新宿の裏路地で夜な夜な句会が開かれる「砂の城」。そのオーナーであり、『アウトロー俳句』の著書でもある北大路翼さんにお話を聞いた(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第55回。

ひょんなことから1冊の詩集を購入した。『新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」アウトロー俳句』(河出書房新社)だ。

どうやら歌舞伎町に集まるアウトローたちが、詠んだ俳句集らしい。アウトローとは無法者のことだろうか。

サラッと目を通した。

駐車場雪に土下座の跡残る 咲良あぽろ   
キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事 北大路翼
目の前でされるピンハネ懐手 喪字男

軽い気持ちで読み始めたのだが、一つひとつの俳句が胸に突き刺さってきた。そこには世間からはみ出した人たちの、怒り、悲しみ、憎しみ、喜び、愛情、などが渦巻いていた。


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この本は、新宿歌舞伎町俳句一家「屍(しかばね)派」の句集である。編は俳人である北大路翼さん(40歳)だ。

『アウトロー俳句』の前に出版された、北大路さんの単著『天使の涎』(邑書林)は若手俳人のための最高の賞である“田中裕明賞”を受賞している。

歌舞伎町の片隅にひっそりとある"城"

北大路翼さんが歌舞伎町の路地裏で営業しているお店が「砂の城」だ。


このあたりに「砂の城」はある(筆者撮影)

おそらく戦後のドサクサの頃から変わっていないであろうゴミゴミとした裏路地にある。グチャグチャの電線が走り、さまざまな国の言葉で書かれた看板が出ている。そこにある雑居ビルの3階に「砂の城」はあった。

恐ろしく細い階段を上り、ドアを開けると北大路さんはバーの椅子に座っていた。入るなり、

「床、穴空いてるから気をつけてくださいね」

と言われた。足元を見ると、確かにボコンと大きな穴が空いていた。しばらく前に抜けてしまったという。

壁には絵や写真などが乱雑に貼られている。とても混沌とした空間だ。

「そこの階段を上ると部屋があって、そこで句会をするんですよ」

と言われる。乱暴に上ったらそのまま壊れて崩れてしまいそうな古びた階段だ。


短冊で埋め尽くされたヤニまみれの壁(筆者撮影)

恐る恐る上ると8畳ほどの部屋があった。すさまじく古くてボロい部屋だ。敷かれたカーペットは湿ってへたり、壁はタバコのヤニで黄色く染まっている。そしてその壁には、コピー用紙を割いて作った短冊がズラッとセロハンテープで貼られている。短冊には、一つひとつ俳句が書かれている。

夜な夜なこの部屋に、屍派のメンバーが集まって句会が開かれているのだ。屍派には、ニート、キャバ嬢、ながしのマッサージ師、女装家……などなど個性的な人たちがいる。

この“城”を取り仕切る、俳人・北大路翼とはいったいどんな人間なのだろうか? 

「砂の城」店内で話を聞いた。

先生の言うことをまったく聞かない子ども

「生まれは、えっとどこだっけ。ああ、横浜の港南区ですね。ごく普通の家でしたよ。途中で引っ越しましたけど、結局30歳くらいまでは実家にいました」

北大路さんは、小さい頃から人と同じことをするのが嫌だった。まじめな生徒でいるのも嫌だったが、不良になるのも嫌だった。不良は不良で皆仲間どうしで同じことをするからだ。

