今年1月に亡くなった経済評論家の山崎元さんがわが子に伝えたかったこととは?(撮影:今井康一)

経済や金融に関する数多くの書籍を執筆し、ビジネスパーソンからの絶大な支持を受けていた経済評論家の山崎元さんが今年1月に65歳の若さで亡くなった。その山崎さんは医師からの「余命宣告」を機に、大学に合格した息子に宛てて1通の手紙を書いていたという。山崎さんがわが子に伝えたかった「幸福」とはいったいどんなものだったのだろうか。

闘病中に山崎さんが書き下ろした『経済評論家の父から息子への手紙』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

人の幸福感は「自己承認感」でできている

たいていの人間は幸せでありたいと願う。では、幸せを感じる「要素」、あるいは「尺度」は何か。多くの先人がこの問題を考えている。

父(山崎元)はこの問題に暫定的な結論を得た。人の幸福感は殆ど100%が「自分が承認されているという感覚」(「自己承認感」としておこう)でできている。そのように思う。

現実には、たとえば衣食住のコスト・ゼロという訳にはいかないから「豊かさ・お金」が少々必要かもしれないが、要素としては些末だ。また、「健康」は別格かもしれないが、除外する。

お金と自由とは緩やかに交換可能だが、それで幸福か?

「自由度+豊かさ」、「富+名声」、「自由度+豊かさ+人間関係」、「自己決定範囲の大きさ+良い人間関係+社会貢献」、「自由度+豊かさ+モテ具合」、などなどいろいろな組み合わせを考えてみたが、まとめてみた時にいずれも切れ味を欠いた。

少し眺めてみよう。

たとえば、自分にできること、すなわち自由の範囲が大きいことは一般に幸福だとされている。一方、「好きなこと」で稼いで豊かさを得ることは簡単ではない。

むしろ、好きではないことを我慢して稼ぐことが、豊かさへの近道になる場合が多い。

このように自由を我慢してお金に換える交換回路がある一方で、お金があれば、行きたいところに行ける、立派な家に住める、果ては「トロフィー的配偶者」まで手に入る(何のためかは別として)といった自由の範囲の拡大が可能になる(下図)。


出所:『経済評論家の父から息子への手紙』

※外部配信先では図を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください

仮に左下から出発するとして、右回りで右上を目指すか、左回りで右上を目指すか? 世間には左回りが多いように見える(下図)。


出所:『経済評論家の父から息子への手紙』

お金と自由とは緩やかに交換可能だ。

ちなみに、父の職業人生を振り返ると、こんな感じだろうか(下図)。


出所:『経済評論家の父から息子への手紙』

大まかには左回りだ。金融マンとしての後半(外資系証券会社に転職以降)は、そう楽しいものではない時期があった。評論家比率が増えて自由度が増してから楽しくなった。

お金では買えない「ナチュラルに」モテる状態

いくつかの「基準」の組み合わせを試して考えてみた。

すると、一点「モテ具合」という項目が異質で、どうやら妙に重要らしいことが分かった。

各種の経験や豪邸の所有のような自由はお金で買える。名声も買えないことはない。ある種の人間関係までもお金で買えないことはない。

しかし、ナチュラルにモテるという状態をお金で買うことは、難しい。そして、「ナチュラルに」モテているのでないと、本人はかえって精神的に屈折してしまう。

父の観察はどうしても男性に偏るが、有名人や世間的には成功者でも、「この男はモテなくて性格がひねくれた」、「この男は若い時にモテなかったので、こじれた性格になった」と思わせる人物が実に多い。実名は挙げないが、あの人も、あの人も、モテなかったおかげで性格が歪んでしまったことが手に取るように分かる。

父自身は、20代、30代の切実にモテたかった時期にモテなかった悔しさをそれなりに味わっている。だが、「モテない」の度合いは幸い性格を歪めるほどにはひどくなかった(と思っているが、どうだろうか?)。

その後「モテ」が生理的にそれほど切実でなくなってから、状況が少し改善した。従って、「モテない男」の気持ちはもともとよく分かるし、「モテる男」の気持ちもほんの少しだけ分かるようになったつもりでいる。

女性において「モテ」がどれくらい大切なのかは、実感としては分からない。だが、たぶん、男性の場合に近いくらい重要な要素なのだろうと推測できる。

NHKに『ダーウィンが来た!』という番組がある。さまざまな動物の生態が紹介されるのだが、生まれて、厳しい環境をくぐり抜けて運のいい個体が成長し、ほぼ生殖の相手を得るためにだけ競争して死んでいく。特に雄はそうだ。人間もこれに近いのではないか。

