地域によって「民族意識」は異なる

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■新政権に加わった「ネオナチ」への警戒

ウクライナ情勢を解く鍵は、ウクライナ人が持つ「複合アイデンティティー」だ。ウクライナの東部、南部、さらにロシアに編入されてしまったクリミア自治共和国ではロシア語を日常的に話す住民が多数派だ。宗教も正教である。これらの地域ではウクライナ人とロシア人の民族意識の分化が曖昧だ。

「『あなたはウクライナ人か』と問われれば、『そうだ』と答える。しかし、アメリカ人や日本人から『あなたはロシア人だよね』と言われれば『そうだよ』と答える。民族なんて特に意識しなくても生活できる」というのが、ロシア語を常用する住民の標準的な意識だ。

これに対して、ウクライナの西部(特にガリツィア地方)のウクライナ人は、「われわれは断じてロシア人ではなくウクライナ人である」という明確な民族意識を持っている。ガリツィア地方では、イコン(聖画像)を崇敬し、下級聖職者が妻帯するなど、外見は正教と似ているがローマ教皇(法王)の指揮監督下に入ったユニエイト教会(東方帰一教会、東方典礼カトリック教会)の信者が多数派だ。今回のウクライナの政変で、機関車の役割を果たしたのが、西部の民族至上主義者である。

1945年まで、ガリツィア地方は、ロシア帝国、ソ連の版図に組み入れられたことがなかった。もともとハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)に属し、1918年に帝国が崩壊した後は、ポーランド領になった。19世紀にロシア帝国のウクライナでは、ロシア語化政策が強力に推進された結果、農村部を除き、ウクライナ人もロシア語を常用し、徐々にウクライナ語を忘却していた。これに対して、ハプスブルグ帝国では多言語政策がとられたので、ドイツ語、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語などとともにウクライナ語でも教育が行われ、新聞、雑誌、書籍が刊行された。

第二次世界大戦で、ウクライナ人は敵味方に分かれて戦った。〈ソ連軍の中にはウクライナ人200万人が含まれていたし、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれており、同一民族が互いに敵味方になって戦った〉(黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書、2002年、234頁)。このナチス・ドイツ軍に所属したウクライナ人がユダヤ人虐殺に積極的に加担した。ウクライナ民族至上主義を掲げ、反ユダヤ主義的傾向の強い政治エリート(特に「スボボダ(自由)」党員)がウクライナ新政権に加わっている。「スボボダ」は国際基準で、ネオナチに分類される。大統領選挙にも、「右派セクター」のドミトリー・ヤロシュ党首が立候補している。日本経済新聞の石川陽平記者は、ガリツィア地方の中心都市リビウ(リボフ)発の記事で、〈数多い候補者の中で、民族主義を掲げる極右政党「右派セクター」のヤロシュ党首も注目だ。右派セクターはロシアから過激派と激しく敵視され、欧米もヤロシュ党首の政治的影響力の拡大を警戒している。〉(3月31日「日本経済新聞」電子版 ※1)と報じた。重要な指摘だ。3月17日、露国営ラジオ「ロシアの声」は、ヤロシュ党首が、〈ロシアと衝突が始まった場合、「極右セクター」は、ロシアと欧州を結ぶガス・パイプラインを破壊する、と述べた〉と報じた。ヤロシュ氏ならば、このような行動に及んでも意外性がない。

ウクライナ人のロシア観には大きな差異がある。キエフ国際社会学研究所(出典、露誌『ノーボエ・ブレーミャ(新時代)』3月17日号。同誌はプーチン政権に批判的で、リベラルな報道で定評がある)によると、「ウクライナのロシア統合に関する世論」は、以下のようになっている(統合に賛成、単位はパーセント)。

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▼西部
・リボフ州 0
▼中央部
・キエフ市 5.3
・キエフ州 6.4
▼東部
・ドネツク州 33.2
・ルガンスク州 24.2
・ザパロジエ州 16.7
・ハリコフ州 15.1
▼南部
・オデッサ州 24.0
・クリミア自治共和国 41.0

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この結果からしても、東部、南部とそれ以外の地域でのウクライナ人のロシア観は決定的に異なる。