そんな小学校低学年の頃、国語の授業で自由律俳句の俳人、種田山頭火に出会った。

「『かっこいいじゃん』って思いました。家にたまたま全集があって貪るように読みました。俳句が自分の『不良道』になったんです」

とにかく先生の言うことは聞かない子どもだった。小学校3年生のとき、先生がクラスのほかの生徒たちに言った。

「彼(北大路)はクラスの中にいないことにします。だから、皆さんはいてもいないフリをしてください」

先生が生徒に「生徒を無視しろ」、とはありえない発言だ。現在だったら大問題になるだろう。先生の発言を真に受けた生徒たちは北大路さんを無視した。

「いや、ひどいですよね(笑)。でも当時の僕は全然嫌じゃなくてちょうどいいやって。授業中はずっと好きな本を読んでましたね。

結局最後には先生から『こんなに意地っ張りとは思わなかった。負けました』って謝られました」

成績もよかったが、体育と音楽だけは1だった。運動着を着るのが嫌で体育の授業は1回も出なかったし、笛は先生の目の前でたたき折った。

小学校高学年になると、ギャンブルに興味を持ち始めた。ちょうどオグリキャップが引退する頃で、競馬が盛り上がっていた。

「小学校5〜6年で競馬場に行ってました。僕は子供の頃から背が高かったんで、怒られなかったですね。当時のお小遣いは月1000円でした。競馬場までの交通費は500円で、当時馬券の最低購入金額が500円。つまり1枚しか馬券を買えなかったんです。それでも当ててました(笑)」

中学校に入っても、あいかわらずだった。制服を着ないでトレンチコートを着て学校に行って、めちゃくちゃ怒られたこともあった。

高校受験は志望校には行けず、とある高校の特進コースに入った。通常の6時間の授業に加え、朝の補習が2時間、放課後の補習が2時間あった。

「毎日、勉強漬けですよ。3年間クラス変わらないし、部活動も禁止でした」

部活動は禁止だったのだが、それだと卒業アルバムに載せる写真があまりに何もない。それでは生徒がかわいそうだということになり“ウソの部活写真”を載せることになった。

北大路さんは『文芸部にいた』という体(てい)で卒業アルバム用の写真を撮ることになった。

「その撮影のときに初めて先生とちゃんとしゃべって、先生が俳句をやってるって初めて知りました。40歳くらいの男の先生で、結社(俳句をする人の集まり)を立ち上げていて、公民館などで老人を集めて句会をしてました」

先生についていって、句会に参加した。

俳句は小学校のときからずっと続けていたが、そこから本気でのめりこむようになった。

「集まってる老人が、老人の中でもはみ出し者の不良老人ばっかなんです。わがままで、人の言うことなんか絶対聞かない。ちょうど『同級生ってつまらないな』と思ってたときに老人に会えてよかったですね。お酒やメシをおごってくれましたし(笑)」

そして大学受験を終え、青山学院大学に進学した。

進学するものの、学業そっちのけでサッカー応援

「当時は自宅が厚木だったから大学まで通うのが大変でした。片道2時間で、すぐに大学行かなくなりましたね。最初の飲み会には参加したけど、いつも老人と通なお店で飲んでましたから、安い店で騒いで飲む同級生たちが『ダサいな』って思って、いっぺんに大学が嫌いになりました」

大学に興味を失うのと同時に、サッカーにハマった。小学校時代は体育の授業に参加しないほど運動嫌いだったから、もちろんサッカーをするのにハマったわけではない。サッカーの応援にハマったのだ。

「近所にサッカーの応援で日本中を回っているおじさんがいて、一緒にサッカー応援の旅に行きました」

応援の旅はほぼ車中泊だった。水曜日と金曜日に試合があったので、前日にスタジアム入りした。0泊3日で広島や博多に行って贔屓のチームである横浜マリノスを応援した。

「スタジアムの前に並んでると、差し入れのお酒をもらえるんですよ。スタジアムの前でひたすら酒を飲んでる日々でした」

1998年のフランスのワールドカップにも行くつもりだったのだが、応援に使う太鼓を持ち込めるかどうかで、旅行会社ともめてしまった。結局、遠征はとりやめになった。旅行会社に預けていたお金、70万〜80万円が帰ってきた。

「アルバイトしてためたお金でした。ほぼ1日で使っちゃった(笑)。キャバクラに行って、バラまいて終わりって感じです」

大学生にとって70万〜80万円は安い金額ではない。しかも必死にアルバイトしてためたお金だ。一気に使ってしまったのは、なにか理由があったのだろうか?

