「金がないのはオレの責任なのか?」 /森本高史(FCデレン墨田CEO&フィリピンサッカー協会技術顧問)インタビュー
[インタビュー第一回を読む]
――実際にクラブを設立するにあたって、どういう困難がありましたか?
森本 まずコーチの選択です。モンゴルサッカー協会の推薦もありましたが、難しいのは指導者養成に力を入れていないことです。いい指導者に教わらないと子供は伸びないので、これは今でも悩みです。
考えたのは、サンフレッチェ広島方式です。広島はJリーグ開幕当初にスチュワート・バクスターという名将を呼び、2年目でステージ優勝を果たした。栃木SCの松田浩監督、ロアッソ熊本の高木琢也監督にも影響を与えています。サッカーの本場から人を呼ぶことで、いろいろな好影響が発生しているわけです。
――人を残しているわけですね。
森本 僕らもバクスターのような人材が必要だ、と。ただ本人はとても高いですし、僕らは貧乏球団です。そこで考えたのは、モンゴル人ほど安くないが日本人ほど高くもない国である、セルビアです。今まで3人のセルビア人監督を招へいし、ヨーロッパの経験をモンゴル人に伝えてもらおうとしました。
ただ最初は1カ月契約にしました。力量もそこまでわからないし、環境にフィットできるかもわからない。最初の監督はダボール・ベルベルという、バングラデシュ代表でコーチをやっていた人物です。彼が来て、規律が何もなかったチームに組織を植えつけました。でも1カ月で、契約が終わったら帰ってしまった。わかったのは、「1カ月では何もできないんだな」ということです(笑)。
――やってみてわかったと(笑)。
森本 口で言うのではなくて、実際に試さないとわからないことも多いですよね。彼はその後、中東のオイルマネーから声がかかり、バーレーンのトップリーグで指導しています。有能な指導者です。
それで別の指導者を探すことになり、友人のチャブリノビッチ(イタリアワールドカップ・ユーゴスラビア代表コーチ=オシム監督の名参謀、元PJMフューチャーズ監督、)に頼んでゲジム・リャーリャという56歳の人物を紹介してもらいました。それが2010年8月です。しかし、モンゴルに来たら彼が高血圧になってしまったんです。1200メートルぐらいの土地ですから。
不慣れなところで、誰にでもある話だろうと思ってしばらく様子を見ましたが、なかなか治らずにホームシックにも見舞われ、本人もイライラして子供たちにあたったり。結局、双方にとってよくないと判断して、合意の上で契約解除しました。2011年3月のことです。
――去年のことなんですね。
森本 クラブの事務所に呼んで、「解任する。ここに航空券があるから、明日帰ってくれ」とお願いしました。
――翌日に帰ってくれと。それはすごいですね。
森本 給料日が近かったからです。1カ月ごとに給料が発生しますし、僕のポケットマネーで運営されているクラブですから。最初はバカンスを与えようと思いましたが、それで解決する問題でもないなと。本人も高血圧やらホームシックですごく苦しんでいましたから。
なによりもデレン墨田のチームの雰囲気は悪く、選手たちの成長はストップしていたのでここでなにか手を打たなければなりませんでした。
僕にとって、サッカーというのは99.9パーセント監督で決まると思っています。選手は0.1パーセントです。監督選びは非常に重要。チームが負ければ、監督が解任されるのは当たり前です。
ただ、ここまで2人失敗してしまいましたが、イビチャ・オシムが言うように「人間は誰でもミスをする。オレでもミスをする。重要なのは、何を学ぶかだ」と。僕もそこから学んで、ちょうどモンゴルサッカー協会ともめてフリーになっていたオギを招へいしました。海外から呼ぶといろいろ問題あるから、身近な所ですませようと。
ただ彼はモンゴルサッカーでは第一人者なので、協会から何度も復帰のオファーをされ、結局2011年7月のスウェーデン遠征後に協会に戻っていきました。結果、8月から再び監督不在の期間になってしまいました。もっとも、名将だから他からオファーが来るのであって、そうでない人物はこれから世界を目指すデレン墨田にはふさわしくない。
また、給料の問題もありました。現状、Jクラブに勤めたほうが何倍もお金をもらえます。かといって監督の給料を増やして月100万円払ったとしても、年1200万円払うぐらいならスウェーデン遠征をもう一度やったほうがいい。いろいろ紆余曲折を経て、12月にようやく現監督であるヴォジスラフ・ブラルシッチに来てもらいました(参照)。
「短期ではダメ」「丸投げではダメ」。あと、リャリャが56歳で体調不良になったので「若くなくちゃダメ」と。
――きちんと、それまでの失敗を踏まえた選考をされたと。
