鉄道とクレカ業者「タッチ決済」駆け引きの裏側
鉄道各社で導入が広がるクレジットカードのタッチ決済(写真:東急電鉄)
ひと昔前までは、クレジットカードによる決済といえば、一定の金額以上の取引が対象だったが、タッチ決済の導入で最近は少額の買い物でもタッチ決済という例が増えている。
全国の交通事業者の間でもタッチ決済が急速に普及している。利用者が行う一連の動作はSuica(スイカ)やPASMO(パスモ)などの交通系ICカードと変わらない。前登録もチャージも必要ない。タッチ決済に対応したクレジットカード、デビットカードや同カードが設定されたスマートフォンなどを改札機の専用読み取り機にかざすだけで乗車が可能となる。
改札を出る際はカードを読み取り機にかざすと瞬時に移動距離に応じた運賃が支払われる、いわゆる「後払い乗車サービス」である。
「インバウンド向け」として普及
国内では国際カード首位のVisa(ビザ)が普及に力を入れていることもあり、「ビザタッチ」と呼ばれることもあったが、現在はVisaだけでなくJCBなど他ブランドのカードへの対応も進んでおり、タッチ決済のほうが呼び方としてはふさわしい。
交通事業におけるタッチ決済の歴史は浅い。国内初の事例はバスで2020年7月、みちのりホールディングス(HD)傘下の茨城交通が運行する勝田・東海―東京線の高速バスだった。鉄道業界初の事例は2020年11月、WILLER(ウィラー)グループの京都丹後鉄道である。
その後は2021年4月に南海電鉄、2022年5月から福岡市地下鉄など大手私鉄や公営地下鉄も追随した。
このときは海外からの旅行者は交通系ICカードを持っていないことが多く、インバウンド向けサービスの一環という側面があった。空港駅からタッチ決済で主要駅に向かい、その後はあらためてインバウンド向けの企画乗車券を購入するといった活用が想定されていたようだ。
福岡市地下鉄は全3路線36駅でタッチ決済が使える(編集部撮影)
その後も普及は進んだ。タッチ決済の交通系プラットフォーム「stera transit(ステラトランジット)」を提供する三井住友カードによれば、同システムを導入した鉄道・バス事業者数は2023年度に120に達した。2024年度には180、2025年度には230まで伸びるといい、大手民鉄16社、公営地下鉄8社の駅の7割がタッチ決済に対応する予定だとしている。こうなってくると、もはやインバウンド向けの施策とはというよりも、一般の利用者全般を対象とした施策といってよいだろう
東急が導入した狙いは?
東急電鉄は2024年5月からタッチ決済を世田谷線を除く全線で導入している。Visa、JCB、American Expressなどの主要カードが利用可能。Master Cardは現状では対象外だが順次追加を予定しているという。
「決して交通系ICカードに対抗するわけではなく、あくまで決済手段を増やし、顧客利便性を高めたいというのが狙いだ」と、広報・マーケティング部CX・マーケティング課の関根司主事が説明する。改札口に設置された読み取り機の数はまだ少ないが、カードをかざすと出入りができる点では交通系ICカードとまったく変わりない。残高不足になったらチャージする必要がある交通系ICカードよりも便利という考え方もできるだろう。
さらに、東急電鉄は7月29日から8月11日までの期間、Visaカードでタッチ決済を利用すると初乗り運賃に相当する140円をキャッシュバックするキャンペーンを実施した。
キャンペーン期間中の実績について、同社の伊藤篤志専務執行役員は「件数で2倍、利用者数で3倍増えた」と説明する。「初めて利用する人が増えた」としており、タッチ決済の認知度拡大で効果があったようだ。
8月20日から9月19日まではJCBカードを使ってタッチ決済で運賃を支払うと通常運賃から50%オフとなるキャンペーンを実施している。上限は500円だ。
東京メトロの路線や相鉄線など相互直通先には対応していないため、改札の出入りが東急線内で完結する必要があるが、東急線限定という特性を逆手に取り、関根主事は「沿線域内での鉄道利用を促したい」と意気込む。
たとえば、近くの駅で下車して食事や買い物を楽しめば、鉄道利用も増えるし沿線の活性化にもつながる。沿線の店舗で使ったクレジットカードで、駅でもタッチ決済すれば運賃を割り引くといった施策も考えられるだろう。
その意味では他社線と接続しない世田谷線はタッチ決済に適しているといえる。世田谷線でも2024年内に開始したいという。
東急は世田谷線でもタッチ決済を導入する意向だ(編集部撮影)
JR東日本はどう考えている?
