田佳祐命名の「嘉門達夫」の名で1983年「ヤンキーの兄ちゃんのうた」でデビュー。
以降、「小市民」「鼻から牛乳」「替え唄メドレーシリーズ」などヒット曲多数。
1992年NHK紅白歌合戦出場。
「時代の観察者」「言葉の魔術師」などの異名をとる。
ラジオ、テレビ、ライブに精力的に活躍している他、去年、小説「丘の上の綺羅星」が幻冬舎より発売される。
人生を変えた人との「絆ストーリー」を紹介するラジオ番組「ゆうちょ LETTER for LINKS」はTOKYO FMをキーステーションに、JFN38局で毎週日曜15:00〜15:30放送中。3月27日の放送はリスナー特集です。
★松山ケンイチが考えるカッコイイ大人は「自分の声を聴いて生活している人」 http://tfm-plus.gsj.mobi/news/QWGW5CbHvC.html
★藤巻亮太「アルバムタイトル『日日是好日』は、悩みのなかで出会った言葉」 http://tfm-plus.gsj.mobi/news/eofG6fNFQS.html
★音楽ジャーナリスト・伊藤なつみが選ぶ「この春、新生活を迎える人」に聴いてほしい3曲 http://tfm-plus.gsj.mobi/news/LmVAqPAlp3.html
<番組概要>
番組名:「ゆうちょLETTER for LINKS」
放送エリア:TOKYO FMをはじめとする、JFN全国38局ネット
放送日時 :毎週日曜15:00〜15:30
ナビゲーター:羽田美智子
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/links/
伝説のプロデューサー渡邊さんへの手紙。
憧れの「ヤングタウン」!
人は誰でもこの人に誉めてもらいたい、そんな恩人がいるものだと思う。
渡邊さんは、大阪毎日放送の伝説のラジオ番組「ヤングタウン」を創った人。
この番組からさまざまなシンガー、お笑い芸人が有名になっていった。
谷村新司、イルカ、岩崎宏美、河合奈保子、桂文枝、笑福亭仁鶴、と枚挙にいとまがない。
僕は中学生の頃からこの番組が大好きだった。
葉書で投稿する。
けっこうな確率で採用されてノベルティグッズをもらったりした。
16歳で、笑福亭鶴光師匠に弟子入りを志願したのも、落語家になりたかったというより、鶴光師匠が「ヤングタウン」に出演していたからだ。
「師匠にくっついていれば、いつかヤンタンに出られるかもしれない」
思惑どおり、僕は憧れの場所に足を踏み入れることができた。
千里の丘の上に堂々と鎮座する放送局。
MBS。伝説の番組「ヤングタウン」。
「ああ、オレは、ここに来たかったんや」。
喜びと緊張で体がふるえる。
ひとりのツキノワグマのような顔をしたおじさんが近づいてきた。
全身にみなぎるオーラ。
「だ、誰や……この人」
その人こそ、番組を立ち上げたカリスマプロデューサー、渡邊一雄さんだった。
「がんばってると思うで」
僕、嘉門達夫は19歳で、伝説のラジオ番組「ヤングタウン」のレギュラーに抜擢された。
プロデューサーの渡邊さんが、ひっぱりあげてくれた。
当時、鶴光師匠の弟子だったけれど、もともと落語家になる気概に欠けていたのだろう。
あえなく破門され、番組も降板になった。
人は絶望したら、北に旅立つもの。
どこかでそんな思い込みがあり、上野発の夜行列車に乗った。
青函連絡船で北海道に渡り、さらに北へ。
列車とヒッチハイクで江差という町に着く。
さらに北をめざし、線路を歩いているときだった。
ある看板が目に飛び込んできた。
「なべさん食堂」。
ヤンタンのプロデューサー渡邊さんは、みんなに「なべさん」と呼ばれていた。
渡邊さんの顔がよぎる。
僕はバッグからカメラを取り出し、シャッターを切った。
渡邊さんに手紙を書き、その写真を同封した。
「いろいろな経験をして、ひとまわり大きな人間になって大阪に戻りたいと思います」
放浪の旅をしながら、どこかで僕は自由だった。
スキー場でバイトをしながら、お客さんに新作の歌を披露する。
