●目が行ってしまう二階堂ふみの存在感
三谷幸喜のオリジナル脚本で、1984年の渋谷「八分坂」という商店街を舞台にした群像劇のフジテレビ系ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(毎週水曜22:00〜 ※TVer、FOD、Netflixで配信)の第7話が、12日に放送。今回は、俳優陣の“芝居”に着目して3つの見どころを紹介するほか、菊地凛子扮する「おばば」の“異物感”について考えていきたい。

(左から)大水洋介、菅田将暉 (C)フジテレビ

○【第7話あらすじ】収入が振るわない中で仲間割れ…?

久部三成(菅田将暉)は大御所俳優・是尾礼三郎(浅野和之)を迎えて稽古する日々を送っていた。『夏の夜の夢』の初日公演から1週間が経ったが観客は思ったほど伸びていない。売り上げは目標の半分にも満たない状況だが、来週からはシェイクスピア後期の名作『冬物語』を上演すると久部は息巻くのだった。

支配人・浅野大門(野添義弘)の妻・フレ(長野里美)は、「逃げるが勝ち」だと言い、売上金を持って田舎へ帰ろうと大門を誘う。しかし、「是尾礼三郎の復活は演劇界にとっても大ニュースです」と熱弁する久部の勢いに負け、大門は「もう一度、あんたに賭けてみる」と決意を固める。

翌朝、オーナーのジェシー才賀(シルビア・グラブ)がやってくる。「今週の売り上げです」とノルマの封筒を差し出す大門だが、実は小細工があり…。さらにお笑いコンビ「コントオブキングス」にも危機が迫る。テレビのレギュラーが決まったのだが、それは王子はるお(大水洋介)のみ。苦悩する王子、複雑な想いの彗星フォルモン(西村瑞樹)…。

久部による自分勝手な迷走する説得に結局、王子は独り立ちをし、WS劇場からも去ることになる。波乱続きの久部劇場だが、そこで久部はひとりこっそりと立ち稽古をするトニー安藤(市原隼人)を目撃。その芝居の上達ぶりにさまざまな想いが交錯し、涙するのであった。

○菅田将暉のさまざまな引き出しが見られる

第7話の見どころは大きく分けて3つ。1つは、久部の立ち回りである。とにかく自身の舞台のためには、どんな無茶も、どんな屁理屈も利用するその性格は、まさにシェイクスピア『マクベス』の“欲”と、『夏の夜の夢』のパックの“振り回し”の二軸。

特に、テレビ局から一本釣りされた王子を説得する場面では、(1)自分のために生きるべきと解散・独立を勧め、(2)久部劇場降板の条件を聞いた途端に「ひとりだけ幸せでいいのか」などと掌返し、(3)整形用に王子が150万円を持っていてこれを返すとなると「いや。そのお金は預かる」など無茶苦茶を言い、(4)フォルモンには「王子から預かったお金がある5万円」と嘘をついて怒らせ、(5)残りのお金は久部劇場存続のお金のために支配人・浅野へ渡す…と、マクベスの“欲”丸出し&パックの振り回しそのものが描かれた。

このコミカルさを好演した後のシリアスシーンなど、菅田のさまざまな芝居の引き出しが見られ、見応えは十分。菅田特有の「型にはまらない自由さ」と「リアリティある生々しさ」の両面が見られ、特にファン必見の回ではなかろうか。

また映画監督・黒沢清が「崖っぷちにいる人間を演じるのがうまい」と評したように、ラスト付近での涙の芝居などは、こちらまでもらい泣きしそうになる繊細さ。市原の芝居との相乗効果で、きれいに締めを飾っていた。

○二階堂ふみ×浜辺美波の“キャットファイト”

2つ目は、ヒロイン枠の二階堂ふみと浜辺美波である。まずは二階堂の見る人の心の底まで届く存在感はすでに言うまでもないが、現れた過去の男(生田斗真)との神社前でのキスシーンでの変貌ぶりは見事だった。普段の、リアリストで痛いところも的確にズバズバ切り込む姿や、妖女オーラが舞い降りたような色気が、そのキスシーンの時だけは、“ひとりの女”としての空気感に様変わりする芝居は見事というしかない。

さらに浜辺がここに来て、例の「主役を食いかねない」演技力を垣間見せてきた。出番が増えたこともあるが、これまで癒やしのマスコットキャラのような存在だった樹里(浜辺)が久部劇場での久部に対し、積極的にアドバイスをする姿や、リカ(二階堂)にやり込められ、落ち込む姿。さらにリカのキスシーンを目撃した驚きと、そこへ帰ってきた父・論平(坂東彌十郎)に見せまいとするコミカルさのギャップが楽しく、第7話のよいメリハリを作った。

当然、2人の掛け合いは、その場にいた久部の影が薄まるかのようなオーラの衝突に。それぞれが違うオーラをまとっているため、この言葉での“キャットファイト”は特に印象に残っている。

