京都御所(写真: Amstk / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は一条天皇と敦成親王の対面の様子を解説します。

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寛弘5(1008年)10月16日、一条天皇が藤原道長の邸(土御門殿)に行幸される日がやって来ました。

同年9月11日に、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)が無事に敦成親王を出産したため、今回の行幸は一条天皇と敦成親王の、父子対面が果たされるいい機会でありました。

行幸当日、道長は、船々を自邸の池の岸辺に寄せて検分したといいます。船首には、龍の頭や鳥の首などが飾られていたようです。中宮の女房として仕えていた紫式部は、日記のなかで、それらを「まるで生きている姿を思わせるようで、際立つ美しさ」と記しています。

一条天皇の行幸に備えていた紫式部たち

道長だけではありません、女房たちも日の出前からお化粧をして、帝(一条天皇)の行幸に備えていました(帝のご到着は、午前8時頃だったとされています)。

紫式部も、夜明け前にやってきた小少将の君(中宮彰子の女房)とともに、髪を梳くなどして準備をしたそうです。

紫式部は、「行事というものは、だいたい予定より遅れるものだし、帝のご到着は8時頃とはされているものの、お昼頃になるだろう」と予想していました。

そう思って、紫式部たちは余裕をもって過ごしていたのです。

「私の扇は、とても、ありきたり。だからほかのものを人に頼んでいるのだけど。早く持ってきてほしいわ」などと言いながら。

そうしたところに、紫式部らの耳に鼓の音が聞こえてきました。お迎えの船楽(楽人が船に乗って音楽を奏する)です。帝の行列がやって来た合図でもあります。

紫式部たちは慌てて参上しました。その様子を、紫式部は「カッコ悪い」と自嘲しています。

そうして紫式部は、帝の御輿が寝殿の階に寄せられるところを見ることができました。

御輿の担ぎ手に自らを重ねる紫式部

御輿の柄を肩に担いだまま、寝殿に向かう階段を登った担ぎ手たち。登り切った後は、柄を簀子(すのこ)に置き、うつ伏せになっていたそうです。身体を二つ折りにしたようなその姿は、紫式部には「とても苦しそう」に見えたとのこと。

そして、「私もあの担ぎ手と同じだ。何も違わない。女房という高貴な仕事でも、当然、やらなければならないことはあるのだ。少しも安穏とすることはできないのだから」と思ったそうです。仕事に対する認識を新たにしたということでしょうか。

紫式部は御輿を担ぐ男たちに同情しているわけではありませんが、生きていくための仕事は、身分の上下にかかわらず、人間、皆同じだということを紫式部は言いたかったのでしょう。


道長の邸宅跡、土御門第跡(写真: Hyper9 / PIXTA)

帝を迎える邸内は、威風を漂わせていました。中宮の御帳台(天蓋付きのベッド)の西側には、帝の玉座が設けられていました。

そして、いよいよ、父子ご対面です。道長が、生まれて1カ月ほどの若宮(敦成親王)を抱っこして、一条天皇の御前に現れます。

帝が我が子をお抱きになるとき、若宮は少しお泣きになられたといいます。その声は、とても可愛いものだったそう。

そんな中で、邸内ではさまざまな催しがありました。笛や鼓の音が流れるなか、日が暮れていきます。

夜になり、肌寒さを感じさせる頃になっても、帝は表着の下の袙(あこめ:中着)を2枚しか着られていなかったとのこと。そのお姿を見て、左京の命婦は気の毒に思っていました。

筑前の命婦などは「帝のご生母の故院(東三条院)がご存命の際は、この御殿への行幸は、しばしばございました。あのときとか、このときとか……」と昔話を始めそうな気配です。

その様子を見て、周りの女性たちは(相手にしたら、縁起でもないことが起こりそうだ)と思い、放っておいていました。

もし「そのときは、どのような感じだったのですか?」と聞こうものなら、筑前の命婦は、懐かしい思い出の数々から、涙をこぼしかねない状態だったからです。このような、めでたい日に涙を流されては「縁起でもない」と、皆、几帳を隔てて、放っておいたというのです。

縁起ではないという理由のほかにも、筑前の命婦に話しかけては、延々と思い出話を聞かされる「不運」にみまわれると思い、放置したのかもしれません。少し可哀想ではありますが。

管弦の演奏が始まり、宴もクライマックスに。

若宮の可愛らしいお声も、音楽とともに、紫式部の耳に届いていました。

右大臣が「楽の万歳楽が、親王様のお声にぴったり合って聞こえます」と言ったため、左衛門督が「万歳、千秋」(長生きを祝福し、いつまでも健康であるように祝う言葉)と唱えました。

道長も感極まり「以前にも行幸はあったが、どうしてあれしきのことを名誉と思っていたのだろう。こんなに願ってもない行幸もあったのに」と泣かんばかりに喜んでいたそうです。

紫式部は道長の言葉を聞いて「行幸の誉は、今さら言うに及ばないが、そのことを、殿(道長)ご自身がはっきり自覚しておられるのは素晴らしい」と絶賛しました。

そして帝が中宮の御帳台に入ってから間もなく、「夜が更けました。お帰りの輿を用意します」との声がかかります。

帝はお帰りになりました。後ろ髪をひかれる想いだったでしょう。この日、若宮は改めて新しい宮家として、認められたのでした。

紫式部は道長の栄華の輝かしさを記す

翌朝(10月17日朝)、帝のご使者が、朝霧も晴れぬ時刻にやって来たといいます。紫式部は寝過ごしてしまい、使者の姿などは見ることができなかったようですが。

その日、若宮の髪を初めて梳くということが行われたようです。道長もその妻(源倫子)も、数年来の願望がかない、ご機嫌な様子で、親王を可愛がっていました。その様子を紫式部は「その栄華の輝かしさは、2つとない」と描写しています。

道長の栄華も極まれりということでしょうが、いやいや、まだまだこれから。道長にはその後「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」と歌に詠むような幸運がやって来るのです。


(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)