“14サミッター”に日本人で初めて仲間入りしたプロ登山家の竹内洋岳氏

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標高8000mを超える山が、地球上に14座ある。そのすべての頂を極めた“14サミッター”に、この5月、初めて日本人クライマーが仲間入りを果たした。今、世界的な注目を集める先鋭的な登山家は、どのような人物なのか?

■事故で失いかけた命を山で使い切りたい

地球上の8000m峰をすべて登頂した日本初の男と聞けば、筋骨隆々の屈強な姿を想像しがちだが、意外なことに見かけも語り口も極めてソフトだ。

「体が華奢なので、初めて会う方によく驚かれます。でも、筋肉がつくと体重が重くなるし、酸素の消費量が多くなるので、高所登山には筋肉はあまり必要ないんです。8000mの地点では、酸素量が平地の3分の1ほどですから」

なるほど。では、ほかに自身に超人的な部分があるか尋ねてみると、またしても意外な答え。

「つい先日、心肺機能を測定したら、肺活量も何もかもごく普通の41歳でした。この結果は自分でもちょっと残念でしたが(笑)。そもそも私は子供の頃から走ることも泳ぐことも苦手。球技もまったくできなかったので、超人でもなんでもないんです」

笑顔でひょうひょうと語る竹内さんは、14座登頂の偉業についても、さらっとこう言う。

「最初にイタリア人のメスナーが14座を制覇したのは26年も前ですし、その後も20人以上が成功している。だから記録としては大したことないんです。

でも、日本人は14座のひとつマナスルに初めて登頂し、ヒマラヤの高峰に輝かしい記録をいくつも作っている。それなのに、誰もこの記録を達成していないのは悔しい。じゃあ自分がやってやろう、そう思って挑戦しただけです。それが日本のメディアで報道されることで、多くの人が登山に興味をもってくれるとしたら、うれしいですね」

1995年のマカルー登頂を皮切りに、「一座一座ゆるやかに登り」、17年かけて14座すべての頂に立った。その山頂で、たった一度だけ泣いたことがある。2008年、ガッシャブルム?峰を制したときのことだ。

その前年、同じ山で竹内さんは雪崩に遭って仲間ふたりを失い、自らも背骨を粉砕骨折した。救助にあたったドイツ人の医師に「家族へ言い残すことはないか?」と聞かれたほどの重傷だった。

「あのとき山で偶然出会った人など大勢の方が、身動きのできない私を日本の病院までリレー搬送してくれた。私自身は、彼らに感謝しながら、心の中は自分に対する怒りでいっぱいでした。なぜ雪崩を予測できず、たくさんの人に迷惑をかけてしまったのか、もっと見抜けることがあったのではないか。その答えを探すために、山から遠ざかるわけにはいかない。なんとしてもこの山にもう一度登る、と思っていました」

周囲からは「再起不能」と見られていたが、背骨にチタンシャフトを埋め込む手術を受けた後、再びガッシャブルムII峰に登るためのリハビリを開始した。

「お見舞いに来る人は『運がよかったね』と言ってくれるんです。でも、私の気持ちは複雑でした。それでは同じ雪崩に遭って命を落としたふたりは、ただ私より運が悪かっただけなのか? そんなことであの出来事を片づけたくない。彼らに『ずっと忘れない』と言うためにも、私は登山をやめるわけにはいかなかったんです」

こうした思いが、2度目の挑戦で果たしたガッシャブルムII峰登頂時の涙になったのだ。

「今ここにいる私の命は、雪崩事故から私を救ってくれた多くの人たちからいただいたものなんです。だから、生涯かけて山で使い切りたい。高所登山は、どうしても命がかかっちゃうんですね。でも登山に限らず、命をかけて臨む行為は崇高だと思っています」

あくまで静かな口調だが、ハートの熱さが伝わってきた。

なぜ危険を冒してまで山に登るのか。大学生時代にマカルーとK2を制し、その後も世界的な登山記録を打ち立てていくなかで、竹内さんはこの質問をいやというほど受けてきた。

「それで、思ったんです。登山をプロスポーツとしてとらえ、プロの登山家宣言をしようと。野球選手でもサッカー選手でも、プロになったら、『なぜ、あなたは点を取るんですか?』とは聞かれませんよね(笑)。だから私も06年にプロ宣言して、自分の決意を再認識するとともに、スポーツとして14座に登るんだ、と皆さんにアピールしたんです」

スポーツとしての登山は、フリークライミングなど競技化されているものもあるが、竹内さんが挑む高所登山には競争相手がいない。いわば「この山に登る」と決めた自分自身との闘いだ。

「そう、あくまで競争相手は自分なんです。つらい、もうやめたいと思う自分にチャレンジするスポーツとして、高所登山は最高だと思っています」

■地図のない道を進むわくわく感が登山の原点

竹内さんの登山は、シェルパを雇わず、酸素も使わず、軽装備・少人数で登頂を目指すコンパクトなスタイルだ。

「14座登山を始めた頃は酸素を使うことが主流だったので、最初の3座は酸素を使いました。でもドイツ人クライマーのラルフ・ドゥイモビッツと出会ったことで、今のスタイルに変えたんです。費用も時間も軽減できるし、失敗しても『また来ればいい』と思える。何より自然でフェアだと思う。今後もヨーロッパで主流のスピード登山を続けたいですね」

高所登山のトレーニングは高所登山でしかできないと考える竹内さんは、マシントレーニングなどは行なわない。5月に14座制覇を成し遂げた後は、奥さんとふたりの子供たちと過ごす休息の日々のなかでも、すでに次の登山計画を練っている。

「あの山に登りたい、と思った瞬間から登山は始まります。地球上には無数の山がある。調査や地理学的な意味では探索し尽くされたかもしれませんが、人間が宇宙に行くような今でも、未踏の山があるんです。特にヒマラヤには、政治的な理由やさまざまな事情で人が触っていない尾根や谷がいっぱいある。そこを自分が歩くと想像するだけでわくわくします。

私がマカルーを東稜(とうりょう)から登ったときは、まだ不鮮明な衛星写真しかなく、チベットの谷をひとつひとつ迷いながらルートを探しました。でも、そのとき感じた楽しさが忘れられない。山に登るのは、これが原点ではないかな。14座登頂といっても、世界中にある頂のうち14ヵ所に登ったというだけ。これから登りたい山はたくさんあるんです」

目標と定めた山に登るにはどんな準備で臨めばいいか、想定されるリスクにはどう対処したらいいか、それを考えること自体も「登山」の一部なのだという。

「予定どおりにいく登山はあり得ない。行く手に待ち受ける危険や出会いをどれだけ想像できるか、それが登山の楽しみや醍醐味なんです」

●竹内洋岳(たけうち・ひろたか)

1971年生まれ、東京都出身。身長180cm、体重65kg。ICI石井スポーツ所属。高校から山岳部に所属し、立正大学山岳部で本格的な登山を開始。登山を続けるため大学に8年通い、卒業後は登山用品を扱うICI石井スポーツに就職。社長面接では、「私を採用しないと損をします」とアピールした。2006年に「プロ登山家」宣言。ヒマラヤの8000m峰は1995年にマカルーに登頂したのが最初。2007年にガッシャブルム?峰で大ケガを負うが、今年5月26日、ダウラギリI峰で14座全登頂を果たす

(取材・文/世良光弘 浅野恵子、撮影/五十嵐和博)