たとえば、「かわいこぶりっこは、今日もいく」。
ウケた。手応えを感じた。
そんなある日、渡邊さんから連絡が来た。
「ヤンタンに戻っておいで」
渡邊さんのおかげで、嘉門達夫としてデビューすることができた。
僕、嘉門達夫は、いつも思っていた。
「渡邊さんにほめられるにはどうしたらいいだろう」
実際には、怒られてばかりだった。
「替え歌メドレー」で、オリコン9位になって喜んでいると、自宅にファックスがくる。
「キミは、なにを9位になって喜んでいるんだ。1位になってから喜びたまえ!」
いつも叱りながらも、可愛がってくれた。
渡邊さんが、がんを患い、余命宣告を受けたあと、同じく渡邊さんにデビューのきっかけをもらったシンガーソングライターの金森幸介と2人でライブをやった。
渡邊さんは車椅子で来てくれた。
そのときはもう、しゃべることも大変だったけれど、笑顔でうなづいてくれた。
病床の渡邊さんを見舞ったとき、僕はカメラを回した。
どうしても彼の姿を残しておきたかった。
僕がインタビューする。
「谷村さんは、どうでしたか? 三枝さんはどんな人でしたか?」
最後に思い切って聞いてみた。
「僕、嘉門達夫は、どうですか?」
渡邊さんは、ふわっと笑顔になって、ささやくようにこう言った。
「がんばってると思うで」
ほめられた。
最後の最後に、初めて、ほめられた。
〜渡邊一雄さんへ〜
渡邊さん、あなたがこの世を去って、もう、6年になりますね。
僕は「嘉門達夫」でデビューして、33年経ちました。
渡邊さんが作ったラジオ番組「ヤングタウン」に憧れ、そのメンバーになることを夢見て、鶴光師匠に弟子入りしたのは、16の時でした。
破門になって、今度は歌で笑いを取る道を見つけました。
デビューにあたってもチャンスをいただき、いつも背中を押してもらって、現在があります。
でもまだまだ旅の途中です。
渡邊さんに「そこまでやるかー!」と思ってもらえるような表現を、もっともっと見出だして、年を重ねるに連れて、さらに時代を反映する歌を歌い続けていきたいと思っています。
ずっと上から見守っていてくださいね。
[嘉門達夫]
1959年3月25日生まれ。大阪府出身。
高校在学中に笑福亭鶴光師匠に入門。
内弟子をしながら19歳で深夜の人気ラジオ番組「ヤングタウン」のレギュラーになるが、破門と同時に降板。
全国を放浪した後、桑田佳祐命名の「嘉門達夫」の名で1983年「ヤンキーの兄ちゃんのうた」でデビュー。
以降、「小市民」「鼻から牛乳」「替え唄メドレーシリーズ」などヒット曲多数。
1992年NHK紅白歌合戦出場。
「時代の観察者」「言葉の魔術師」などの異名をとる。
ラジオ、テレビ、ライブに精力的に活躍している他、去年、小説「丘の上の綺羅星」が幻冬舎より発売される。
人生を変えた人との「絆ストーリー」を紹介するラジオ番組「ゆうちょ LETTER for LINKS」はTOKYO FMをキーステーションに、JFN38局で毎週日曜15:00〜15:30放送中。3月27日の放送はリスナー特集です。
★松山ケンイチが考えるカッコイイ大人は「自分の声を聴いて生活している人」 http://tfm-plus.gsj.mobi/news/QWGW5CbHvC.html
★藤巻亮太「アルバムタイトル『日日是好日』は、悩みのなかで出会った言葉」 http://tfm-plus.gsj.mobi/news/eofG6fNFQS.html
★音楽ジャーナリスト・伊藤なつみが選ぶ「この春、新生活を迎える人」に聴いてほしい3曲 http://tfm-plus.gsj.mobi/news/LmVAqPAlp3.html
<番組概要>
番組名:「ゆうちょLETTER for LINKS」
放送エリア:TOKYO FMをはじめとする、JFN全国38局ネット
放送日時 :毎週日曜15:00〜15:30
ナビゲーター:羽田美智子
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/links/