サクランボを原料としたヴィーショラワイン(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

豊かなワイン文化を持つイタリアには、ブドウではなくサクランボから造られる甘いワインも存在する。

その存在を知る人は少ない

イタリアでも知る人が少ないというサクランボが原料のヴィーショラワインとは、どのようなものか。世界100カ国以上の現地在住日本人ライターたちの集まり「海外書き人クラブ」会員である筆者が、マルケ州に古くから伝わるサクランボワインの生産者に話を聞いた。


なだらかな丘陵地帯にサクランボの花が咲くマルケ州・アンコーナ県(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

イタリアの中部に位置するマルケ州。イタリア半島をブーツに例えると、ちょうどふくらはぎにあたる州だ。

フィレンツェやミラノなどの有名都市に比べ知名度は低いが、古くから港湾都市として栄えた州都アンコーナや、ルネサンス美術の巨匠ラファエロを生んだ芸術の街ウルビーノなど、観光名所も多い。

美食の面では、豊かなアドリア海とアペニン山脈を有すことで海と山の幸に恵まれ、広大な丘陵地帯では古代ローマ時代からワインが造られていた。

「ヴィーショラは地中に広く根を張る強い木です。マルケ州の丘陵地は地盤がもろいため、古くから家の周囲にこの木を植えることで、地盤を安定させてきたのです」

地元でヴィーショラワインを生産しているカルディナーレ家のルーカさん(57)が言う。

ヴィーショラの木は春になると一斉に桜の花を咲かせて人々を魅了する。桜を愛する文化を持つ日本人とマルケ人とは、きっと通じ合えるものがあると思う、とルーカさん。


ヴィーショラワインの製造と販売を行う「カンティーナ・デル・カルディナーレ」を営むルーカさん(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

家庭料理の延長だったワイン

ヴィーショラワインを一般に向けて販売している生産者は多くないなか、カルディナーレ家は1800年代の古いレシピを忠実に守るヴィーショラワイン醸造家だ。

「もともと売るために造るのではなくて、どの家にもある家庭料理の延長みたいなものでした」とルーカさん。かつては各家庭にオリジナルのレシピがあり、自分たちが飲む分は自分たちで手造りするのが普通だった。

「父の造るヴィーショラワインは、地元でも評判でした。だから父は思い切って仕事をやめ、ワイン造りに専念したんです」

地元で愛されてきたカルディナーレ家のヴィーショラワイン。 この伝統を後世に残していこう!と本格的に生産し始めたのが、2005年。父亡き後は子どもたちが支え合って、家族の味を引き継いでいる。

ヴィーショラの果実は小粒で、そのまま食べるとかなり酸っぱい。

「母はヴィーショラ独特の酸っぱさが好きで、ひょいっと実を摘んで、よく食べていたものです」。そう言って、ルーカさんの妹のジゼッレ(55)さんは笑う。


小粒だがギュッと味が濃縮したヴィーショラの実(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

50日ほどかけじっくり発酵

ワイン造りは、6月に真っ赤に熟した実を手作業で収穫するところから始まる。収穫した実と砂糖を広口の瓶に入れ、50日ほど太陽に当てながら発酵させる。

「私が子どもの頃は、どの家にもこの瓶詰めがあったんです。子どもたちは大人の目を盗んで、ヴィーショラの実を取り出して食べていました。砂糖漬けになったヴィーショラはとっても甘くて、あめ玉みたいなんですよ」(ジゼッレさん)

瓶をときどき揺すりながら、果肉から真っ赤なシロップが出てくるのを気長に待つ日々。カルディナーレ家にとってヴィーショラワインは、家族で過ごした幸せな記憶と、切っても切れない関係にあるようだ。

最初の発酵が終わると、ワインの素ともいえるモストというブドウ果汁を加え、6カ月間かけてワインへと変化させていく。仕上げに、途中の工程で取っておいたサクランボ果汁を加えて、樽の中で熟成させる。


「女性を虜にする」といわれる、魔性の魅力を持ったワイン(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ)

ヴィーショラワインは、食後のデザートワインとしてふるまわれる。

甘みの中に、サクランボが持つ爽やかさが引き立つ。飲みやすさと華やかさに加え、ヴィーショラのしたたかさも感じさせる。ヴィーショラワインの甘みはのどの奥に残るくどさがない。筆者はあまり甘い飲み物が得意ではないが、舌の上で転がしてゆっくりと味わいたい気持ちになった。

「ヴィーショラはこの土地に住む人々にとって、とても身近な存在なんです。貴族や農民といった区別なく、すべての人々がこのワインを愛してきました」とジゼッレさん。

「薬効を期待して製造」の過去

ヴィーショラワインがいつ頃から造られていたのか正確な記録はないが、薬効を期待されていたという側面もありそうだ。1583年にイタリアの医師、ピサネッリが書いた食事療法の本の中で、ヴィーショラは「コレラの解熱、痰の粘性を下げ、食欲を増進させる」とある。

実際、ヴィーショラにはポリフェノールとアントシアニンが豊富で、抗酸化作用や抗炎症作用がある。鉄分やマグネシウム、カリウム、食物繊維も多く、美肌やアンチエイジング効果も期待できる。

農民の間では、強壮効果や媚薬効果を持つワインとして、「魔女の血」と呼ばれていた一方で、貴族や聖職者たちの間では、「天使のワイン」と呼ばれ、教会のミサ用に使われたこともあるという。


まるで本物の宝石のような鮮やかなルビー色は、ヴィーショラならでは(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

家族の絆を大切に、先祖代々受け継がれてきた味を守っているカルディナーレ家だが、この18年の間には、たくさんの苦労があった。その1つが、父の代から大切に育てていた300本もの木を、何者かに無断で伐採されてしまったという悲しい出来事だ。

「近所の人の電話で急いで畑に行くと、すべての木が無残にも切られていたんです。こんな悪意がこの世に存在するなんて……」と、愕然としたと言うジゼッレさん。いまだに犯人は見つかっていない。

しかし彼らはヴィーショラワイン造りを諦めなかった。

それから3年ほどは地道に木の成長を待たねばならなかったが、困難を乗り越えることで得たものもあるという。

「家族で支え合うことはもちろん、地元の人々にもたくさん助けられました。ヴィーショラワインという私たちマルケ人の伝統が、 人々を団結させてくれた」。困難な時期があったからこそ、地域が一丸となって助け合えるようになったのだとジゼッレさんは言う。


ヴィーショラのジャム。イタリアで最も権威あるガンベロ・ロッソ社発行の食の格付けガイドブック「トップ・イタリアン・フード」に掲載されるなど、高い評価を受けている(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

桜の花の季節に思いを馳せて

ルーカさんは今、日本の「花見」の文化に興味があるという。「僕たちも、ヴィーショラの花の季節には特別な思い入れがあります。ぜひ、ここでも日本人のように花を見るフェスタを開いてみたい」。

春を告げ咲き乱れる桜の花は、その年の豊かな収穫を期待させてくれる。いつかマルケ州の丘陵地で、花を愛でながらヴィーショラワインを味わう祭りが実現するかもしれない。


伝統を引き継いでいく郷土愛、そして新商品にも果敢に取り組んでいくチャレンジ精神。カルディナーレ家が歩んでいくこれからの道が楽しみだ(写真:カンティーナ・デル・カルディナーレ提供)

取材協力先: Le Cantine del Cardinale
https://cantinedelcardinale.it

(佐藤 モカ : イタリア在住ライター)