犬の帰巣本能を利用!戦国時代を代表する愛犬家・太田資正の見事な犬活用術

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皆さんは太田資正(おおたすけまさ)という人物をご存知ですか?

資正は戦国時代に活躍した戦国武将ですが、マイナーな人物なのであまり知っている方は少ないかもしれません。

しかし、資正は「人間の最良の相棒」と呼ばれている犬を画期的な使い方をしたことで一部からは認知されている人物でもあります。

今回はそんな資正の犬にまつわる有名なエピソードをご紹介します。

そもそも太田資正って誰?

資正は江戸城を築いた太田道灌のひ孫で最初は上杉朝貞に仕えていました。

落合芳幾画:太田三楽齋/Wikipediaより

しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で朝貞は北条氏康に討たれ、資正は北条氏の家臣として仕えることになりました。

北条氏は資正を名門太田家の末裔であることから優遇していましたが、永禄3年(1560)に上杉謙信が小田原城を攻めると資正は上杉氏に寝返ります。

当然、このことを氏康は許すはずもなく資正の治める岩槻城と松山城に軍を送りますが、何度も防衛に成功しています。

上杉氏に寝返った者は良いものの、資正は謙信ではなく常陸国の大名である佐竹義重に仕えます。

このことがきっかけで謙信と絶交してしまうのですが、後に謙信はこのことを後悔し資正との関係修復をします。

また天正3年(1575)には織田信長と交流し謙信病死の報告もしています。信長の死後、豊臣秀吉による小田原征伐(天正18年:1590)にも参陣し北条氏と戦います。

北条氏の滅亡を見届けて満足したのか翌年に資正は70歳で病没します。

資正流犬活用術!!

資正は幼少の頃から犬を好いており、岩槻城と松山城合わせて約100匹も飼っていたと言われています。

その犬たちを岩槻城にいた犬を松山城に松山城にいた犬を岩槻城に両城で半分ずつ配置し、可愛がっていました。

家臣たちはその様子を見て「うつけもの」と資正を小馬鹿にしていました。

そんな矢先、上杉氏に寝返った資正の元に北条氏が松山城を攻めてきます。

その時に松山城にいた家臣は資正の言いつけ通り、城内にいる犬の首に書状を入れた竹筒を掛けた10匹を放ち、岩槻城に向かわせました。

北条側も伝令を犬とは思わなかったこともあり、岩槻城にいた資正に連絡が行き届き北条氏を撃退することに成功しています。

このように資正は犬を『軍用犬』として使用したことにより、北条氏から松山城を奪われることはありませんでした。

資正は日本で初めて軍用犬をしようしたとされており、この戦術は資正の出家名である三楽斉にちなんで「三楽犬の入替え」と呼ばれています。

このエピソードの影響により信長の野望や戦国IXAなど多くのゲームで資正は犬とセットで描かれています。

太田資正:信長の野望シリーズより

最後に

犬の帰巣本能を活用した資正。ここまで犬のことを熟知しているともはや戦国時代を代表する愛犬家と呼んでも過言ではないですね。

資正と三楽犬には誰にも切ることのできない相棒関係が結ばれていたと考えられますね。