三井絹子さん(写真中央)。1970年代から国立市で重度障害のある人が住みやすい街づくりをしていくために声を上げてきた(写真:筆者撮影)。

インクルーシブ(inclusive)とは、「全部ひっくるめる」という意。性別や年齢、障害の有無などが異なる、さまざまな人がありのままで参画できる新たな街づくりや、商品・サービスの開発が注目されています。

そんな「インクルーシブな社会」とはどんな社会でしょうか。医療ジャーナリストで介護福祉士の福原麻希さんが、さまざまな取り組みを行っている人や組織、企業を取材し、その糸口を探っていきます。【連載第16回】

今年5月、国立市教育委員会と東京大学大学院教育学研究科は、同市内小中学校で「フルインクルーシブ教育」を実現するための協定を締結すると記者会見をした。

フルインクルーシブ教育とは?

インクルーシブ教育とは、ユネスコの定義によると「すべての人が一般的な教育制度で学習指導を受けられる基本的な権利(基本的人権)*1」であり、「それを保障するためのしくみ*2」をいう。

障害者権利条約の手引きには「インクルーシブ教育とは、障害の有無を問わず、あらゆる生徒が同じ教室で学ぶこと」とされ、「誰もが一緒に学びながら、個別のニーズを満たすことができる教育制度の構築」が求められている*3。

日本でも、関西では1990年代から「障害がある」「日本語がうまく話せない」「貧困や引きこもり」などで勉強が遅れている児童・生徒が、居住区の小中高校の通常学級で学校生活を送ってきた。

この協定では、「フル」インクルーシブ教育を強調する。すべての生徒が登校から下校まで、同じ場所で学校生活を送ることをいい、同大学大学院同研究科附属バリアフリー教育開発研究センター長の小国喜弘教授は、記者会見でこう説明した。

「学校で社会的マイノリティを排除する傾向を拡大させているなかで『どのように学校や学級を、よりインクルーシブな空間に再編すべきか』は、日本の公教育改革の喫緊の課題となっています。今回の連携事業は、そうした改革において先導的な役割を果たすことになると考えています」


国立市教育委員会と東京大学大学院教育学研究科は、今後、同市内小中学校で「フルインクルーシブ教育」を実現するための協定を締結。写真は記者会見の様子(写真:筆者撮影)

同センターは、これまでも大阪市立大空小学校や大阪府吹田市と連携協定を結び、学校運営や授業運営のノウハウを蓄積し、障害の社会モデルに関する教員研修プログラムを開発してきた実績がある。

40年続く「分離教育」の中身

この“フルインクルーシブ教育宣言”は、教育史に刻まれるほどの挑戦といえる。それは、日本では40年以上にわたって障害の有無で学びの場を分ける「分離教育」が続いているからだ。

戦後、学校教育法により、すべての子どもには教育が義務化されたが、障害児に対しては当分の間、猶予・免除とされた。だが、それも削除となり、1979年から障害児への教育も義務化された。

養護学校では、どんなに重い障害があっても、教育によって豊かに発達していくことを目指した。自立と社会参加を目的に個別支援計画を立てたうえで、児童・生徒の障害特性やニーズに合わせて指導した。

一方で、その子どもたちは都市郊外の養護学校*4に集められた。その結果、地域の子どもたちとの接点がほとんどなくなり、近所に友だちができにくく、卒業後は自宅で暮らすにもかかわらず地域になじめなくなった。

障害のない人も、障害のある人との付き合いがなくなったため、どのようにコミュニケーションを取ればいいかわからない人が多くなった。

それでは、どうして国立市が動き始めたのか。国立市は、もともと関係者から「重度障害者にとって住みやすい町」と言われていて、そのことと関係がある。

国立市は「ソーシャル・インクルージョン」の理念をもとに、まちづくりを進めてきた。これは「社会的な包摂」、つまり、誰1人取り残さない地域社会づくりのことで、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」と同じ考えだ。