「もともとギャンブル好きだったし、金銭感覚が壊れてるのかもしれないなあ。昔から、お金持ってるのが、ものすごい嫌なんですよ。あると全部使わないと気持ちが悪い。貯金はずっと0円ですね。今も全財産500円ないですもん(笑)」

北大路さんは笑いながらポケットを叩いた。それで困らないかといえば、困っているという。年中、電気とガスは止められて、食うや食わずやの状態になる。

そんな話をしているのに、北大路さんからは不思議と悲壮感が漂ってこない。

話が少しそれてしまった。

ずっと熱烈に横浜マリノスを応援していた北大路さんだったが、横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併は大いに反対だった。

「合併反対派の中心だったんです。反対運動やりすぎてスタジアム行けなくなってしまいました」

ファンフェスタで反対運動から賛成派とケンカになってしまった。その様子を見ていた選手がインタビューで「怖かった」と答えた。

「選手を怖がらせてはダメだと思ってキッパリと足を洗いましたね。憑き物が落ちたみたいに、それ以来サッカーはまったく関心持たなくなりました」

サッカーの応援をやめても、大学にはあまり行かなかった。

35年分の"過去自殺"

それからはナンパをするようになった。

「ずっとそういう部分は冷めてたんですけど、20歳超えてから急に目覚めてナンパばかりしてました。晴れた日はクラブとかで、雨の日はチャットで、やり取りは全部まめにノートにつけてました。ちょっと記録魔なとこがあるんです。野球のスコアとかつけるの好きでしたしね」

本業である俳句も記録は大事だ。思い出していくのに記録はとても便利なのだ。俳句一句から、言葉をインデックス(索引)にしてほかの俳句をたどることができる。

生活の記録である、日記も小さい頃からずっとつけていた。

「35歳くらいのときに“過去自殺”しようって思ったんですよ。過去の記録を全部捨てちゃおうって。たぶんギャンブルで負けてむしゃくしゃしてただけだけど」

小さい頃からつけていた日記、写真は、段ボール5箱にもなった。それを容赦なく、全部捨てた。

「一緒に住んでた女が『そんなことしちゃダメだよ〜』って泣き出しちゃいました。今思えば、とっておけば少しはお金にできたのかな? ってちょっとだけ後悔してます。でも全部捨てて気持ちはかなりスッキリしました」

サッカーの応援と、ナンパばかり頑張った大学時代だったが、留年することもなく卒業することができた。

そして、性風俗を紹介する情報誌を発行する会社に就職した。

「遊び半分でお金もらえればいいなと思って入ったんだけど、すごいスパルタな会社でした。『電話は立ったまましろ!!』とか怒鳴られるような」

給料はよかったのだが、そもそもお金に興味がないので、それはモチベーションにはならなかった。結局、半年で辞めてしまった。

「そこからはフリーターみたいな感じでした。塾の講師をしたり、漫画の脚本を書いたりしてました。俳句の先生の先生が脚本家で、その影響で『脚本を書いて』って頼まれて」

2〜3年間はフリーター生活を続けた。25歳になった頃、俳句を通じて出会った知人が俳句の出版社を立ち上げた。大企業の元会長がオーナーで、文化事業をやるという名目だった。

「出版社の立ち上げから参加して、編集作業はもちろん、取次(出版社と書店をつなぐ業者)まわりの仕事もさせてもらったので、勉強になりました」

オーナーは最初こそ「儲けなど別に気にしない」という態度だったが、だんだん口を出すようになってきた。

怒鳴り散らすので、すぐに社員は辞めてしまう。5年間で100人ほどの社員が辞めた。続いているのは3〜4人しかいなかった。

「僕も5年目で結局ケンカして辞めました。ロッカーとか全部、ぶったおして飛び出しました。辞めた後は、収入は社会保険だけでした。あとは、一緒に住んでた女のヒモになって暮らしてました」

朝起きると、井の頭公園に歩いていって、ベンチで酒を飲んだ。何をするでもなく一日中ボーッとしていた。

「ちゃんと花は咲く」

それを毎日毎日繰り返した。公園にいるホームレスたちと仲良くなった。

「桜の季節に井の頭公園に行き始めたんですけど、毎日毎日酒飲んでボーッとして暮らしてちょうど1年経ったとき、また桜が咲いたんですよね。誰に言われるわけでもないのに、ちゃんと花は咲くんだって。ものすごい感動しましたね。ジーンとしました。あの1年は、いい体験だったと思います」


「砂の城」のオーナーに至るまでの道のりを北大路さんは語ってくれた(筆者撮影)

