鶴見線に2023年12月に投入された新型車両E131系(筆者撮影)

JR鶴見線、南武線、相模線の3路線の歴史を見ると、いずれも私鉄(地方鉄道)として創業し、草創期は貨物輸送に経営の力点を置き、その後、太平洋戦争中に戦時買収によって国有化されたという共通点がある。鶴見線の国有化は1943年、南武線、相模線は1944年であり、今から80年前のことだ。

鶴見線、南武線、相模線にはもう1つ興味深い共通点がある。それは、貨物輸送上の必要性から、多数の支線がかつて存在したことである。今回は鶴見線、南武線、相模線の支線の廃線跡を歩きながら、一般的にはあまり知られていない各路線の歴史を掘り起こしてみたい。

設立100年の鶴見線

鶴見線の前身となった鶴見臨港鉄道は、今から100年前の1924年7月に設立された。初代社長の浅野総一郎は、浅野財閥(現・太平洋セメントの源流の1つである浅野セメントが中核)を率いた人物だ。大正から昭和のはじめにかけて、浅野は自ら見聞したヨーロッパの港湾施設を参考にして、川崎・鶴見の地先に約150万坪の埋め立て地(末広町・安善町・白石町・大川町・扇町など)を造成し、工場を誘致した。

この埋め立て工業地帯の物流を担う目的で建設されたのが鶴見臨港鉄道である。同鉄道は1926年に貨物専用線として開業し、1930年からは旅客営業にも進出した。

鶴見線には今も、海に面する海芝浦駅が有名な海芝浦支線(浅野―海芝浦間)、首都圏で最後まで旧型国電車両が走った大川支線(武蔵白石―大川間)があるが、かつてはほかにも石油支線、鶴見川口支線が存在した。

石油支線は1926年4月、安善町にあった日本石油、ライジングサン石油、スタンダード石油の製油所からの石油輸送を目的として開業。1930年から1938年の間は旅客輸送も行った。


1931年修正測量の「安善町」地形図部分。石油駅の位置に「せきいう」の駅名が見られる(出典:国土地理院)

同支線は1986年に廃止されたが、それ以降も安善駅の構内施設扱いで線路(JR貨物管理・約1km)が残り、現在も不定期ながら米軍の鶴見貯油施設から横田基地への航空燃料輸送に使用されている。

現地に足を運ぶと、支線の終点に設けられていた浜安善駅(開業時は石油駅。国有化時に浜安善に改称)跡地には、当時のコンクリート製の車止めが残っている。


取り壊される前の浜安善駅舎。「東京南鉄道管理局 浜安善駅」の駅名標が見られる(出典:Wikipedia=パブリックドメイン)


浜安善駅の遺構であるコンクリート製の車止め(筆者撮影)

また、浜安善駅跡のやや手前(北側)で分岐した引込線が米軍の貯油施設内へと延びており、フェンス越しにタキ(石油タンク車)が並んでいるのを見ることができる(米軍施設内は撮影禁止)。

知られざる「鶴見川口支線」

石油支線は今も線路が残っていることから知る人も多いと思うが、鶴見川口支線(1982年に廃止)は、ほぼ知られていないのではないか。同支線は1929年から1932年にかけて不況対策として神奈川県が行った埋め立て事業(現・鶴見区末広町1丁目の大部分)完了後、同地区の貨物輸送のために1935年に開業。当初は弁天橋駅を起点に鶴見川口駅との間を結び、国有化時に起点を浅野駅に移している(浅野―鶴見川口間2.4km)。

興味深いのは、この支線の線形だ。浅野駅を出発した貨物列車は、いったん鶴見小野駅上りホーム西側に敷かれた側線に入り、ここでスイッチバックしていた。鶴見小野駅西側のレンガ敷きの遊歩道は、その側線跡である。


鶴見小野駅西側のレンガ敷きの遊歩道が、鶴見川口支線跡の一部だ(筆者撮影)