二階堂ふみ

浜辺美波

(C)フジテレビ

○コンビ解消の葛藤のモチーフは『冬物語』

3つ目はやはり、フォルモンと王子のコンビ解消の葛藤。実はシェイクスピア『冬物語』は、嫉妬による破壊と罪から始まり、赦(ゆる)しの再生とおだやかな調和からなる。つまり「人間の罪を越えて赦し合う奇跡」がテーマだ。まさにフォルモンの嫉妬、王子の悔いの流れはおそらく『冬物語』がモチーフとなっており、同時に今後は、2人が互いを赦し合う流れを予感させている。

もちろん、『もしがく』がそうなるかは分からない。ただ、演じる西村の悔しさと愛、苦渋の決断で作られた笑顔で送り出す場面は実に真に迫っていたし、悩んだ挙げ句、あえてフォルモンの手を取らなかった王子を演じる大水の芝居は、隣にいる王子の父・ポニー(堺正章)の陽気さの対比で胸が痛くなるほどだった。

総じて第7話は“物語”というより、各俳優陣の“芝居”が光った回だったように思う。ぜひその他の俳優陣の芝居にも注目して再度見てもらいたい。

●「空気の密度」で演じる菊地凛子
さて。第7話では、少し始まり方に変化があった。菊地凛子扮する謎の案内人・おばばの長い前説からのスタートとなったのだ。これまで触れてこなかったが、第1話から、おばばの存在にはどこか“異物感”があった。同様に感じた視聴者も少なくないのではないだろうか。今回はここを解説していきたいと思う。

結論から書く。この“異物感”は、彼女が登場人物中、最も“物語の外”にいる人物だからだと筆者は考える。第7話冒頭のセリフで、本作のタイトル『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』を少し意識させる言葉があったが、このおばばは、まさにタイトル中の「舞台」と「楽屋」の“間(はざま)”に存在している人物なのだ。

SNSではこのおばばに対し、「なんかひとりだけ現実感が違う」「存在が浮いている」といった視聴者コメントがちらほら見られる。つまり“異物”。これには菊地という一人の女優としての在り方に理由があると見る。

まず、彼女が一般的に注目されたのはハリウッド映画『バベル』(06年)。アカデミー助演女優賞など多くの映画賞にノミネートされた頃だ。この時、彼女はオーストラリア発のオンライサイト『Female.com.au』で、「セリフに頼らずに“間(ま)”で演じることが芝居の手がかりになった」と語っている。ハリウッド映画であるし、聾唖(ろうあ)の女子高生役だからということもあるが、ここで彼女は自身の“存在感”を“間(ま)”で出す手段を獲得している。

また15年には「こだわり突き詰めていくことは時に狂気」と、“枠”を超えた女優を目指す覚悟を語り、23年の主演映画『658km、陽子の旅』でのインタビューでは、“勢い”だけの芝居ではなく、経験・思考・日常の積み重ねから役へ向かうようになったと。また別インタビューでも、「演技とは人を理解する行為」とその成熟ぶりを語っている。

要は菊地は総じて、セリフではなく「空気の密度」で演じる女優だということだ。「語る」よりも「漂う」ことで感情を伝える。ゆえにテンポが軽妙なテレビドラマでは、その「詩的すぎる」芝居がカットで切り取られることが多く、それでテレビドラマファンからは、“異物感”のある、どこか雰囲気と噛み合わない面が見える場合がある。実際、『LIAR GAME』(07年〜)のシーズン2の葛城リョウ役など多々あった。だが、これを良いと思うか、違和感に思うかは結局、それぞれ個人の好みの問題に収束する。

○「舞台」と「楽屋」の“境界線”の役割

SNSには、今回のおばば役を「樹木希林的に見える」と評するコメントもあった。確かに樹木のように「人としてそこにある苦悩・時間の重さ・軽妙さ」という面での類似点はあるが、樹木が「生活の延長線」で真実を見せた女優だとすれば、菊地は「夢と現実の境界線」で真実を“ちらつかせる”タイプ。つまり、「舞台」と「楽屋」の“境界線”のおばば役としてピッタリなのだ。

菊地のこうした存在感はワールドワイドという意味での利点はある。ただ、日本作品や日本俳優たちとの相性や組み合わせによって評価が揺れやすいというマイナス面も同居する。だが、そのマイナス面こそ今回の“異物感”に、“境界線の人物”としては適合している。ゆえに、第7話の冒頭で長く登場させたのは、菊地という女優を生かす意味でも正解だった、と筆者は思う。さて、おばばは今後、どのように「舞台」と「楽屋」の橋渡しをするのか…菊地の真価が見たい。





(C)フジテレビ

衣輪晋一 きぬわ しんいち メディア研究家。インドネシアでボランティア後に帰国。雑誌「TVガイド」「メンズナックル」など、「マイナビニュース」「ORICON NEWS」「週刊女性PRIME」など、カンテレ公式HP、メルマガ「JEN」、書籍「見てしまった人の怖い話」「さすがといわせる東京選抜グルメ2014」「アジアのいかしたTシャツ」(ネタ提供)、制作会社でのドラマ企画アドバイザーなど幅広く活動中。 この著者の記事一覧はこちら