森本 ブラルシッチは将来オシムやミハイロ・ペトロビッチになるような人物ですが、当時はフリーで、セルビアの名門パルチザン・ベオグラードから興味を持たれていました。ただ僕は、モンゴルから北京、フランクフルト経由でセルビアへ行って最初から「あなたの力が必要不可欠だ」という真剣な姿勢を見せました。
パルチザンは大きなユース組織を持っていて、他の人物にも声をかけていましたから。「向こうは100分の1かもしれないが、こちらは1分の1だ」と。すぐにデレン墨田のビジョンも話し、条件を詰めました。そういう熱意が伝わって、契約に至ったと思います。
彼はすごい人間ですよ。日本ではお金を払うほうが偉い、お客様は神様だという考えがあります。だけどブラルシッチは、デレン墨田のためにすべてを尽くすという姿勢です。2月に中国でキャンプを組んでくれ、と言われて財政難なのでと断ったら、「金がないのはオレの責任なのか? 日本は不景気かもしれないが、オレはきちんと仕事をしているだろう」と。全くそのとおりだ、と。
暖かい場所でキャンプで寝食を共にすれば、チームの絆は強くなるし一体感も高まる。すごく有益なんだ、と。そのお金がなければ、集めればいい、稼げばいい。「不景気だから、お金がかかるから」というところに責任をもっていった自分は間違っていたなと思いました。僕もやらなきゃと真剣に動き、デレン墨田は3月23日から4月6日まで中国・広州遠征を行います。
彼はそうやって、デレン墨田のためには何でも言う人間なんです。素晴らしいコーチを選んだな、と思いました。
<第三回へつづく>
森本高史(もりもと・たかし)
1978年10月東京都生まれ。東欧やアフリカ、中東といった地域に強いフットボールジャーナリスト。語学堪能で、英語、フランス語のみならず、スペイン語やポルトガル語、ドイツ語も操る。2009年11月、モンゴルでFCデレン墨田を立ち上げU-13、U-10のカテゴリーで選手育成に力を注ぐと共に、モンゴルの慢性的問題である貧困解決や子供の教育問題にも貢献することを目指して活動中。2012年1月、フィリピンサッカー協会テクニカル・コンサルタントに就任。
●Twitter:http://twitter.com/#!/derensumida2009
●デレン墨田公式ブログ:http://fcderensumida.blog.fc2.com/
――実際にクラブを設立するにあたって、どういう困難がありましたか?
森本 まずコーチの選択です。モンゴルサッカー協会の推薦もありましたが、難しいのは指導者養成に力を入れていないことです。いい指導者に教わらないと子供は伸びないので、これは今でも悩みです。
考えたのは、サンフレッチェ広島方式です。広島はJリーグ開幕当初にスチュワート・バクスターという名将を呼び、2年目でステージ優勝を果たした。栃木SCの松田浩監督、ロアッソ熊本の高木琢也監督にも影響を与えています。サッカーの本場から人を呼ぶことで、いろいろな好影響が発生しているわけです。
森本 僕らもバクスターのような人材が必要だ、と。ただ本人はとても高いですし、僕らは貧乏球団です。そこで考えたのは、モンゴル人ほど安くないが日本人ほど高くもない国である、セルビアです。今まで3人のセルビア人監督を招へいし、ヨーロッパの経験をモンゴル人に伝えてもらおうとしました。
ただ最初は1カ月契約にしました。力量もそこまでわからないし、環境にフィットできるかもわからない。最初の監督はダボール・ベルベルという、バングラデシュ代表でコーチをやっていた人物です。彼が来て、規律が何もなかったチームに組織を植えつけました。でも1カ月で、契約が終わったら帰ってしまった。わかったのは、「1カ月では何もできないんだな」ということです(笑)。
――やってみてわかったと(笑)。
森本 口で言うのではなくて、実際に試さないとわからないことも多いですよね。彼はその後、中東のオイルマネーから声がかかり、バーレーンのトップリーグで指導しています。有能な指導者です。
それで別の指導者を探すことになり、友人のチャブリノビッチ(イタリアワールドカップ・ユーゴスラビア代表コーチ=オシム監督の名参謀、元PJMフューチャーズ監督、)に頼んでゲジム・リャーリャという56歳の人物を紹介してもらいました。それが2010年8月です。しかし、モンゴルに来たら彼が高血圧になってしまったんです。1200メートルぐらいの土地ですから。
不慣れなところで、誰にでもある話だろうと思ってしばらく様子を見ましたが、なかなか治らずにホームシックにも見舞われ、本人もイライラして子供たちにあたったり。結局、双方にとってよくないと判断して、合意の上で契約解除しました。2011年3月のことです。