■ロシアの帝国主義を米国・欧州は覆せない

3月16日、クリミア自治共和国で住民投票が行われ、クリミアのロシア編入が支持された。この結果を受けて3月18日、ロシアは、クリミア編入を決定した。この日、ロシアのプーチン大統領は、連邦院(上院)議員、国家院(下院)議員、クリミアの代表者の前で演説し、「今日、われわれは、われら全員にとって死活的に重要な意味と歴史的意義を持つ問題に関連して集まった。16日、クリミアで住民投票が行われた。それは、民主主義的手続きと、国際法規範に完全に従って行われた。投票には82%以上が参加した。96%以上がロシアとの統合に賛成した。この数字はきわめて説得的である」と述べた。

しかし、「自警団」という名の国籍不明軍(実態はロシア軍)がクリミアを実効支配する中で行われた住民投票の結果を国際社会は認めない(※2)。プーチン大統領を含むロシア指導部は、クリミアを編入することによってロシアに対する国際的非難が強まることを十分認識している。しかし、クリミア住民の大多数が実際にロシアへの編入を望んでいるという事実、また、ウクライナにクリミアを奪還する軍事力がないこと、さらに米国には軍事的にウクライナを支援する余裕がないといった事情を総合的に勘案した上で、国際社会はロシアによるクリミア編入を受け入れざるを得なくなると見ている。それだから、プーチン大統領は、「現在、ヒステリーをやめ、『冷戦』のレトリックを拒否し、明白な事柄を承認する必要がある。ロシアは、国際関係の自立した、積極的な参加者だ。他の諸国と同様にロシアには、考慮せねばならず、尊重しなくてはならない国益がある」と述べたのだ。「考慮せねばならず、尊重しなくてはならない国益」のためには、近隣諸国の領土を編入しても構わないというのは、典型的な帝国主義者の発想だ。しかし、ロシアの帝国主義政策を覆す力がアメリカやEU(欧州連合)にないことも現実だ。この現実が可視化されたことによって、国際社会のゲームのルールが、帝国主義的な勢力均衡論に転換しつつある。

現時点でロシアにクリミア以外のウクライナ領を編入する野心はないと筆者は見ている。ロシアのインテリジェンス専門家や民族学者は、ウクライナ情勢を安定させる鍵が、東部、南部のウクライナ人がロシア人との複合アイデンティティーを維持し続けることであることを理解している。ロシアが、ウクライナに軍事侵攻することを仮定してみる。住民の圧倒的多数がウクライナ新政権に脅威を覚え、ロシア編入を心から望んでいたクリミアと、東部、南部の住民心理は異なる。一部の住民は、ロシアの侵略に対して武器を取って抵抗する。この地域には軍産複合体が多いので、自動小銃、装甲車を奪取することは容易だ。地元で流血が発生すれば、キエフの中央政府も軍を派遣し、ガリツィアのウクライナ民族至上主義者の義勇兵がそれに加わる。軍事的にはロシア軍が圧倒的に強い。ウクライナ人がロシア軍に殺される状況を目の当たりにして、ウクライナ人とロシア人の複合アイデンティティーを持ってる住民も「ロシアのやり方はひどい」という感情を抱き、ウクライナ人としての民族意識を持つようになる。

この状況は、マスメディアを通じてロシアにも伝えられる。ロシア在住のウクライナ人は約300万人(02年国勢調査)であるが、この人々のロシア人に対する感情も悪化する。その結果、ロシア国内で、ロシア人とウクライナ人間で深刻な民族対立が発生し、国家統合を根本から揺るがすことになりかねない。このような事態の引き金になるウクライナへの軍事介入をロシアが行う可能性は極めて低いと思う。(2014年4月2日脱稿)

※1:日本経済新聞電子版「ウクライナ大統領選、正統政権を訴え親欧米2氏リード 5月に投票、他候補浮上の可能性」(3月31日付)
※2:安倍総理は3月20日の記者会見で「ロシアがクリミア自治共和国の独立を承認し、クリミアをロシアに編入する条約への署名がなされたことは、ウクライナの統一性、主権及び領土の一体性を侵害するものであり、我が国は力を背景とする現状変更の試みを決して看過することはできません」と述べた。

(答える人=佐藤 優(作家、元外務省主任分析官))