鶴見小野駅で方向転換した後は、産業道路の南側で鶴見線本線から分岐。その先で日本鋼管(現・JFEスチール)鶴見川工場の引込線と交差し、現在のバス通りに沿って鶴見川口駅へと進んでいた。鶴見川口駅は東京瓦斯(現・東京ガス)横浜工場の門前付近にあり、同工場およびその先の鶴見曹達(ソーダ。現・東亞合成)工場内に引込線が延びていた。


鶴見川口支線の名残といえば、道端に埋め込まれた工部省に由来する「工」の字が刻まれた国鉄の境界杭くらいしかない(筆者撮影)

ただし、1948年測量の地形図を見ると、この時点では浅野駅方面から鶴見川口駅へ直接入線する線形になっている。スイッチバックを行うようになったのは、その後のことのようだ。

次は南武線について見ていこう。同線には今も存在する浜川崎支線(尻手―浜川崎間4.1km)、貨物専用の尻手短絡線(尻手―新鶴見信号場―鶴見間5.4km)以外にも、かつては多くの支線があった。


浜川崎支線の尻手−八丁畷間を走行する205系。E127系投入によりいずれ姿を消すかもしれないが、2024年1月現在は高頻度で運用されている(筆者撮影)

南武線の起源は、1919年に鉄道院に敷設免許を出願した多摩川砂利鉄道だ。当時は鉄道・道路の整備や、鉄筋コンクリート建築の登場による用材としての利用のほか、前述した浅野総一郎らによる鶴見・川崎の臨海部埋め立てなどで大量の砂利が必要とされた時代だった。

こうした背景から多摩川流域では、玉川電気鉄道(後の東急玉川線、1907年開業)、東京砂利鉄道(国分寺―下河原間、1910年開業)、京王電気軌道(現・京王電鉄、1913年開業)、多摩鉄道(後の西武多摩川線、1917年開業)などが砂利輸送を行っていた。

多摩川砂利鉄道は、こうした先行企業を追いかける形で多摩川の砂利採集・輸送を目的として計画され(ただし、一般旅客貨物輸送も当初から目的とした)、南武鉄道に社名変更後、1927年3月に川崎―登戸間の本線(17.2km)および矢向―川崎河岸間の貨物支線(1.6km)を開業させた。

矢向から分岐「砂利輸送」の貨物支線

南武鉄道の砂利採集・輸送がどのように行われていたのかを具体的に見ると、沿線の宿河原と中野島に砂利採取場があり、ここで採取した砂利を貨物列車で川崎河岸駅まで運び、船や艀(はしけ)に積み替え、さらに目的地まで運んだ。川崎河岸駅の砂利の船積み設備については、『南武線いまむかし』(原田勝正著)に次の記述がある。

「多摩川右岸につくった船溜の上に、いくつものじょうごの口が斜めに突き出ていて、その上に貨車を引き込む線路が走っている。砂利などを積んだ貨物列車が到着すると、貨車の側板を倒す。するとそのまま、このじょうごから船に荷を卸すことができる」


1928年修正測図「矢口」地形図部分。多摩川河畔に向かって進む貨物線と川崎河岸駅が描かれている(出典:国土地理院)


川崎河岸駅跡の緑道公園。かつてはこの先の河畔まで線路が延び、砂利の船積み施設があった(筆者撮影)

この矢向―川崎河岸間の貨物支線は1972年に廃止され、現在は廃線跡の大半が「さいわい緑道」という遊歩道となっており、川崎河岸駅跡は緑道公園として整備されている。

だが、残念ながら貨物線がこの場所を走った痕跡は、遊歩道の途中に立てられている「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と刻まれた記念碑くらいしかない。


「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と刻まれた記念碑。南武鉄道開業時は関東大震災からの復興期に当たり、大量の砂利が必要とされた(筆者撮影)