――去年のことなんですね。
森本 クラブの事務所に呼んで、「解任する。ここに航空券があるから、明日帰ってくれ」とお願いしました。
――翌日に帰ってくれと。それはすごいですね。
森本 給料日が近かったからです。1カ月ごとに給料が発生しますし、僕のポケットマネーで運営されているクラブですから。最初はバカンスを与えようと思いましたが、それで解決する問題でもないなと。本人も高血圧やらホームシックですごく苦しんでいましたから。
なによりもデレン墨田のチームの雰囲気は悪く、選手たちの成長はストップしていたのでここでなにか手を打たなければなりませんでした。
僕にとって、サッカーというのは99.9パーセント監督で決まると思っています。選手は0.1パーセントです。監督選びは非常に重要。チームが負ければ、監督が解任されるのは当たり前です。
ただ、ここまで2人失敗してしまいましたが、イビチャ・オシムが言うように「人間は誰でもミスをする。オレでもミスをする。重要なのは、何を学ぶかだ」と。僕もそこから学んで、ちょうどモンゴルサッカー協会ともめてフリーになっていたオギを招へいしました。海外から呼ぶといろいろ問題あるから、身近な所ですませようと。
ただ彼はモンゴルサッカーでは第一人者なので、協会から何度も復帰のオファーをされ、結局2011年7月のスウェーデン遠征後に協会に戻っていきました。結果、8月から再び監督不在の期間になってしまいました。もっとも、名将だから他からオファーが来るのであって、そうでない人物はこれから世界を目指すデレン墨田にはふさわしくない。
また、給料の問題もありました。現状、Jクラブに勤めたほうが何倍もお金をもらえます。かといって監督の給料を増やして月100万円払ったとしても、年1200万円払うぐらいならスウェーデン遠征をもう一度やったほうがいい。いろいろ紆余曲折を経て、12月にようやく現監督であるヴォジスラフ・ブラルシッチに来てもらいました(参照)。
「短期ではダメ」「丸投げではダメ」。あと、リャリャが56歳で体調不良になったので「若くなくちゃダメ」と。
――きちんと、それまでの失敗を踏まえた選考をされたと。
森本 ブラルシッチは将来オシムやミハイロ・ペトロビッチになるような人物ですが、当時はフリーで、セルビアの名門パルチザン・ベオグラードから興味を持たれていました。ただ僕は、モンゴルから北京、フランクフルト経由でセルビアへ行って最初から「あなたの力が必要不可欠だ」という真剣な姿勢を見せました。
パルチザンは大きなユース組織を持っていて、他の人物にも声をかけていましたから。「向こうは100分の1かもしれないが、こちらは1分の1だ」と。すぐにデレン墨田のビジョンも話し、条件を詰めました。そういう熱意が伝わって、契約に至ったと思います。
彼はすごい人間ですよ。日本ではお金を払うほうが偉い、お客様は神様だという考えがあります。だけどブラルシッチは、デレン墨田のためにすべてを尽くすという姿勢です。2月に中国でキャンプを組んでくれ、と言われて財政難なのでと断ったら、「金がないのはオレの責任なのか? 日本は不景気かもしれないが、オレはきちんと仕事をしているだろう」と。全くそのとおりだ、と。
暖かい場所でキャンプで寝食を共にすれば、チームの絆は強くなるし一体感も高まる。すごく有益なんだ、と。そのお金がなければ、集めればいい、稼げばいい。「不景気だから、お金がかかるから」というところに責任をもっていった自分は間違っていたなと思いました。僕もやらなきゃと真剣に動き、デレン墨田は3月23日から4月6日まで中国・広州遠征を行います。
彼はそうやって、デレン墨田のためには何でも言う人間なんです。素晴らしいコーチを選んだな、と思いました。
<第三回へつづく>
森本高史(もりもと・たかし)
1978年10月東京都生まれ。東欧やアフリカ、中東といった地域に強いフットボールジャーナリスト。語学堪能で、英語、フランス語のみならず、スペイン語やポルトガル語、ドイツ語も操る。2009年11月、モンゴルでFCデレン墨田を立ち上げU-13、U-10のカテゴリーで選手育成に力を注ぐと共に、モンゴルの慢性的問題である貧困解決や子供の教育問題にも貢献することを目指して活動中。2012年1月、フィリピンサッカー協会テクニカル・コンサルタントに就任。
●Twitter:http://twitter.com/#!/derensumida2009
●デレン墨田公式ブログ:http://fcderensumida.blog.fc2.com/
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