【戸塚啓コラム】東アジアの“アウェイ”を特別視するレベルになってはいけない

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 東アジアの戦いになると、日本のメディアは二つの論点をあげる。対戦相手の熱量と、アウェイの環境である。

 対戦相手の熱量は、ボール際の攻防に表れる。いつも以上にボール際の攻防が重要になる──という論調が幅を利かせるが、球際の重要性は相手の熱量によって変わるのか。

 否、そうではない。

 東アジアの国々でも、シンガポールやベトナムなどの東南アジア勢でも、欧州や南米の国が相手でも同じだろう。サッカーの原理原則のひとつだ。

 アウェイの環境も同様である。

 今回の東アジアカップでは、試合前にグラウンドでアップができない。こんなことはまず有り得ない。ただ、条件は対戦相手も同じである。武漢の暑さは厳しいが、それもまた日本だけが被るものではない。つまり、結果の言い訳にはならないということだ。

 スタジアムの雰囲気もアウェイではない。

 アウェイゲームの難しさは、声援が引き起こす錯覚にあると言われてきた。日本からボールを奪った相手が、ドリブルで仕掛けてくる。国内のゲームならさほど危うくない場面だが、敵地の観衆はボールを運ぶだけで熱狂する。「ひょっとしたら危ないのだろうか」という疑念が、選手の心理に入り込む。状況判断を狂わせ、不要なファウルを冒してしまう──アウェイの経験が少なかった20世紀の日本人選手が、しばしば直面していたアウェイの難しさだ。

 現在の選手たちは違う。クラブレベルでも国際経験を積んでおり、ACLで東アジアのピッチに立っている選手も少なくない。

 北朝鮮戦で武漢の記者席に座っていた僕は、日本人サポーターの声援をはっきりと聞き取ることができた。日本代表への声援をかき消すために、ムキになって声量をあげる北朝鮮や中国のファンも少数派に過ぎなかった。

 中国や韓国のスタジアムでは、どんなにすばらしいサッカーをしても支持されない。日本人以外の観衆はすべて、日本が負けることを願っている。

 そこで、勝利をつかんだら。

 痛快だろう。アウェイの環境とは本来、サッカー選手にとって最高のシチュエーションと言っていい。

 困難を克服することで、選手は自信を深めることができる。自身を磨くことができる。困難や障害をことさらに強調するのではなく、勝利によって得られるものに光を当てるべきだ。東アジアカップを特別視していたら、そもそも世界で戦えるはずがないと思うのである。