ところで、東急線と接続する他社線の状況はどうか。有楽町線、副都心線、田園都市線などが東急線と相互直通する東京メトロは2023年8月、タッチ決済の実証実験を2024年度中に始めると発表した。
最新の状況について同社に確認したところ、「現在は準備中。時期は決まっていないが2024年度中に開始する」とのことだった。計画では事前購入した企画乗車券を使ったサービスにとどまるが、実証実験の実績を踏まえ、将来の後払いサービスの実施について検討するという。東急も最初は事前購入した企画乗車券を使ったサービスからスタートしているので、東京メトロもこの流れに沿ったものといえる。
東京メトロ虎ノ門ヒルズ駅の改札。同社も2024年度中にタッチ決済の実証実験を開始する予定(編集部撮影)
首都圏の鉄道網をがっちりと握っているJR東日本がタッチ決済を導入すれば、普及が加速化することは間違いないが、目下のJR東日本はJREバンクの運営開始など「Suica経済圏」の拡大に注力している。
タッチ決済の導入について、喜㔟陽一社長は「具体的には考えていない」としており、「Suicaの利便性、競争力を高めていくことが基本的な戦略」という。とはいえ、タッチ決済をまるで無視しているわけでもなく、将来の普及状況を見ながら柔軟に考えていきたいようだ。JR西日本も同様で、関西でも大手私鉄各社がタッチ決済を導入する動きが増えているが、「タッチ決済の導入は予定していない」とのことだった。
ここまでは、鉄道事業者側の取り組みを見てきたが、クレジットカード業者にも狙いがある。ビザ・ワールドワイド・ジャパンによれば、世界のVisaの対面取引に占めるタッチ決済の比率は年々高まっており、現在では8割に達しているという。たとえ少額でもあっても決済額が増えれば、クレジットカード業者の収入も増えることは想像にかたくない。
日本はどうか。世界の状況に比べると遅れてはいるものの、ビザ・ワールドワイド・ジャパンのシータン・キトニー社長が「日本でもタッチ決済は急速に拡大している」と話すとおり、日本の実店舗でのVisa利用件数に占めるタッチ決済の比率は2021年が7%、2022年が13%、2023年が25%と倍々ゲームで伸びている。
ビザ・ワールドワイド・ジャパンのシータン・キトニー社長(記者撮影)
その牽引役として期待されるのが公共交通のタッチ決済である。公共交通でタッチ決済を利用する人は街中のコンビニや飲食店などでタッチ決済を行うだろうし、その逆もあるだろう。
交通系ICカードとのすみ分けは?
世界では独自の決済インフラを維持するためコスト負担が課題になっているという。これを日本に置き換えると、交通系ICカードということになる。
今年5月、熊本県でバスや鉄道を運行する熊本電気鉄道など5社が高額な機器更新費用を理由に交通系ICカードによる決済を12月中旬に停止し、代わってタッチ決済を導入すると発表した。5社は「タッチ決済での交通乗車時の処理速度は現行の交通系ICカードに引けを取らない水準で、ストレスなく利用できる」としている。
交通系ICカードによる決済を停止しタッチ決済に切り替える熊本のバス(編集部撮影)
急速に成長するタッチ決済に交通系ICカードはどう立ち向かうか。熊本県のような事例はほかの地方都市では起きるかもしれないが、首都圏や関西圏では交通系ICカードが広く普及しており、交通系ICカードからタッチ決済に切り替わることはすぐには考えにくい。しばらくの間は交通系ICカードとタッチ決済の共存が続くはずだ。
最近は利用に応じてポイントが貯まるといったキャンペーンが頻繁に展開されている。もし両者の間でポイント付与を競うようになれば、利用者にとっても損な話ではない。
「鉄道最前線」の記事はツイッターでも配信中!最新情報から最近の話題に関連した記事まで紹介します。フォローはこちらから
(大坂 直樹 : 東洋経済 記者)