「彰子」を演じた見上愛、「定子」を演じた高畑充希

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数え12歳から彰子のいたたまれない日々

 藤原道長(柄本佑)の長女、彰子(見上愛)が一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内したのは、長保元年(999)、まだ数え12歳のときだった。

 そのころは道長の長兄である道隆(井浦新)の長女で、一条天皇が寵愛した定子(高畑充希)が健在だった。そして、一条天皇と定子の関係は、政略結婚によるカップルとしては異例の「純愛」と呼ぶべきものだった。しかも、彰子を女御とする宣旨(天皇の意向の下達)がくだったその日に、定子は一条の第一皇子、敦康親王を産んでいた。

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 父の道長が彰子を入内させたのは、あくまでも一条の子を出産するためであった。彰子自身も、幼かったとはいえ、そのことを十分認識していたはずである。しかし、当時の状況では、彰子が相手にされる余地など微塵もなかった。彰子は数え12歳のときから、いたたまれない気持ちで日々をすごしてきたに違いない。

「彰子」を演じた見上愛、「定子」を演じた高畑充希

 そんな彰子の後宮の様子や、彰子自身のすごし方については、『紫式部日記』に記されている。それによれば、後宮はかなり地味だった。彰子が女房たちに「ただことなる咎なくて過ぐすを、ただめやすきことに思したる御けしき(出しゃばらず大過なくやり過ごせれば、それが無難なのだという方針)」を示していたからだという。

 そして彰子自身、「あまりものづつみさせ給へる御心に、『何とも言ひ出でじ』『言ひ出でたらむも、後やすく恥じなき人は世に難いもの』と思しならひたり(あまりにも自分を抑えるご気性で、『何も言わないようにしよう』『言ったところで、安心して託せて自分も恥をかかないような人は滅多にいない』とお思いになるのが習慣化している)」と記されている。

 自分の意志とは無関係に内裏に送り込まれながら、「夫」に相手にされず、あたえられた役割を果たせない。数え12歳からそんな環境ですごしていれば、このように引っ込み思案になるのも当然だろう。

定子が誇った母親譲りの漢詩文の教養

 そんな彰子が大きく脱皮する様子が、NHK大河ドラマ「光る君へ」の第35回「中宮の涙」で描かれた。彰子の『源氏物語』についての質問に、それまで「夫」である一条天皇の顔も真っすぐ見られなかった彼女が、一条への思いを募らせていることを読みとったまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)は、こう促した。「その息づくお心のうちを、帝にお伝えなられませ」。そして一条が現れると、彰子は半ば泣きつくように「お上、お慕いしております」と、心のうちをはじめて告白した。

 そして一条天皇は、彰子の思いに応え、彼女の後宮に渡り、ついに彰子は懐妊するのである。

 以後、彰子は大きく成長していくが、ここまで鬱屈していたのは、定子の存在が大きかったからだと思われる。したがって、定子とくらべることで、彰子の実像はより鮮明になるだろう。

 貞元元年(976)に生まれた定子は、父の藤原道隆よりもむしろ、母の高階貴子(板谷由夏)によって特徴づけられる。貴子の父の高階成忠は、文章生(大学寮で文章道を専攻した学生)から大学頭(大学寮の長官)を経て大和守(いまの奈良県にあたる大和国の長官)を務めた人物だった。父譲りだろう、貴子も宮廷女官を務めながら漢詩文に長け、和歌も「儀同三司母」の名で『百人一首』に選ばれている。

 おそらく道隆は、その才能も見越して貴子と結婚した。その結果、娘の定子も漢詩文の教養が十分に身についた聡明な女性に育った。

一条天皇が定子とその後宮に惹かれた理由

『枕草子』に書かれている「香炉峰の雪」の有名なエピソードがある。ある雪の日、定子から「少納言よ、香炉峰の雪やいかならむ」と尋ねられた清少納言(ファーストサマーウイカ)は、唐の詩人、白居易の漢詩の一説に「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」と書かれていたのをとっさに思い出し、御簾を上げさせたという話である。この場面は「光る君へ」の第16回「華の影」(4月21日放送)でも取り上げられた。