国立市では国連の採択より早い2005年、当事者の陳情から障害者が当たり前に暮らすための宣言*5を発表し、条例ができた。それらを束ねた「国立市人権を尊重し多様性を認め合う平和なまちづくり基本条例(2019年)」もある。

国立市教育委員会の雨宮和人教育長は記者会見で、国立市における障害者施策の経緯について、こう話した。

「国立市では、重度障害をお持ちの方々が地域で暮らすことに長年、取り組んできました。しかし、教育においては一歩踏み込めていなかった。そこで、『国立市におけるフルインクルーシブって何だろう』ということを関係者とともに対話を重ねながら、作っていきたいと考えています」

人間を人間とも思わない対応

実は、国立市では1970年代から重度障害のある当事者らが行政に声を上げている。しょうがい当事者任意団体「かたつむりの会」(現:NPO法人ワンステップかたつむり国立)を創設した理事長の三井絹子さん(78歳)は、1975年から国立市に住んでいる。食事も排泄も介護が必要で、言葉を話せないため、周囲とは文字板を指さして会話をする。


NPO法人ワンステップかたつむり国立では、フルインクルーシブ教育について知ってもらうために、劇「星の王子さま フルインクルーシブ教育ってな〜に?」を全国で上演している(写真:同法人提供)

三井さんは23歳のとき、当時「東洋一」とうたわれた府中療育センターに入所したが、職員からの性的虐待やいじめなど、「人間を人間とも思わない対応を受けた」と言う。1970年、新聞でその実態を暴露し、「重度障害者も人間です」と声を上げた。それ以降、障害者運動の先頭に立ち、闘ってきた。

しかし、施設で暮らしを変えることは難しかった。そこで外から闘っていく方法に切り替え、30歳で退所した。その2年前、28歳で俊明さん(当時26歳)と結婚し、33歳のとき女児を出産した。出産と同時に、俊明さんは手術が必要な病気で入院したため、地域住民や大学生らが交代で彼女の日常生活と子育てを支援した。

三井さん夫妻は、国立市に住み始めたときに「地域で当たり前のように生きる」と目標を持ったが、当時は、国が派遣する介護ヘルパーの時間が2時間半とあまりにも短かった。それでは生きていけない。市の福祉部と交渉したが難航し、三井さんが文字板で言葉を荒らげることも多かった。

市が介護の必要性を理解するために時間がかかったことから、三井さんは自ら介護のボランティアを探した。だが、ボランティアだけでは介護の担い手に限界がある。そこで市に掛け合い、登録ヘルパー制度を作ってもらった。

三井さんが障害のある人の自立生活を支援し始めると、全国から100人あまりの障害のある人が夫妻を頼って国立市に移り住んだ。運営する「かたつむりの家」で1人暮らしの練習を3カ月積んだあと、部屋を借りて自立していく。


木村英子参議院議員。高校卒業後、施設を拒否して19歳のとき家出し、国立市で自立生活の練習をした(写真:木村英子事務所提供)

れいわ新選組の木村英子参議院議員(58歳)は高校卒業後、施設入所を拒否し、19歳のとき家出した。三井さんが結婚して出産したという記事に感動し、その切り抜きを持って、車いすで国立市まで来た。かたつむりの家は入所の待機者がいる状態だったが、「いま自立しなかったら、一生、施設から出られない」と夫妻に背中を押され、自立の練習を始めた。

三井さんを長年支援してきたのが、無所属の上村和子国立市議会議員(67歳)だ。1999年に市会議員の職に就任以降、24年間、福祉政策を担当してきた。現在は人権政策および総務文教委員会に所属する。

全国初の「障害当事者」枠

上村議員は就任6年目(2004年)に、国立市の地域保健福祉計画に関する策定委員に障害当事者枠を提案し、全国で初めて実現させた。身体障害当事者である三井さんのほか、知的障害当事者、精神障害当事者が参画した。