続いて、砂利採取場の跡も見にいこう。宿河原と中野島には本線から分岐し、河原の砂利採取場へと続く砂利採取線が敷設されていた。このうち中野島は、宅地開発等により廃線跡は消え去っているが、宿河原には今も廃線跡が道路として残っているので歩いてみた。


宿河原の砂利採取線跡の弧を描く道路(筆者撮影)

宿河原駅改札を出て跨線橋で駅北側に渡ると、いかにも鉄道廃線らしい弧を描きながら多摩川に向かって続く道路が見える。この道路は500mほどで多摩川の堤防に突き当たる。途中、砂利採取線の跡であることを示すようなものは何もない。


1955年修正測量「登戸」地形図部分。中央左に宿河原の砂利採取線が描かれている(出典:国土地理院)

こうした南武鉄道沿線の砂利採取場は多摩川下流域に位置していたため、上流域での採取が進むにつれて砂利の供給が不十分となり、1930年代半ばには当局による採取制限が始まった。そのため南武鉄道は「上流の青梅電気鉄道沿線で委託採掘をおこなうようになって、事業を維持」(『神奈川の鉄道』青木栄一ほか)したというから、宿河原・中野島の砂利採取線が活躍した期間はそんなに長くはなかったのだろう。

青梅から臨海部へ「石灰石」一貫輸送

南武鉄道が輸送したのは砂利だけではなかった。セメントの原料や鉄鋼生産の副原料として使われる石灰石も重要な輸送品だった。石灰石を輸送したのは、浅野財閥の影響によるところが大きい。

浅野財閥は青梅鉄道(現・JR青梅線 1894年開業)や五日市鉄道(現・JR五日市線 1925年開業)を傘下に収め、その沿線で石灰石の採掘・輸送を行っていた。だが、川崎臨海部にある浅野セメント川崎工場や日本鋼管(浅野総一郎の娘婿・白石元治郎が社長)の工場へ石灰石を輸送するには中央線、山手線、東海道線経由で大きく迂回しなければならなかった。

そこで目をつけたのが、南武鉄道だった。川崎―立川間が完成すれば短絡ルートで石灰石を運ぶことができるようになるため、建設資金の調達に苦しんでいた南武鉄道に対し、浅野が出資したのだ。そして、1929年12月に本線を立川まで全線開業させ、1930年3月には浜川崎支線を開業し、浜川崎駅で鶴見臨港鉄道とも連絡させた。これにより青梅方面から川崎・鶴見臨海部まで浅野系資本の鉄道のみによる一貫輸送体系ができあがったのである。

このほか南武線には、1929年の新鶴見操車場の開設にともない、向河原駅から品鶴線(現・横須賀線ルート)への短絡線として敷設された貨物支線(1973年廃止。廃線跡は「市ノ坪緑道」として整備)や、小田急線の稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)駅から南武線の宿河原駅までを結び、小田急線との車両の貸し借りや砂利輸送に使われた登戸連絡線(1967年廃止)なども存在した。


向河原駅から品鶴線への短絡線として整備された貨物線跡の「市ノ坪緑道」入り口(筆者撮影)

最後に見るのは相模線だ。相模線といえば寒川―西寒川間(1.5km)を結んだ西寒川支線が知られている。相模線の前身・相模鉄道時代の1922年5月に、相模川で採取した砂利輸送のための貨物線として開業(当初は、寒川駅起点1.93kmの四之宮駅が終点)し、後に旅客営業も行った。


相模線を走るE131系電車(筆者撮影)

これとは別に、相模鉄道には川寒川支線(寒川―川寒川間1.4km。廃止時の官報に0.9kmとあるのは本線との分岐点からの距離と思われる)という貨物支線も存在した。同支線は本線の茅ケ崎―寒川間と同時に、1921年9月に開業している。

どのような支線だったのか知るために、1921年に測図・1925年に鉄道補入した「伊勢原」と「藤沢」の地形図(寒川文書館所蔵)を見ると、2枚の地形図の境目あたりに川寒川支線が描かれている。そこで両図を合成すると当時の路線の姿が浮かび上がってくる。