そんな生活を続けた2011年に、ある俳句のパーティーに参加すると、とある出版社の編集者がいた。話をすると

「1日中ぼーっとしてるなんてもったいないから、うちで働きなよ」

と誘われた。そこから現在にいたるまで、北大路さんは短歌の本を作る編集部に在籍している。

2011年、芸術家の会田誠さんが歌舞伎町に「芸術公民館」というお店を作った。会田さんは常々、

「海外にはアーティスト同士が議論する場所があるが、日本はそういう場所がなさすぎる」

と感じていたため、自分で“議論できる場所”を作った。

飲み物は1杯200円で、お店が100円、店員として入った人が100円の取り分という、ほとんど儲けを考えていない店だった。

それ以前から、会田さんと知り合いだった北大路さんは、毎日のように飲みに行っていた。会田さんも忙しくなり、いつの間にかお店は北大路さんが仕切るようになっていた。

「ずっといるなら、北大路くんが店をやりなよ」

という話になり、3〜4年前に名前を変えて北大路さんのお店として営業がはじまった。

現在の「砂の城」である。

「男だし“城”ってつけたかったんですよね。ビートたけしの『風雲!たけし城』とかね。あといつ潰れてもおかしくないように“砂”をつけました」

引き継いですぐの頃は、作家の石丸元章さんがよく訪れていた。

「会ってすぐに意気投合しました。お互い俳句をやってるって知らなかったけど、なぜか『俳句をしよう!!』ってなったんです」

2人で街を歩いたりしながら、俳句を作った。それを見ていたお客さんも「自分も作りたい」と思って句作りを始め、俳句の輪はどんどん広がっていった。

砂の城は、句会が開催される場所として注目されるようになっていった。

「句会は3年くらいやってますね。週刊誌に取材されたときに『アウトロー俳句』って取り上げられ方をされました。“アウトロー”は自称ではなかったんですよ(笑)。でも当時は今より、アウトロー色強かったですね。タトゥー入ってる人とか、厄介な仕事をしてる人とかいました。

石丸元章さんは病気で倒れてから、来なくなっちゃって。また来てほしいんですけどね。ちょっと照れくさいのかな」

始まった当初は、寝ないでずっと句会をやり続ける日もあったという。


20代の若い人たちがたくさん集う「砂の城」。店内は狭くてボロいが、和気あいあいとしてとても楽しい空間だ(筆者撮影)

「たくさんの句が集まりました。参加している人は200人ほど、全2000句を超えてました。従来の俳句にはない独特の面白さがありました。本にして、供養しないとなって思いました」

そうして2017年12月に「砂の城」から生まれた2000の俳句から北大路さんが選んだ『アウトロー俳句』が出版された。著書は注目されて、テレビなどのメディアで紹介された。

そして今年の3月には、北大路さんの新しい著書が発売される予定だ。

「俳句の入門書を出すつもり。人生相談みたいな本ですね。ツイッターで悩みを受け付けて、それに答える形です。1年くらいかけて書きました」

中には『筋ジストロフィー症で体が動かないんですが、どうしたらいいですか?』という重い質問もあったという。

こんな質問に答えるのは無理だと思ったけれど『動けないのがお前の武器だ!!』と勢いで答えた。

俳句で人生を歩みたい

「子どもの頃から俳句をやってて、俳句で食えるようになりたいってずっと考えてます。俳句だけで食えてる人はほとんどいないから。

とりあえずは地道に「砂の城」の営業を続けながら、イベントをやっていくしかないのかな〜と思ってますね。実際、オープン句会というのをやっていて毎回お客さん入ってくれてます」


と、北大路さんは笑顔で語った。

北大路さんはとても破天荒で個性的なのだけど、繊細で真面目で優しい一面もありとても魅力的な人だった。

僕が句会に伺ったときには、20代の若い人たちがたくさん参加していた。おそらく北大路さんの魅力が彼らを引き寄せているのだろうと感じた。

新宿歌舞伎町の片隅にある狭く汚く今にも崩れそうな空間で、アウトローな人たちがギュウギュウ肩を寄せ合い俳句を詠み合う。

そんな不思議な空間がこれからもあり続けてくれるといいなと思った。