 平安中期から後期には、漢文の教養は女性にとって必須ではなくなっていた。ところが、定子はこうして謎かけができるほど漢詩文に精通しており、その後宮の女房である清少納言も、それに対応できる漢文学の素養があった。定子の後宮は漢文が読める女房たちの集まりで、こうした教養を活かして天皇を支える場だったと考えられる。

 そこは気が利いた洒落た会話が飛び交うサロンで、貴族たちも知識があって機転が利くような人物でないと、相手にされないほどだった。そんな後宮は、生真面目でオタクと呼べるほどの文学好きだった一条天皇にとっては、非常に刺激的だったのではないだろうか。

 だからこそ、一条天皇は定子の入内後、彼女が兄である藤原伊周(三浦翔平)と弟の隆家(竜星涼)が不祥事を起こした際に彼らをかくまい、衝動的に出家するまで、ほかに女御を置かなかった。そのくらい定子もその後宮も、一条にとって特別なものだったのだろう。

定子の刺激的な後宮の存在感

 一条天皇と定子が、この時代としては非常識な「純愛」を貫いたのも、定子が漢詩文をはじめとする教養が豊かだったことを抜きに考えられない。結果として定子は出家後も、周囲から白眼視されながら、一条との「純愛」路線を改めず、出家したまま敦康親王をふくむ3人の子を産み、彰子が入内して1年余りのち、24歳でこの世を去った。

 しかし、機転が利いたやりとりが日常だった定子の刺激的な後宮は、定子の死後も、『枕草子』の宣伝力も相まって、強烈な存在感をたもち続けた。

 一方、彰子の後宮は、父の道長が出自や育ちのよさを基準に女房たちを厳選し、定子の後宮との差別化を図ろうとしていたが、それが功を奏したとは思えなかった。要するに、彰子の後宮はお嬢様集団にすぎず、「香炉峰の雪」のエピソードのような当意即妙が期待できる場ではなかった。そもそも道長は、彰子に漢詩文を教えていなかった。

 彰子は、話に伝えられる定子の後宮のような雰囲気には、とてもついていけないと思ったようだ。だから冒頭で述べたように、周囲に無難にすごすように指示し、自分自身もなにも主張せず、存在感を消してすごそうと決意したものと思われる。

 しかし、12歳で入内した彰子も20歳になり、一条天皇と心を通わせるための道を模索しはじめる。志したのはやはり漢詩文だった。

みずから覚醒し努力した成果

 彰子は寛弘4年(1007)末に懐妊すると、翌寛弘5年(1008)の中ごろからか(その前年からという主張もある)、紫式部から漢文の講義を受けるようになった。『紫式部日記』によれば、彰子自身が漢文を知りたそうにしていたので、講義することになったという。

 一条天皇は『源氏物語』を女房に読ませ、「この作者は『日本書紀』を読んでいる」と、ただちに見抜いた。見抜けるだけの漢文の知識があったからだが、このような場面に触れるにつけ、彰子は自分が漢文を知らないこと、それがゆえに定子のように一条天皇の心とつながれないことを、痛感したのではないだろうか。

 こうして紫式部の講義がはじまったが、テキストに選ばれたのは、唐の詩人、白楽天の詩文集『白氏文集』のなかでも、儒教的な色彩が濃く、一条天皇の好みに合う「新楽府」だった。『紫式部日記』によれば、講義は2年続いたというから、彰子の根気はなかなかのものだった。それは「夫」たる一条天皇を知り、また、一条から尊重してもらい、「夫」との関係性を深めたいという気持ちに根差していたのではないだろうか。

 定子は母親から漢文の教養を仕込まれ、幼少期から自然に身についていた。一方、彰子は漢文を知らないコンプレックスをいだいたのちに、一定の年齢になってから、自分の意志で学んだ。

 彰子は「新楽府」を学んでから急成長している。父の道長にも厳しく意見するようになり、一条天皇の没後は父を支え、父の没後も積極的に政治に口を出し、弟の頼通らを支え、天皇の母として君臨し、長く影響力を保持して87歳で生涯を終えた。

 定子のサロンという敵わないものを意識し、重圧に耐えられない時期を経験しながら、自分の意志で努力して教養を修得するなどした彰子。24歳で早世した定子と一概にはくらべられないが、彰子はわざと存在感を消していたころが信じられないほど、存在感でも定子をはるかに超え、「国母」として長く君臨した。みずから覚醒し、みずから努力をした経験が活きたのではなかったか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部