なぜぼくは存在するのか? なぜ悪いことをしてはいけないのか? 哲学者・永井均が考える「ほんとうの哲学のやり方」とは

写真拡大

なぜぼくは存在するのか? なぜ悪いことをしてはいけないのか?

3月19日発売の新刊『完成版〈子ども〉のための哲学』では、素朴なギモンを素手で考えるための、ほんとうの哲学のやり方が示されます。

刊行から30年、世代を超えて読み継がれる名著の完成版となる本書より「完成版まえがき」と原本の「まえがき」を公開します。

(本記事は永井均『完成版〈子ども〉のための哲学』より抜粋・編集したものです)

完成版まえがき

今回、「完成版」と名づけられたこの修正加筆版を出していただくこととなった。修正加筆の対象となったのは、ほぼもっぱら「第一の問い」の部分、本書のページでいえば三二頁から一〇三頁まで(原本では三〇頁から  一〇二頁まで)の部分である。その部分にかんして、本文に対する文章上の細かい修正と、内容上の加筆訂正までをおこなった。そのうち、本文の細かい修正は、五二頁から六八頁まで(原本では五〇頁から六六頁まで)の部分と、八四頁から九六頁まで(原本では八二頁から九五頁まで)の部分との、二ヵ所に集中しており、その修正は書いた時点での意図をより明確にするための最小限のものに限られている。それとは別に巻末に、もしいまこの本を書いたならどのように書いたか、という観点から「現在の観点から訂正すべきいくつかの点について」と名づけられた完成版補論が追加された。訂正内容は、すべて哲学的な議論そのものにかんするものである。それらは少なくとも私にとってはきわめて重要な訂正である。

この本が最初に出版された時点で、このような議論はまったく知られていなかった。少なくとも私自身は、私以外の人がこの種のことを考えている例を、一つも知らなかった。とはいえ私自身は、私が知らないだけで、じつはだれかによって類似のことがすでに考えられており、言われてもいるに違いない、と思っていた。それを自分ですべて調べ尽くすことは無理な相談なので、逆にこちらから提示してみて、それを探知できる機会が与えられたことを、嬉しく感じたのをよく覚えている。

結果としては、この種の問題を子どものころに漠然と考えたことがある人は多い(それはこの本の趣旨には合致している)にもかかわらず、それが哲学の問題として表立って明示的に提出されたことは、その時点で私がすでに知っていた中期ウィトゲンシュタインを除けば、「ない」といえるようであった。少なくとも「哲学」の伝統の中にはないことが明らかになった。これは大変に不思議なことのように私には思われた。というのは、私の提示した問題は、それを思いつくのに一片の才能も必要としない、きわめて単純で、むしろ幼稚なものだ、と少なくとも私には思われたからである。そして私には、にもかかわらずこれは、これとは異なる多くの哲学的問題に関係しており、それどころかそれらの多くはじつはこれに端を発しているように思われたのである。

そう書いていて、思い出したことがあるので、一つの哲学史的事実として、ここに記しておこう。私はこの本を、多少面識があった大森荘蔵氏にも贈呈した。大森氏のような方がこのような議論をどう思うか気になっていたが、病床にあった氏にそれを伺う機会はなかった。ところがそのころ別の著作の関係で頻繁にお会いすることになった、産業図書の社長(兼哲学系編集者)であられた江面(え づら)竹彦氏が大森氏のお見舞いに行かれ、なんと偶然にもこの本についてのお話をされ、大森氏がこの本の問題提起に「賛成」されていた(なんと「後半」も含めて!)との情報を得た。この情報は当時の私をおおいに喜ばせた。大森氏の支援は心強かったが、同時に僭越ながら、大森氏こそがこの問題を論じるべきであったのに、と強く思った。

当時においてすでに私は、表現の仕方にまずい点は多々あるにしても、この問題提起が、現実に存在する問題を指摘しているという意味において、一つの真理を射当てていることに疑う余地はない、とは思っていたのだが、それを位置づけることにはまったく成功していなかった。現在では、この問題が波及する領域はかつて考えていたよりもはるかに広い、と考えるにいたっている。その一端は、今回加筆された「完成版補論」にも示されているとおりである。

※次ページでは、1996年刊行時の「はじめに」が読めます。

原本版「はじめに」

この本は、〈子ども〉のための哲学入門書である。〈子ども〉といっても、実際の年齢が子どもである必要はない。まあ、さしあたって、子どもの心をもった、という程度の意味に理解してもらえばいい。

この本のもう一つの特徴は、自分で哲学をするための入門書だ、という点にある。野球の入門書だって、将棋の入門書だって、プロ野球やプロ将棋の鑑賞の仕方ではなくて、自分で野球や将棋をするための入門書だ。哲学だってそうだ、というのがぼくの考えである。イチローの野球や羽生(は ぶ)善治の将棋について、いっぱしのことが言えても、自分で草野球もへぼ将棋もできないんじゃ、話にならない。哲学だってそうだ。

なぜぼくがそう考えるようになったかと言えば、たまたまぼく自身が、哲学を学ぶまえに自分で哲学をしはじめてしまったからである。はじめのうち、ぼくも自分の勝手なやり方に自信がもてなかった。こんな勝手なことをやっていていいのだろうか、と心配したものだ。でも最近になって、四十歳も過ぎて図々しくなったせいか、結局、ぼくのやり方が正しかったのではないか、と思うようになった。ひとことで言えば、哲学とは、何よりもまずするものであって、学ぶのは二の次でいいのだ、いや二の次でなければいけないのだ、と思いはじめたというわけだ。

この本であつかわれている問題は二つだけで、どちらもぼく自身が子どものころからずっと考えてきた問題だ。どちらを先に読んでもらってもかまわない。興味があるほうから(あるいは興味があるほうだけ)読んでください。哲学とは何か、についてのぼくの考えをまず知りたければ、「問いの前に」と「問いの合間に」の前半と「問いの後に」を、先に読んでください。

抽象的な議論のつながりは、よく考えて、ぜひついていってほしいと思うが、とくに人名が出てくるところなどは、適当に読みとばしてかまわない。だれそれの言っていることはどうだ、というようなことを書いているところは、ちょっとついでに言ってみただけで、どうでもいいところだから。

もっとも、さらにいえば、ぼくが自分の議論を展開している箇所も、その内容そのものは、ほんとうはどうでもいいのだ。ただ、いわば素手(す で)で考えていくやり方のようなものをつかんでもらえれば、目的は達せられたことになる。要するに、ぼくの思想に共鳴しないで、ぼくの思考に共感してほしい、ということである。

なお、これはもともと、講談社のPR雑誌「本」に一九九四年九月号から九五年八月号まで連載されたもので、そのため、各章が前回の議論をまとめて次の話にはいるという話の進め方になっている。この方式はなかなかいいと思ったので、各章の内容は多少加筆訂正を加えたが、章の区切り方などは連載時のままにした。

日本の哲学者にはこの不条理な世界がどう映っていたのか…生き方が変わる「最強のヒント」