上村和子国立市議会議員。現在7期25年間の議員生活を送るなか、国立市に「ソーシャル・インクルージョン」の考え方を導入し根付かせた(画像:上村知子国立市議会議員ホームページから。ご本人の了承を得ている)

この行動を後押ししたのが、当時、障害者権利条約策定時のスローガン「私たち抜きに、私たちのことを決めないで(Nothing about us without us)」だった。その後、国立市では基本的考え方とされた。

国立市の行政サービスの特徴は「個別対応」を重視していることという。

「障害の等級でなく、介護保険制度の基準に合わせることもなく、当事者個別の人生、生活状況に応じて、行政が細かく対応してきた」と上村議員は説明する。一般的には65歳以上になると高齢者介護サービスに移行するが、国立市では利用中の障害福祉サービスをそのまま継続できる。

また、国立市では、2009年から市独自の「地域参加型介護サポート事業(パーソナルアシスタント制度)」を導入している。この制度では、障害のある人が知り合いや友人を介護者として選んで、公費で雇用してもらう。

この制度では、地域の介護力を活用するため介護の資格は問わず、たとえ、その日に知り合った人であっても、当事者に介護の方法を教えてもらい、その通り実践していけばよいことにした。

介護者不足が深刻な中、この制度は当事者にとって大変重宝している。その人件費も、当初は国立市が全額負担していたが、2007年からは東京都が半分を負担するようになった。

上村議員は「この取り組みが全国で導入されたら、国の障害福祉サービスで介護者が不足する夜間などの時間を補うことができるのではないか」と提案する。

住民に心のバリアがない地域へ

これらの施策の基盤は、「ソーシャル・インクルージョン」の考え方に基づく。ソーシャル・インクルージョンは、上村議員が当時環境省大臣官房長(後の環境庁事務次官)だった炭谷茂さん(恩賜財団済生会理事長)の著書を読んで知り、国立市議会で広めた。

「炭谷さんが『行政は人権を基本に据えなければいけない。人権行政によって、1人も取り残さないソーシャル・インクルージョンの町は確立する』と話していた。それを国立市に根付かせようとしたのです」

このように、国立市では障害のある人の声を市議会議員と市役所職員が受け止め、信頼で結ばれたトライアングルの絆で時間をかけて「重度の障害があっても住みやすい町」を作ってきた。


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さらに「障害のある人にとって住みやすい町」は、生活を支える制度の整備だけでは作れない。前出の木村議員は、こう強調する。

「障害者が住みやすい町とは、住民同士の心のバリアがないことだと思います。障害の有無で分けることが、差別を生み出す根源です。幼い時からあらゆる場面において分けないことで関係性ができるため、自然と一緒にいるための工夫も考えられるようになります。そのためには、フルインクルーシブ教育の環境を作ることが必要です」

障害のある人の暮らしが町の中で見えて、お互いに関わりを持つことで、初めて住民それぞれが他人ごとでなく、友人ごととして意識を変えていくことにつながるからだ。


JR国立駅の改札口を出たビルにあるスターバックスコーヒーnonowa国立店。聴覚に障害のあるパートナー(従業員)と聴者のパートナーが手話をコミュニケーションツールとする。店内では指文字で表現したサインが象徴的にデザインされている(写真:スターバックスコーヒージャパン株式会社提供)


*1、2 UNESCO 2009
*3 一木玲子他「障害者権利条約一般的意見第4号(わかりやすい版)インクルーシブ教
育を受ける権利」『季刊福祉労働』(171巻)、現代書館、2021年、34-43ページ Committee on the Rights of Persons with Disabilities. Article 24 The right to inclusive education (Plain version). General Comment No.4.2016
*4 2007年、文科省が特別支援教育を導入したことをきっかけに、現在では一部の地域を除いて、養護学校から特別支援学校、支援学校に学校名が変更された
*5 「しょうがいしゃがあたりまえに暮らすまち宣言」(2005年)

(福原 麻希 : 医療ジャーナリスト)