NHK大河ドラマ「どうする家康」について、「史実とかけ離れている」との批判が相次いでいる。歴史評論家の香原斗志さんは「元凶は、家康の正妻・築山殿の描き方にある。彼女を悲劇のヒロインにしたことで、ドラマ全体に悪影響が及んでいる」という――。
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KDDIの「au発表会 2017 Summer」に浴衣姿で登場した女優の有村架純さん=2017年5月30日、東京都 - 写真=時事通信フォト

■せっかくの歴史ドラマを台無しにしている存在

このところ、当初にくらべると骨太の描写が多くなったように感じられる。NHK大河ドラマ「どうする家康」である。なにより松本潤演じる徳川家康が貫禄を増し、ドラマが引き締まった。また、ムロツヨシが欲望に突き動かされる羽柴秀吉を快演している。酒井忠次(大森南朋)、本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)、井伊直政(板垣李光人)の徳川四天王も、よい意味で存在感を増している。

それだけに、このドラマの背骨を構成し、登場しなくなってもドラマの流れに大きな影響を与え続ける人物の存在が残念に思われる。本能寺の変を3年さかのぼる天正7年(1579)に死去した家康の正室で、有村架純が演じた築山殿(ドラマでは瀬名)だ。

家康とは不仲で、徳川家への謀反にも関与していたと考えられる築山殿を、平和な世を希求しながら理不尽に命を奪われた殉教者のように描いたことが、のちのちまでドラマに負の影響をおよぼしている。

第34回「豊臣の花嫁」では、家康の重臣だった石川数正が秀吉のもとへ出奔したのも、亡き築山殿の遺志をいかす最良の方法を家康に伝えるためだった、という描き方になっていた。それは秀吉とどう向き合うかについて話し合う評定の場面だった。

主戦派の本多忠勝が「何年でも戦い続けて領国を守り抜く」と主張すると、酒井忠次はこう言った。「本当に勝てると思うか? どんな勝ち筋があるというんじゃ。殿も本当はわかっておられるはず。われわれは負けたのだと」。

■石川数正の出奔理由は築山殿という設定

ここまではいいが、忠次は言葉を継いだ。「それを認めることがおできにならぬのは、お心を囚われているからでございましょう」。本多正信(松山ケンイチ)が「なにに?」と尋ねると、忠次は返答した。「いまはなきお方様と信康様。そうでござろう」。「お方様」が築山殿を指すのはいうまでもない。

否定せずに「悪いか? もうだれにもなにも奪わせぬ。わしが、わしが戦なき世をつくる。2人にそう誓ったのじゃ」と答える家康。すると忠勝も「殿を秀吉に跪かせたら、お方様に顔向けできぬ。」と言い、榊原康政も続いた。「殿を天下人にし、戦なき世をつくる。それが平八郎(忠勝)と私の夢だ」。

そこに、なぜか側室の於愛(広瀬アリス)が入ってきて、「お方様がめざした世は、殿がなさなければならぬものなのでございますか。ほかの人が戦なき世をつくるなら、それでもよいのでは」と訴えた。

家康と重臣たちの評定に側室が乗り込むなどありえないが、ともかく、押し花を顔に近づけて忠勝は「数正にはそれが見えておったのかもしれんな。自分が出奔すれば戦はしたくてももうできぬ。それが殿を、みなを、ひいては徳川を守ることだと」と感想を漏らしたのである。

■「天下をとることをあきらめてもよいか」

数正は屋敷に自作の仏像と押し花を残していた。それについて於愛が推測した。「いまはなきあの場所を、数正殿はここに閉じこめたのではありませんか。いつも築山に手を合わせておられたのではありませんか」。庭にたくさんの花が咲いていた築山(築山殿の住居)を思い出させ、彼女が願った平和への願いを家康と家臣たちに伝えるために、数正は押し花を置いていった、というのだ。

それを受けて忠勝は「懐かしい。築山の香りだ」という。正信が「なんとも不器用なお方じゃな」と感想を漏らすと、忠次が「それが石川数正」と継ぎ、家康に「殿、そろそろお心を縛りつけていた鎖、解いてもよろしいのでは。これ以上、お心を苦しめなさるな」と提言した。

家康が泣きながら「平八郎(忠勝)、小平太(康政)、わしは天下をとることをあきらめてもよいか。直政、みな、秀吉に、秀吉に跪いてもよいか」と問うと、重臣たちは「数正のせいじゃ」「やつのせいでわれらは戦えなくなった。悪いのは数正じゃ」などと、嗚咽にむせびながら叫びはじめた。

骨太のドラマは一挙にメルヘンの世界へと舞台転換してしまったのである。

■家中の政争に敗れたから数正は出奔した

こうして「築山殿の亡霊」を描くことで生じた問題は、大雑把にいって3点ほど指摘できる。

ひとつには、石川数正が家中の政争に敗れて出奔したという史実が見えなくなってしまった。続いて、家康が早くから天下をとろうと目論んでいたということが、暗黙の了解になってしまった。最後に、家康がなぜ秀吉に臣従したのか、肝心の理由がわからなくなってしまった。