モテない男は幸せそうに見えない。

人間の幸福感は「モテ」にかなり近い場所に根源があるらしいが、別の例を考えてみよう。

経済原理性に優先する大きな価値とは

よくある疑問だが、「経済学部の最優秀に近い学生は、実業界に就職したら大いに稼げるだろうに、どうして経済学者を目指すことがあるのだろうか。それは、経済原理に反していないか?」。

論理の上では、効用関数は融通無碍なので「経済原理に反する」ということはないのだが、不思議な現象ではある。

それは、「経済学の研究に加わっている自分と、仲間内からもらえる賞賛」に大きな価値があると感じるからだろう。

「フェラーリを一台貰うよりも、いい論文が一本書けて最高レベルの学術誌に採用され、仲間に賞賛される方が遥かに嬉しい」と思う経済学者は少なくあるまい。「仲間内の賞賛」は、大きな経済価値の期待値に勝る喜びなのだ。

さて、「仲間内の賞賛」に価値が高いことは、経済学者の世界だけに限るわけではない。他の学問でもそうだろうし、各種の芸事やスポーツ、文学やアートの世界でも同様だ。

「私は、仲間の評価ではなく、自分自身の作品(研究)に満足しているので、他人の評価は自分の幸福感に関係ない」と言い張る人がいたら、「それは勘違いでしょう。もう少し素直に考えましょうよ」と言いたい。

そもそも、学問にせよ、芸術にせよ、スポーツやゲームであっても、どのジャンルにせよ過去から現在にかけて多くの他人が創り上げてきたものだ。

どんな芸術性があり、どんな研究が研究として価値を持つかといった諸々が他人にすべてを決められているものではないにせよ、他人の価値観(つまり他人の視線)の影響を受けている。

価値観として個人が自分の自由や創造だと考えているものは、他人が築いた価値観にごく小さなものを付け加えたか、いくつかの選択肢の中から何かを選び取ったに過ぎない。

特定の専門のジャンルでなくても、「美しい響きの言葉」とか、「正義」といった価値尺度は、過去から現在にかけて夥しい他人が形成した感じ方の影響を受けている。

仲間内の評価には「強過ぎる効果」がある

人間は、自分だけで価値観を形成して自分を満足させられるほど高性能にはできていない。その証拠に、「他人の評価は関係ない」と言い張る当人が、芸術作品や論文を世間に発表するではないか!

仲間内で評価されることが人の喜びなのは結構なことだが、現実にはしばしば厄介だ。効果が強過ぎるのだ。

たとえば金融パーソンが良心を麻痺させて理解力の乏しい高齢の顧客に高い手数料の商品を売るのは、組織内での自分の人事評価や出世のためだ。

財務省の官僚が不適切なタイミングであっても増税を決めたがるのも「仲間内の評価」のためだろう。何とくだらなくて、迷惑なことか。

これらはポジティブな評価を求める行動だが、いわゆる「いじめ」では、対象者の仲間内での評価を徹底的にネガティブに貶めることによって、時には自死にまで追い込む効果さえある。

自己承認感によって人をコントロールすることを最も大規模に成功させているのは宗教だろう。

自爆死するテロリストは、宗教に「洗脳」されて、「来世の幸せ」を信じて、自死をも厭わずテロに及ぶと一般的に理解されるようだが、これは本当だろうか?

思うに、宗教の「効用」は、来世の幸福への期待になどあるわけではない。現世で仲間から得られる自己承認感にある。

孤独な人ほどハマりやすい自己承認の落とし穴

「すべての」と言い切る自信はないが、多くの宗教は、信者が来世的な幸福をリアリティを伴って信じているからではなく、現世においてグループ内で自己承認感を得られる「現世利益」を得ることによって成り立っている。


ある種の信者にとって、これを急に失うことは、自死をもってでも避けたい事態だ。

「来世」は、ただ「そうであるかもしれないことが否定はできない状況」として精神的な逃げ道として存在するならそれでいいのだ。

若者でも高齢者でもいい。孤独な人物を見つけたとしよう。彼(彼女)に「場」と「役割」を与えて、仲間内から評価されるような仕組みを作ると、いわゆるマインドコントロールはそう難しくなく可能なのではないか。

厄介なのは、対象者側でもそうした場を求めている場合があることだ。退職した高齢者についてしばしば問題になるのは、会社という場を失った彼(彼女)に居場所がないことだ。

(山崎 元 : 経済評論家)