1921年測図、1925年鉄道補入の「伊勢原」「藤沢」地形図の部分を合成。中央上に「川寒川駅」、中央に「四之宮駅」の文字が見える(出典:国土地理院、筆者加工)

短命だった「川寒川支線」

寒川駅から西進した川寒川支線と西寒川支線は、現在の県道446号線とクロスするあたりで分岐し、西寒川支線は南西に弧を描くようにして進んでいく。一方、川寒川支線はS字を描きながら北西へ進んでいる。ちなみに相模鉄道本線の寒川―厚木間が延伸開業するのは1926年であり、この地形図が測図された時点での本線の終点は寒川駅だった。

地形図上、「川寒川駅」という文字が書かれているのは現在の県道44号線と圏央道が交差する付近だ。さらに駅の先、現在の県水道の取水堰付近の河川敷まで線路が延びている。

川寒川駅について、より詳しく調べてみよう。同駅に関する資料は少ないが、相模鉄道の当時の事業報告書にいくつか記述が見られる。開業前の段階では単に「砂利停車場」と記載されていたが、1922年6月から「川寒川」と書かれるようになり、「第七回事業報告書」(自1923年6月 至1924年5月)には「川寒川停車場」と記載されている。

「川寒川」というのは少し変わった駅名だが、「砂利の近代史−相模川砂利を中心として(下)−」(内海孝著「寒川町史研究2」掲載)によれば、「川端停車場」とする予定だったところ、同名の駅がすでに夕張線と和歌山線にあったために、川寒川という停車場名になったという。

また、河川敷の砂利採取場から川寒川停車場まで、砂利の「小運搬ノ軌道」(第四回事業報告書)が延びていたという記述も見られる。地形図の河川敷に描かれている線路がこの軌道であり、おそらく採取した砂利をトロッコのようなもので停車場まで運び、貨車に積み込んでいたのだろう。

川寒川支線は1931年11月に廃止された。廃止の理由について寒川町観光ボランティアガイドの森和彦さんは、「理由について明確に書かれた資料は今のところ見つかっていないが、1933年に日本初の広域水道となる神奈川県営水道が創設され、1936年には給水が開始された。おそらく川寒川の砂利採取場所と、取水場所が重なったのではないかと推測している」という。


川寒川支線の廃線跡である相模川の河川敷(筆者撮影)

砂利の枯渇が廃止の要因に?

加えて、川寒川支線の廃止については、次のような情勢も考慮すべきだろう。相模鉄道は1931年4月に厚木―橋本間を延伸開業(全通)させ、同時に厚木以北の砂利採取場の採取権の獲得も進めた。「第二十七回事業報告書」(自1934年12月 至1935年5月)には、入谷停車場(当初は砂利発送用の貨物駅)の設置と座間新戸駅(現・相武台下駅)付近に敷設した砂利採取線についての次の記述が見られる。

「現在採掘中ナル寒川村及有馬村地先相模川ノ砂利ハ余命僅少トナリシヲ以テ今回上流ノ海老名村、座間村及新磯村地先ノ採掘ヲ計画シ新ニ入谷停車場ヲ設置シ又座間新戸停車場ノ側線ヲ延長シテ来期ヨリ営業開始ノ予定ナリ」

橋本までの路線延伸にともない、砂利が枯渇しはじめていた下流域から中流域へと採取場所が移っていった様子がわかる。川寒川支線の廃止は、こうした変化の影響も受けたものと見るべきだろう。

さて、今回は鶴見線、南武線、相模線の支線跡をたどった。廃線になってから、すでに長い時間が経過し、残る資料や痕跡も少ないが、沿線の産業発展に貢献したのはもちろん、輸送した砂利や石灰石などが、東京や横浜など都市の復興・発展にも大きく寄与したことは間違いないのである。


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(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)