まず石川数正だが、家康を守りたいという気持ちがあったことを否定する材料はないものの、出奔した理由は、徳川家中の政争に敗れたからだった。秀吉との外交を担当し、秀吉の勢力の強大化を知悉していた数正は、秀吉に人質を出すことを提案したが、主戦派が多数の渦中で総スカンを食らい、孤立無援の状況に置かれた。

黒田基樹氏が「外交取次は外交が失敗すれば、その政治的地位を失ってしまうものであった」(『徳川家康の最新研究』)と記すように、徳川家中にいられなくなり、命さえ危うくなったから、すでにリクルートされていた秀吉のもとに奔ったのである。

■最初から天下をねらっていたわけではない

次に天下についてだが、柴裕之氏はこう書く。「家康は、同時代の『日本国』の態様や社会に規定され、活動した政治権力者であった。そして、彼が天下人になったのは、当初より必然のものではなく、この時代に適った政情への対処が導いた歴史的結果であった」(『徳川家康』)。

すなわち、家康は織田権力、豊臣権力のもとで力を蓄え、たまたま到来した時機に適切に対処できた結果として天下がとれた。後世のわれわれは家康が天下をとったと知っているので、逆算し、家康や家臣団も早い時期からそれをねらっていたと考えがちだが、この時期の家康に、みずから天下をとるという目算があったとは思えない。

ところが「どうする家康」では、かなり早い時期から、家康も家臣たちも天下を意識している。それは「お方様がめざした世」に家康や家臣たちの思いを結びつけるための、強引な設定だというほかない。

そして最後に、家康が秀吉に臣従した理由である。そもそも家康は、天正13年(1585)11月29日に発生した天正地震で秀吉の勢力圏が甚大な被害をこうむらなければ、翌年正月に秀吉の軍に攻められ、成敗されていた可能性が高い。

JR静岡駅北口広場に立つ徳川家康公之像(写真=Akahito Yamabe/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■家康が秀吉の臣下になったわけ

このことはドラマではサラリとやり過ごされてしまったが、家康もさすがに、秀吉との戦力差が日を追って段違いになるのを実感していただろう。天正14年(1586)になると織田信雄の周旋もあり、家康は秀吉に従うことを申し出て、2月8日、秀吉は家康成敗の中止を決めている。

秀吉の妹の旭が家康に嫁いだのは、それを受けてのことだった。続いて上洛を促す秀吉の使者が岡崎を訪れ、秀吉の実母の大政所を三河まで下向させるというので、上洛を約束した。要は、秀吉が強大な戦力を背景に、身内を人質に出してまで臣従を求めてきた以上、もはや断れなかった。そこに「お方様がめざした世」が介在する余地はない。

では、「お方様がめざした世」とはなんなのか。簡単に振り返っておきたい。

ドラマでは、瀬名こと築山殿は自邸である岡崎の築山に、宿敵だった武田氏の重臣をはじめ多くの要人を集めており、家康の家臣たちはそれを不穏な動きとして察知。

そこで家康が家臣らとともに踏み込むと、築山殿は「私たちはなぜ戦をするのでしょう」と語りだし、「奪い合うのではなく与え合うのです」と説いた。すなわち、隣国同士で足りないものを補い合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦は起きない、という主張で、それが「お方様がめざした世」だというのである。

■そんなメルヘンが成立するわけない

もちろん、築山殿がそんなことを思った可能性が少しでもあるなら、ドラマなのだからそこを強調してもいいだろう。だが、領国の境界が常に敵の脅威にさらされ、戦わなければ侵攻され、従属する領主もすぐに離反してしまう戦国の現実下に、こんなメルヘンが成立する余地はなかった。

そもそも築山殿は、家康に対する謀反の首謀者だとされている。天正3年(1575)、家康の嫡男、松平信康の家臣たちが武田勝頼を岡崎城に迎え入れようとし、未然に発覚した大岡弥四郎事件について、平山優氏は「岡崎衆の中核と築山殿の謀議であり、築山殿の積極性が看取できるのである」と記す(『徳川家康と武田勝頼』)。

いわば築山殿は家康と家臣団にとっての敵であり、母に巻き込まれた信康ともどもかばう余地はなかった。家康が自分の意志で妻子を死なせた、というのが現在、研究者のあいだに共通した見解である。

■史実と無関係の「築山殿の亡霊」

ところが脚本家は、築山殿と信康の死という悲劇を「お涙ちょうだい」の場面にするために、史実とは正反対のメルヘンを導入してしまった。そして、その後も史実と無関係の「築山殿の亡霊」に、ドラマは左右され続けている。

家康の心が「お方様がめざした世」に囚われていたなどありえない。「いまはなきあの場所」は謀略の拠点であり、家臣たちが懐かしむ場所では断じてない。

妻子の死で視聴者の涙を誘う――。それだけならいいが、そのために史実や研究者たちの見解と正反対の描き方をし、ドラマがのちのちまで史実と相いれないメルヘンに縛られ続ける。見応えがある場面も増えてきただけに残念である。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)